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しかも、早い。じつに早い。
さすがの伝六も毒気を抜かれて、追いつくことも鳴ることもできないほどにすばらしく早いのです。大またにすたすたと裏小路へ抜けて、金看板のむっつりぶりもあざやかに、一路目ざした方角がまたじつに意外でした。何を訴えた訴状であるか、直訴の的はどこにあるか、なぞを解くならまず第一番に訴人が住まいの入舟町へはせつけて、そこから先に手を染めるのが事の順序であろうと思われたのに、奇怪にも目ざした道はまがうかたなく
「ああ、くやしい。くやしすぎて目がくらみやがった。どうせね、え、え、そうでしょうとも。どうせあっしなんぞはね――」
ようやく追いついた伝六が、よくよくくやしかったとみえて、陰にからまりながら鳴りだしたのは無理のないことでした。
「どうせそうでしょうよ。え、え、そうでしょうとも、どうせあっしなんぞは血のめぐりもわりいし、いつまでたっても人前で恥をかかされるようにできた人間なんだからね。さぞやだんなはあっしに赤っ恥をかかせていい心持ちでしょうが、それにしても場合というものがあるんだ。場合がね、え? だんな!」
「…………」
「くやしいね。どれだけいやがらせをしたらお気が済むんですかい。ちっとはあっしの身にもなってみるといいんだ。なんしろ、時が時だし、人出もあのとおりの人出なんだからね。とちっちゃならねえ、男をたてずばなるめえと思ったればこそ、だんなが御用というまで、がまんにがまんをして待っていたんですよ。ところへ、お顔が下馬札の陰からぬっとのぞいたんだ。うれしかったね。え、だんな。考えてもみりゃいいというのはここですよ。きのうやきょうの仲じゃねえんだからね。死なばもろとも、出世もいっしょと、口にこそ出して約束したんじゃねえが、あっしが女だったら、人さまにやかれるほどもうれしい仲なんだ。なればこそ、しめたとばかり――」
「うるさいね」
「いいえ、きょうはいうんだ。なにも、ああまで人前で恥をかかせなくともいいんだからね。きょうは腹の虫がいえるまでいいますよ。うるさかったら、だんなもとっくり考えてみりゃわかるんだ。いまかいまかと待っていたところへ、ぬうとお顔がのぞいたんでね、さてこそおれの出幕だ、話せるね、いい気性だよ、あっしに花を持たせるおつもりなんだと思ったればこそ、喜んで勇んで飛んでもいったのに、ありゃなんです。あのまねゃなんです! ぬうと出して、ぬうとそっぽを向いて、ありゃいったいなんのまねですかよ!」
「…………」
「え! だんな! ね、ちょっと!――くやしいね。なんてまたきょうはやけにそう足がはええんだろうな。そんなにお急ぎだったらおごりゃいいんだ。気まえよく駕籠をおごりゃいいんですよ。ね! ちょっと! だんなってたらだんな!」
「…………」
「しゃくにさわるね、あっしがうるさくいうんで、意地わるに急ぐんだったら、あっしも意地わるくいいますぜ。なにもだんなに、伊豆守様をお気どりなせえというんじゃねえがね。せめてあのとき、ひとことぐれえおっしゃったっても、ばちア当たらねえんだ。おお、伝六か、捜したぞ、おめえが来ねえことにゃ役者がそろわねえんだ、かわいいやつだね、ついてきな、とでもおっしゃってごらんなせえよ。わッときたにちげえねんだ。日本一、親方ア、よう伝あにいとね。エヘヘ、エッヘヘ――」
「バカだな」
「え……?」
「がんがんやっていたかと思や、ひとりで急に笑いだしやがって、おめえくらいあいそのつきるやつは、ふたりとねえよ」
「そうでしょう。ええ、そうでしょうとも。どうせあっしはあいそのつきる人間なんだからね。笑ったり、おこったり、方図のねえ野郎ですよ。それにしたっても気に入らねえんだ。これがいったいどうしたっていうんです。え! ちょっと。この直訴状のどこがどうしたというんですかよ。親心に上下がねえならねえで、しかじかかくかく、せがれがこれこれこうでごぜえますゆえ、
鳴れど叫べど、ひとたびこうと
「じれってえな。そんなものを調べりゃ何がおもしれえんですかよ。
「…………」
「え! だんな! くやしいね。そもそも、あのおやじが気に入らねえんだ。雪の降るさなかに、なにもわざわざあそこまで飛び出してみえをきるがものはねんですよ。直訴をしてえことがありゃ、息の根の止まらぬうちに、ここへ来りゃいいんだ。それがためのお番所なんだからね。よしやだんなが虫の居どころがわるくてお取り上げにならなくとも、あっしという者があるんだ。あっしという気性のいい男がね。この伝六様がいるからにゃ、どんなうるせえねげえごとでも聞いてやりますよ。ね! ちょっと! え! だんな!」
「申しあげます! あの、もし、お願いでござります。お願いの者でござります!」
「うるせえな。いううちに来りゃがった。忙しいんだよ。伝六様は、いま手がふさがっているんだ。用があるならあしたおいでよ」
「いいえ、あしたになってはまにあいませぬ。てまえは京橋
「べらぼうめ。人の気違いの女房なんぞ、だれが酔狂にさらってくるけえ。おら知らねえや。係りが違うんだ。お係りが違うんだから、あっちへ行きなよ」
「ウフフ」
「え! なんです、だんな! いちいちとしゃくにさわるね。ウフフとは何がなんですかよ。お係りが違うから違うといったんですよ。骨おしみをしてはねつけたんじゃねえんだ。笑う暇があったら、だんなこそとっととらちをあけりゃいいんですよ。ほんとにまったく、がんがんしてくるじゃござんせんかい」
「控えろッ」
「え……?」
「おきのどくだが、そのらちがな」
「あいたんですかい!」
「あいたからこそ、うれしくもなったじゃねえかよ。まあ、そこへすわって、あごでもはずして、ふところへしまってから、とっくりとこれを見なよ」
ようやくのことに、訴状箱の中から目ざしたネタを捜し当てたとみえて、さわやかにうち