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右門捕物帖(うもんとりものちょう)32 朱彫りの花嫁

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-7 9:52:13 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


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 待つ身には、四半刻しはんときが二刻にも三刻にも思えるような長さでした。
 とっぶり暮れてしまえば、向島もこのあたりになると、まったくもうの影もない。
 雨はやんだが、そのかわり、夕だちあとの夜風が出たとみえて、ざわざわと岸べのあしが気味わるく鳴きながら、まだ暮れたばかりのよいだというのに、まるで深夜のようなさみしさなのです。
「だいじょうぶだいじょうぶ、今さらくよくよ心配したとてどうなるもんでもない。気を大きく持っていなくちゃいけないよ」
「…………」
「なんだね。泣いてばかりおって、しようがないじゃないか。もう少しのしんぼうだから、しっかりしておいでよ」
 しんしんとただひたすらに泣きつづけているお冬をしきりといたわり慰めているところへ、けたたましく表先で呼びたてたのは、まさしく伝六でした。
「どこだ、どこだ。入り口ゃどこだよ。この家にゃ目も鼻もねえじゃねえか。ちょうちんをつけな! ちょうちんをな! 観音さまへ行きゃ大きなやつがぶらさがっているから、なければあれを借りてきなよ」
「あッ、お越しだ。ただいま、ただいま。ただいまおあけいたします……」
 あわててお冬が奥のへやへ駆け込んだのといっしょに、黙々としてはいってきた名人を見ると、越後えちご上布におとし差し、みずぎわだった姿に変わりはないが、その顔いろに曇りが見えるのです。何を訴えて依頼したか、書面のうちに書かれてある変事に対して、何か気に染まぬことでもがあるらしい顔いろでした。
「ようこそ、お出ましくださりました。てまえが幸吉、わざわざお呼びたていたしましてあいすみませぬ」
「…………」
「あの、あの、てまえが書面のぬしの幸吉でござります。何やらご不興の様子でござりますが、何かお気にさわりましたんでございましょうかしら……」
「大さわりだ」
「では、あの、お力をお貸しくださるわけにはまいりませぬか」
「あまりぞっとせぬが、たっての願いとあればしかたがない。ほかの仁に頼むとよかったな」
「ごもっともでござります。いわば私事でござりますゆえ、重々ご迷惑と存じましたが、なにしろ親兄弟にもうっかりとは明かされぬないしょごとでござりまするし、家内めもほかのおかたにお願いして世間に知れたら生きてはおれぬと申しますゆえ、だんなさまなら必ずともに他人へ知れぬよう、ご内密にご詮議せんぎくださることと存じまして、失礼ながらあのようなお願いの書面をさしあげたのでござります」
「伝六は喜ぶだろうが、身どもにはありがた迷惑だったかもしれぬのう」
「へ? なんですかい。あっしが何をどうしたというんですかい」
「黙ってろ。まだはめをはずすには早いんだ。おまえには目の毒、おれには虫の毒、こういう色っぽい詮議をすると、二、三日おまんまがまずいから二の足を踏んだが、すがられてみりゃいやともいえまい。実物を見せてもらおう。花嫁御はどこだ」
「奥でござります。おい。冬! 冬! だんなさまがお力をお貸しくださるとおっしゃいましたぞ! もう心配はない! はよう来てお見せ申せ!」
「…………」
「何を恥ずかしがっているんだ。右門のだんなさまにお見せ申すんなら、ちっとも恥ずかしいことはない。早くせんか!」
 せきたてられて、おずおずとお冬は奥から出てくると、丸あんどんの向こうへ隠れるようにすわりながら、ひた向きにさしうつむいてはじらいつづけていたが、ついに思いを決したか、パッと首筋までもまっかに染めながら、そろりそろりと着物をぬぎかけました。
 おどろいたのは伝六です。なにごとかと思われたのに、目の前でとついだばかりの新嫁にいよめがとつぜんはだを見せようというのです。とちのように目を丸めて、一大事とばかりかたずをのんだその鼻先へ、お冬は火のようにほおを染めながら、恥じに恥じつつ、上半身の玉なすはだをあらわにさらしました。
 同時に目を射たのは、その二の腕に見える奇怪ないれずみです。
「ほほう。なるほど、これでござりまするな」
 うちうろたえて名人の出馬を求めた子細と秘密は、じつにその怪しきいれずみなのでした。名人がいとわしげに心の進まなかった子細もまたこれがため、よしや求められたことではあろうとも、夫以外に犯してならぬ新妻にいづまのはだをまのあたり見ることが心苦しかったからなのです。
 しかし、事ここにいたってはもうちゅうちょはない。
 じっと見ると、ごく小さいいれずみではあるが、いかにも変わった趣向の、いかにもみごとな彫りでした。雪とも思われる白い膚へさながら張りつけたようなたんざく型の朱をさして、まぶしいほどにも澄み渡ったその朱いろの中から、喜七いのち、という五文字が地膚そのままにくっきりと白く浮きあがっているのです。
「なかなか珍しい彫りでござるな。書面によると、当人も知らなかった、そなたも知らなかった、だれも知らなかった。だれも知らぬうちに彫られたとあったが、ほんとうか」
「ほんとうとも、ほんとうとも、そのとおりでござります。いいえ、この幸吉が神にかけてお誓いいたしまする。実を申せば、てまえとこれなる冬は町内どうしで、小さいうちから知った仲でござりました。浮いたうわさ一つあるでなし、夜ふかし夜遊び一つするでなし、隠し男はいうまでもないこと、町内でも評判のほめ者ござりましたゆえ、親たちも大気に入り、てまえも心がすすんでゆうべ式をあげ、天にものぼるような心持ちでここへやって参り、うちそろうていましがたお湯を使おうといたしましたところ、はしなくもこのいれずみが目に止まったのでござります。てまえもぎょうてんしましたが、当人の冬は気を失わんばかりにおどろきまして、知らぬことじゃ、覚えないことじゃ、だいいち喜七という男がどこの人やら、それすらも心当たりがないと申しますゆえ、ただごとならずと、さっそくにだんなさまのところへお願いの書面さしあげたのでござります」
「まことならばいかにも不思議じゃが、冬どのとやらもそのとおりか」
「あい。いつこのようないたずらをされましたやら、少しも覚えござりませぬ。知っておりましたら、いいえ、いいえ、このようなはしたないものを腕に入れておりましたら、いずれはわかること、わたくしとても、そしらぬ顔でとついでまいられるはずはござりませぬ」
「このまえお湯にはいったはいつでござった」
「きのうの夕がた、里を出るまえでござります」
「そのときは別条ありませなんだか」
「ござりませぬ! ござりませぬ! 夕がたお湯を使って、お化粧をしていただいて、式へ参りまして、それからこちらというものは、ただいまここへ参りまするまで横になるおりもないほど忙しゅうござりましたゆえ、いつこんなにだいじな膚をけがされましたのやら、気味がわるいのでござります……」
「なるほどのう。いや、しかと拝見いたしました。もうけっこう、膚をおさめなされい」
 消えも入りたいようなはじらい方であんどんのかげに隠れながら、着物のそでに手を通そうとしたとき、はしなくも名人の目を捕えたのは、その背に見えるなまなましいきゅうあとでした。
「不思議なものがござりまするな。なんの灸でござる」
「にんにく灸のあとでござります」
「なに? にんにく灸とのう! あまり耳にせぬが、なんの病にきくお灸じゃ」
「これをいたしますれば、とついでから気欝きうつの病にかからぬとか申しまして、ゆうべ式へ出がけに、姉さまがわざわざおすえくださったものでござります」
「姉?」
「あい。なくなった母さまの代わりになって、わたくしと弟を育てあげてくださった姉でござります」
「ほほうのう。いや、もうよろしゅうござる。キリシタンバテレンのしわざなら格別、さもないかぎりは、ひとりでにいれずみが膚に浮き上がるはずもござるまい。なんとか詮議の道もたとうゆえ、それまではまずまず仲むつまじゅう語り暮らすが肝心じゃ。――いずれまたのちほど、おじゃまでござった」
 長居は無用とばかり静かに立ち上がると、名人は止めるひまもないうちにもう表のやみの中へ吸われていきました。
「おどろいたね。目がくらくらしやがって、墨田の川がどっちにあるか見当もつかねえや」
 出るといっしょに、たちまち音をあげたのは伝六です。
「力がはいるね、力がね。ひとさまのものだが、なんしろいい女の子のことなんだからね。おのずとこっちも力がはいるというもんですよ。え、ちょっと。はええがいいんだ。早いところがんをつけねえことには、恥ずかしい、申しわけがないと、ざんぶりやらねえともかぎらねえからね。ひとにらみにホシを見つけ出して、功徳を施してやるといいんですよ」
 むろん、それができたら文句はない。しかし、事は伝六が意のごとく、さようにあっさりとかんたんにひとにらみというわけにはいかないのです。だいいち、お冬の陳述からしてが、はたして真実であるかどうか、はなはだしく疑問でした。知らぬ、覚えはない、喜七なぞという男は耳にしたこともないと言い張ってはいたが、ないものの腕に喜七いのちと彫りつけられてあるのが疑わしいのです。詮議の道はそれを確かめることがまず第一でした。
 つづいてはお冬の素姓の詮索せんさく。第三には喜七なるものがどこのだれであるかその詮議、第四にはあのすばらしく江戸まえな朱彫りの彫り手はいったい何者であるかその詮議。第五にはお湯からお湯までの間の行動。すなわち、お冬があの彫りものを見つけるまでの、ゆうべから今のさきまでに、何を、どうして、どうやっていたか、その穿鑿せんさく。なぞの根が深いだけに、それを解きほどくべき詮議のつるもまたじつに多種多様なのでした。
「ウフフ。ちっとこれは知恵がいるかのう……」
 うち考えながら、大川べりをあちらこちらとさまようていたが、いく本かのつるの中から、すばらしい一本が見つかったとみえるのです。
 とつぜん、意外な声が放たれました。
「寝るか」
「へ……?」
「うちへ帰って寝ようじゃないかといっているんだよ」
「ちぇッ。つがもねえ、何をもったいつけていうんですかい。夜が来りゃみんな寝るに決まってるんだ。わざわざおおぎょうに断わらなくてもいいんですよ。足もとがふらふらしていらっしゃるが、日ごろ偉そうなことをおっしゃって、だんなもあのべっぴんの雪の膚を見てから、脳のかげんがちっとおかしくなったんじゃござんせんかい」
「やかましいや! 早く船の勘考でもしろい」
 夕だちあとのすがすがしい星空の下を八丁堀までずっと舟。帰るが早いか、ほんとうにそのまま青蚊帳あおかやの中へ、楽々と身を横たえました。



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