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――その第二十七番てがらです。
場所は芝。事の起きたのは、お正月も末の二十四日でした。風流人が江戸雪といったあの雪です。舞いだしたとなると、鉄火というか、伝法というか、雪までがたいそうもなく江戸前に気短なところがあって、豪儀といえば豪儀ですが、ちらりほらりと夜の引きあけごろから降りだしたと思ったあいだに、たちまち八百八町は二寸厚みの
「豪勢なもんさ。この寒いのに、火をたいちゃならねえというんだからね」
「そうよ。おまんまはどうするんだ、おまんまをな。火の気を使っていけなきゃ、お茶一つ口にすることもできねえじゃねえかよ。つがもねえ。こちとら下々の者は人間じゃねえと思ってらっしゃる[#「思ってらっしゃる」は底本では「思ってらしゃる」]んだからな。おたげえ来世はねこにでもなることよ」
なぞと、うそにも陰口をきこうものなら、下民の分際をもって、上ご政道をとやかく申せし段ふらち至極とあって、これがまず
「お手はず万端整いましてござります」
やがてのことに、ご奏者番からご老中職へ、ご老中からご
「お成りイ――」
の声があって、ご開門と同時にお出ましがかっきり明け七ツ。冬の朝の七ツ
「お立ちイ――」
の声がかかって、すぐにもう還御です。
しかし、そのあとがじつはたいへんでした。ひきつづきお跡参りと称して、紀、尾、水のご三家をはじめ十八松平に三百諸侯、それから老中
「酒井
「土屋
といったぐあいに、いちいち名のりをあげて、いちいちまたたれをあげながら、お大名どうし双方ごあいさつ会釈をかわさねばならぬしきたりになっているため、ややこしさ、ぎょうぎょうしさ、もしも気短者の伝六が万石城持ちの相模守にでもなっていようものなら、さぞかし、べらぼうめ、じれってえや、の巻き舌
そのうえに見物は町々屋並みを埋めるばかり、将軍家還御になってしまうと、道に張られていた引きなわはいっせいにもう取りのけられて、見物かってのお許しになっているため、雪にもめげずに押し寄せた有象無象が、押すな押すなの大混雑です。
「ちくしょうッ」
「いてえ!」
「踏んだな!」
「やかましいや。半鐘どろ! やい。のっぽ野郎! そのろくろ首をひっこめろッ」
「じゃまっけで見えねえじゃねえか。ひっこぬいて、たもとの中へしまっちまいなよ!」
「なんだと! べらぼうめ。張り子のとらじゃねえや。首の抜き差しができてたまるけえ。産んだ親がわりいんだ。不足があったら、親にいいなよ」
右からわめき、左からののしる声の間を、急がず遅れず
おりからからりと明けて、雪も間遠にちらりほらり……。
さすがは天下の執権、ご威勢もさることながら、おのずからに備わるご
ぴたりとお駕籠が止まる。
長柄のかさを介添える。
おぞうりをそろえる。
たれが上がる。
「お着ウ。伊豆守様ア――」
「お迎イ。ただいまア――」
応じ合って、お出迎え申しあげた寺僧の会釈をうけつつ、静かにお駕籠を降りた
しかし、そのせつなです。突如、黒山の群衆のその水を打ったように静まり返っていた一点が、さっとくずれたったかと見るまに、人影がばたばたと雪をけりつつ、駆けだすと、いまし山門に向かって歩みだそうとしていた伊豆守の行く手左わきにぴたり、もろひざを折り敷きながら、必死に呼びたてました。
「一期の願い、お慈悲でござります! この訴状お取り上げくださりませい! お願いでござります! お慈悲でござります!」
「…………」
「直訴じゃなッ」
「ならぬ!」
「さがれい!」
「不届き者めがッ!」
「押えろッ、押えろッ」
「取って押えい!」
もとより直訴は天下のご
しかし、伊豆守は声がないのです。何者かの姿を捜し求めるかのように、しきりとあたりを見まわしていられましたが、そのときふとお目に止まったのは、だれでもない、じつにだれでもない、わが捕物名人右門の姿でした。しかも、名人がまた騒がないのです。
「てまえならばここに――」
いうようにひざまずくと、胸から胸へ、目から目へ、千語万語にまさる無言の目まぜをじっと送りました。同時に、宰相の口から、うれしい
「おう、やはり参っておったか! 捜したぞ。――余の者どもに用はない。行けッ、行けッ。右門ひとりがおらばたくさんじゃ。みなひけい!」
まことに、まったくこんな胸のすく一語というものはない。
年のころは六十あまり、常人ではない。一見するに
「御前! 火急のお計らいが肝心でござります。必死の覚悟とみえまして、まさしく訴人は切腹しておりまするぞ」
「なにッ」
「みるみるうちに顔色の変わりましたが第一の証拠、直訴を遂げて気の張り衰えましたか、五体にただならぬ苦痛の色が見えまするでござります」
「いかさまのう。調べてみい」
にじり寄って懐中を探ってみると同時に、果然、前腹からわき腹にかけて幾重にも堅くきりきりとさらしもめんの巻かれてあるのがその手にさわりました。直訴を遂げてしまうまでは死ぬまじ、倒れまじと、出血を防ぐために切腹した上をきりきりと巻き止めて、苦痛をこらえつつ伊豆守のご参着を待ちうけていたにちがいないのです。それが証拠には、さし入れた名人のその手に、にじみ出ていた生血がべっとりと触れました。もとより事は急、壮烈きわまりない訴人のその覚悟を見ては、ちゅうちょしている場合でないのです。とっさに、名人は血によごれたその手をさっと開いてさし出すと、目にものをいわせつつ伊豆守の処断を促しました。
「かくのとおり、みごとな覚悟にござります。殿、ご賢慮のほどは?」
「いかさま必死とみゆるな。命までもなげうって直訴するとは、あっぱれ憎いやつめがッ。そち、しかと、――のう!」
「はッ」
「あいわかったか、予に成り代わって、ふびんなそのふらち者じゅうぶんに取り調べたうえ、ねんごろにいたわって、しかとしかりつけい!」
「心得ました。ご諚どおりしかりつけまするでござります」
「いつもながら小気味のよいやつよのう。――ご僧! ご案内所望つかまつる」
「はッ、控えおりまする。ご老中さまご参拝イ」
しいんと身の引き締まるような声とともに、宰相伊豆守の
「おみごとじゃ。ご老人、安心して参られよ。なんの願いか知らぬが、訴状は右門しかと預かり申した。必ずともにお力となってしんぜまするぞ」
見ながめるや、時を移さずにじり寄って叫びささやきながら、すばやく訴人の手から直訴状をぬきとって懐中すると、待ち構えていた小者たちのところへ目まぜが飛びました。同時に、五、六名がはせつける。一瞬の間にむくろが取りのぞかれる。清めの塩花が道いっぱいにふりまかれて、ふたたび清らかに
「
「太田
「石川
声から声がつづいて、待ちうけていたお跡参りの乗り物があとからあとからと、