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「うちはどこだ」
「あれですよ、あれですよ。妻恋坂を上りきって、右へ十五、六間いったところの二階家だといいましたからね。たぶん、あのしいの木の下のうちですよ」
しかるに、その二階家の前まで行くと、表へいっぱいの人だかりがしているのみか、もうとっくにあばたの敬四郎が手配をつけてほとぼりもさめているだろうと思ってきたのに、案に相違して、中ではまだしきりにどたんばたんとやっているのです。
ひょいとのぞいてみると、その若いのが伝六の報告にあったなぞの狂人にちがいない、気違い力を出して、血まみれの出刃包丁をふりまわしながら、しきりにあばれつづけているのを、あれから今までかかってまだ捕えることができないとみえて、敬四郎をはじめ配下の小者三人が総がかりとなりながら、汗水たらしてまごまごと、あちらに追い、こちらに追い、必死に追いまわしているさいちゅうなのでした。
「ほほう、なかなかご活発でいらっしゃいますな。ヤットウのおけいこでござりますかな」
笑止なその光景をみて、やんわりと皮肉に
「貴、貴公なぞが用はないはずじゃ。のっぺりした身なりをいたして、何しに参った!」
「これはきついごあいさつじゃ。だいぶ逆上していらっしゃるとみえますな。ときに、この狂人にご用がおありでござろうな」
「いらぬおせっかいじゃわッ」
しかし、おせっかいであろうと、やっかいであろうと、
「だいぶお困りのようだから、ご用ならばお手を貸しましょうかな」
軽くいいながら、あちらにまごまご、こちらにまごまごと、必死になって敬四郎たちが追いまわしているのを、ふところ手しながら見守っていましたが、そのときふと名人が荒れ狂っている狂人の手を見ると、右手の血まみれな出刃包丁はよいとして、左手になおしっかりと、かじりかけのなまもちを握りしめているのが、はしなくも映りました。しかも、さらに目を転ずると、今までなまもちにそれをつけながらかじりかじり張り番をしていたらしく、三人の子どもの
「お知恵のないおかたというものは、いたしかたのないものじゃな。物事には法があるのじゃ。二刻近くもヤットウのおけいこをなさっては、さだめしご空腹でござりましょうから、ちょっとお手貸しいたしましょう」
静かに立ち上がりながら、きな粉のさらを手にすると、
「おにいさん……」
声からしてできが違うのです。笑いわらい、荒れ狂っている狂人に近づくと、やさしく呼びかけました。
「そなた、このきな粉に未練がおありだろう。こわいおじさんたちは情がないから、しかたがないのう。な! そうだろう! おにいさんがいっしょうけんめいにおもちを食べているところを、いきなり御用ッと打ってかかったんで、そなた腹をたててあばれだしたんだろう。あげるよ! あげるよ! ほら、きな粉をあげるから、たっぷりつけておあがりな」
まったくうれしいくらいでした。いや、真に人を見て法を施せとはこれでした。果然、狂人は名人のずぼしどおりきな粉に未練があったとみえて、にやりとしながらおとなしく近よってきたところを、――やんわりと軽く草香流!
「あぶない! あぶない! こんな出刃包丁なんぞ振りまわしながらおもちを食べてはあぶないよ。おにいさんが自分でけがをするとあぶないから、これはこっちへしまっておいて、ほら! ゆっくりきな粉をおなめな。そう! そう! なかなかおりこうだね」
物騒な刃物を取りあげておくと、自身のてがらにするかと思ったのに、淡々として水のごとし! きれいにのしをつけて敬四郎に進上したので、なおさらうれしくなるのです。
「いかがです? このにいさん、ご入用ではござりませぬかな」
「いろうと、いるまいと、うぬからさしずうけぬわッ」
「ま、そう、きまり悪がって、がみがみとおこらなくてもよいですよ。ご入用なら、お持ちあそばしませな」
「ちぇッ。せっかくだんなが手取りにした上玉を、なにものしをつけて進上するこたあねえでしょう! 人がいいからな、見ているこっちがくやしくなるじゃござんせんか!」
横から鳴り屋の太鼓が鳴りだそうとしたのを、名人は微笑しながら目顔で穏やかに押えておいて、じろりと足もとに目を移しながら、非業の凶刃に倒れている三人の子どものむくろを見ながめました。と同時に、名人の目がきらりと光った。むざんもむざんでしたが、第一に不審だったのは、それなる三人の子どもが、そろいもそろった男の子ばかりだったからです。いや、不審はそればかりでない。奇態なのはその傷でした。血のついた出刃包丁を振りまわしていた以上は、おそらくその凶器で狂人が突き刺したのだろうと思われるのに、傷が二色あるのです。ぐさりと胸もとをえぐっている三少年の三つの傷は、たしかに出刃包丁の突き傷に相違ないが、いま一カ所子どもたちの首筋に、そろいもそろって何か細ひものようなものででも強く絞めつけたらしい、赤く血のしんだみみず色の
「何をするのじゃ!
つきのけながら、配下に命じて、自分は名人にてつだってもらってようやく押えたなぞの狂人を引っ立てながら、ネタになるものは何一つやるまじといいたげに、憎々しく流し目を残して、意気
「なんでえ! なんでえ! 恩知らず! 首筋のみみずばれに
「下郎が何をほざくかッ。お奉行さまからご内命うけたのは、この敬四郎じゃ! 四の五の申すなッ」
係り吟味の特権をかさに着ながら、表の人集まりを押しのけて、これみよがしに引き揚げようとしたとき、
「待ってくださいまし! お待ちなすってくださいまし! 子どもたちがかわいそうでござります! 他人ばかりのご番所へなぞ運んでいかれましては新仏たちがかわいそうでござりますゆえ、わたしにくださいまし! わたくしにおさげくださいまし!」
群集を押し分けながらつと駆けだすと、声もおろおろと叫びながら、芋虫かなぞのように戸板の上へむぞうさに積み重ねている少年たちのむくろにすがりついて、必死に哀訴した者がありました。しかも、女なのです。年のころは二十七、八。そのうえに色っぽいのだ。青々しい落としまゆに、
「伝六ッ。新手のかぎがまた一つ出てきたようだ。こっそりいって、あの玉をこっちへいただきな」
心得ましたとばかりに駆けだしたのを、敬四郎がまたおちょっかいを出したのです。さてはこれにも眼をつけたかとすばやく察したものか、伝六の胸倉をドンと強く十手ではじき飛ばすと、
「何をでしゃばりいたすんだッ。この女とてもこちらのものじゃ! かってなまねをすると、手はみせんぞッ」
「なんでえ! なんでえ! 情けねえおっさんだな。てめえじゃなにひとつ眼をつける力がねえくせに、いちいちと横取りなさらなくともいいじゃござんせんか! その玉はおらがのだんなが見つけたんだッ。これまでもみすみす渡してなるもんですかい! ――だんな! だんな! にやにやしていねえで、草香流を貸しておくんなせえましよ! ちょっぴりでいいんだ。ほんのちょっぴり草香流でおまじないすりゃ、ぞうさなく取りけえすことができるんだから、はええところ貸しておくんなせえよ!」
力のかぎり手向かいながら、必死と名人に助だちを求めましたが、しかし名人はにやにやと薄笑いしたままで、敬四郎が伝六を突き飛ばしながら、疑問の女すらも奪いとって引っ立てていったのを、いっこうに驚くけしきも見せず、ゆうぜんと見ながめていたので、伝六が当然のごとくに爆発させました。
「おいらもう……」
「なんでえ」
「いいですよ! そんな薄情ってものはねえんだ。なにもこの場に及んで、草香流の出し惜しみなんぞしなくたってもいいんだ。なんべん使ったってもべつに減るもんじゃねえんだからね。いいんですよ! 子分の災難を見ても、腹のたたねえようなだんななら、こっちにだっても了見があるからいいんですよ」
「ウフフフ……」
「何がおかしいんです! 人のいいばかりが能じゃねえんだ。いいえ、納まっているばかりが能じゃねえんですよ。納まっている人間がえれえんなら、ふろ屋の番台はいちんちたけえところにやにさがっているんだからね、日本一えれえんだ。ほんとにばかばかしいっちゃありゃしねえや。気違いもとられ、子どももとられ、女までも巻きあげられてどうするんですかい! 眼になるネタは一つもねえじゃござんせんか!」
しかし、名人は依然にやにやとやったきり、あちらをのそのそ、こちらをのそのそと家のうちを歩いていましたが、そのときふと目についたのは、すばらしいりっぱな金も相当かかったらしい仏壇です。しかも、ひょいと中をのぞくと、新しい白木の
「フフン。居士号大姉号をつけてあるところは相当金持ちだな」
「え……?」
「てつだってくれなくともいいよ。どうせ、おれはふろ屋の番台だからな。おめえはひとりでかんかんおこってりゃいいじゃねえかよ」
「ちぇッ」
裏を返してみるとよろしくない。新帰元とあるからには、いずれ最近に物故した新仏だろうとは思われましたが、このころもこのころ、仏はふたりともに、寛永十六年十二月十二日没、すなわち去年の
「そろそろ少し――」
「え? なんです? なんです? 何か
「いらぬお世話だよ」
「ちぇッ、なにもすねなくたって、いいじゃござんせんか! あっしのがみがみいうのは、今に始まったことじゃねえんだ。鳴るがしょうべえだと思や、腹たてるところはねえでやしょう。意地のわるいことをおっしゃらねえで、聞かしておくんなせえな」
「いいや、よしましょうよ。わたしはどうせふろ屋の番台だからね、アハハハ。いいこころもちだね」
にやにやしながら、さらにあちらをこちらをと捜していましたが、そのときふとまた目についたのは、そこの茶の間の茶だんすの上にあった子どものおもちゃ箱です。あけてみると、まず第一に現われたのは首振り人形。それからやじろべえ。つづいてめんこ、でんでん太鼓にピイヒョロヒョロの
「よッ。江戸も広いが、こんなおもちゃは知らないぞ。まさに、これは玉ころがしに使う玉だな」
「え……? なんです? なんです? 玉ころがしとは、浅草のあの玉ころがしですかい」
「いらぬお世話だよ」
「ちぇッ、なんてまあ意地まがりだろうな。ついもののはずみで、番台にたとえただけじゃござんせんか。いつまでもそう意地わるくいびらなくたってもいいでやしょう」
「いいえ、どうせあたしはふろ屋の番台ですよ。アッハハハ。伝六あにい、きょうはけっこうなお日よりでござるな」
笑いわらいそこの座敷のすみを見ると、ここにも変なものがあるのだ。殺されるまえまで遊び戯れてでもいたらしいすごろくなのです。子どもにすごろくは少しも不思議はないが、いぶかしいのはその
「あにい!」
「えッ! ごきげんが直りましたかい」
「町方役人というものはな」
「どうしたというんです」
「腕ずくでネタやホシをかっ払っていったとてな」
「さようさよう」
「変なところであいづちをうつない。町方役人というものはな。腕より、度胸より――」
「さよう、さよう」
「わかってるのかい」
「いいえ」
「なんでえ、わかりもしねえのに、さようさようもねえじゃねえか。町方役人の上玉と下玉の分かれめはな、腕より度胸より、これとこれだよ」
指さしたのは目と頭! ――まことにしかり、第一は鑑識鑑定の目の力、第二は推理判断判定の頭脳なのです。
「だから――」
「たまらねえな。
「違うよ。近所へいって聞いてきな」
「え……?」
「わからねえのか。近所へいって、ここの家の様子を洗ってくるんだ」
「いいえ、それならわかっていますが、賽ですよ。さいころですよ。金粉を見つけ出して、ぴかぴかと目を光らしたようですが、こいつのどこが不思議なんですかい」
「しようがねえな。こんなものぐらい知らなくて、ご番所の手先は勤まらねえぜ。いんちきばくちのいかさま師が使う仕掛けのコロじゃねえかよ」
「へえ! これがね」
驚いたのも当然です。今はもちろんご
「ほら、みろよ。こいつあ二の目に細工がしてあるとみえて、下からちかちかと金粉が漏れるじゃねえか。気違いや十だの六つだのの子どもが、こんなくろっぽい品を所持しているはずはねえんだ。おそらくは、この家に出入りのやつか、でなきゃ、血筋でも引いたやつが置き忘れていったか、子どもにねだられてくれたものか、どっちにしてもただものじゃねえんだから、これに目をつけたとて何が不思議かい。そっちの玉ころがしの玉にしたってそうじゃねえか。赤や黄のきれいな色がついているから、子どもはたいせつなおもちゃだと思ってしまっておいたかもしれねえが、どいつがどうしてこんな品をくれたか、それも
「ちげえねえ! ちげえねえ! べらぼうめ! ざまあみろい! ええと――、さてな、どこで洗ってきたものかな」
まごまごしながら表へ駆けだしていった様子でしたが、ほど経て帰ってくると、
「変ですぜ! 変ですぜ! 町名主から聞き出してきたんですがね、ちっとこのうちは変ですぜ!」
うろたえて報告しようとしたのを、押えてずばりと右門流でした。
「変だというのは、たぶんあの子どもの親たちのことだろう。父親も母親もそろって去年の十二月十二日に死んだといやしなかったか」
「そうです! そうです! そのとおりなんだが、気味がわるいね、どうしてまたそいつをご存じですかい」
「また始めやがった。あの新しい
「そうなんだ、そうなんだ。夫婦そろって首をくくったというんですよ。なんでも、ご先祖代代日本橋のほうでね、手広くかつおぶし問屋をやっていたんだそうなが、なんのたたりか、代代キ印の絶えねえ脳病もちの血統があるというんですよ。だから、それをたぶん気に病みでもしたとみえて、去年の十二月店をたたんでここへひっこすそうそう、いやじゃありませんか、ちょうどこの辺ですよ、今だんなのいらっしゃるあたりだというんですがね、跡取りの長男夫婦が急にふらふらと変な気になって、その
「へへえ、この鴨居かい。おおかたそんなことだろうと思ったよ。夫婦ふたりが同じ日に仏となるなんて、そうざらにあるこっちゃねえからな、するてえと、さっきの気違いは、ぶらりとやった長男の兄弟なのかい」
「そうです、そうです。三人めの、つまり一番末のむすこだというんですがね。だから、あのかわいそうな子どもたちにゃ、気は狂っていても正銘の
「というと、死んだ兄貴とあの気違いのまんなかにまだひとりあるはずだが、もしやそいつが、さきほどちらりと姿を見せたあの落としまゆの女じゃねえか」
「ホシ! ホシ! そのとおりですよ。どこかなんでも下町のほうへね、お嫁にいっている娘なんだそうですよ」
「よし、わかった。それで兄弟の人別調べははっきりしたが、もうひとりだいじな人があるだろう。年寄りのはずだが、聞かなかったか」
「気味がわるいな。あるんですよ、あるんですよ、おばあさんだそうながね、どうしてまたそれをご存じですかい」
「いちいちとうるせえな。あそこに水晶の数珠があるじゃねえか。年寄りででもなくちゃ、数珠いじりはしねえよ。するてえと――な、大将!」
「え……?」
「おめえ、変なことが一つあるが、気がついているかい」
「はてな……」
「しようがねえな。いねえじゃねえか! いるべきはずの、そのおばあさんがいねえじゃねえか! な! おい! 伝六ッ。どうだ! どうだ! 不思議に思わねえか!」
「ちげえねえ! さあ、事がややこしくなってきたぞ! だいじな孫が三人も殺されているのに姿を見せねえたア、ばばあめが下手人かもしれねえな。女の年寄りだっても、いんちきばくちのいかさま師がいねえとはかぎらねえんだからね。べらぼうめ! じゃ、もちろん――」
駕籠だろうと駆けだしたのを、
「あわてるな、あわてるな」
制しながら、名人は、疑問の赤、白、黄に染めた三つの玉と、金粉仕掛けのさいころを懐中すると、どこへ行くだろうと思われたのに、ずうと一本道にめざしたのは