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行ってみると、果然、訴状箱の中には、恒藤権右衛門とこそ明記はしてありませんでしたが、朝ほど子どもを連れた女が、夫の討たれた旨を訴えに来たことがちゃんとご記録帳にのせられてありました。幸運なことには、破牢事件の騒ぎのために、まだだれもご検視にすらついていないことがわかりましたものでしたから、
今でこそ道灌山かいわいは市内のうちになっておりますが、当時はむろんわびしい
「けさほどお訴えに来られたかたは、そなたでござったか」
「はっ……では、あの、お番所のおかたさまにござりまするか」
「さよう、近藤右門と申す八丁堀同心でござる」
「まあ、あなたさまが右門様でござりましたか、よいおかたのお越しを願えまして、仏となった者もしあわせにござりましょう」
「では、もちろんそなたが恒藤権右衛門どののご妻女でござるな」
「はっ……このとおり、もう今年六歳になるかわいい者までなした仲にござります」
夫を討たれた者の妻女としては、ことばの応対なぞがややおちつきすぎていると思われましたが、しかし、それはおそらく、恒藤権右衛門とその姓名の示すとおり、士籍にある者の妻ゆえのおちつきであろうと思われましたので、念のために右門は尋ねました。
「どうやら、
「はっ……さよう……さようにござります」
すると、どうしたことか、妻女がちょっとぎくりとしながら、ことばを濁しぎみにためらいを見せましたので、右門は追っかけて尋ねました。
「いや、ご藩名やご浪人をなさった子細までも聞こうというのではござらぬ。士籍にあられたかたかどうか承ればよろしゅうござるから、もっとはっきり申されませい」
「では申します。いかにも権右衛門は父の代までさるご家中で、相当由緒ある家門をつづけていた者にござりまするが、仕官をきらい、もう十年このかた浪人してでござります」
「さようか。では、不慮の災に会われたことも、なんぞ恨みの節とか、かたきの筋とかがあってのことでござったか」
「それがあんまり理不尽にござりますので、訴えに参ったわけでござります」
「ほう、理不尽とな。では、なんの恨みもうける覚えがないのに、討たれたと申さるるか」
「はっ、わたくし主人にかぎっては、なに一つ人さまから恨みなぞうける覚えはござりませぬのに、昨夜四つ過ぎでござりました。このあたりでは珍しいつじうら売りが流してまいりましたものでしたから、なにげなく権右衛門がそれなる者を呼び入れましたら、やにわに主人へ飛びかかりまして、長年の恨み思い知れと呼ばわりながら、ひきょうな不意打ちを食わしたのでござります」
「いかにもの。して、それなるつじうら売りは、どのくらいの年輩でござった」
「二十七、八くらいでござりました。そのうえ、つい今までご
にらんで駆けつけたとおり、破牢罪人と恒藤権右衛門を理不尽に討ったつじうら売りとが、いちいち符節を合わしていたものでしたから、右門はもはや事の容易なるを知って、こおどりしながら尋ねつづけました。
「いや、よいことをお聞かせくだされた。では、それなるつじうら売りは、ご主人を理不尽に切りつけて、そのまま立ち去ったと申さるるのでござるな」
「いいえ、それが切り倒しておきまして、このとおり家内はわたくしとこの子どもとのふたりきりでござりましたから、無人の様子を知って急に気が強くでもなりましたものか、今より
「ほほう、さような大胆不敵なことまでいたしおりましたか。――いや、なによりなことを承って
「はっ、どうぞ……」
ただちに妻女が仏間へ案内いたしましたので、伝六ともどもついてまいりましたが、しかし、右門はひと目その
「いや、おきのどくなことでござった」
あまりのむごたらしさに、さすがの右門も長居に忍びなかったものでしたから、そうそうに悔やみを述べて引き揚げると、それだけに下手人の残虐を強く憎んで、断固としながら伝六にいいました。
「ちくしょう! むだな
「ちえッ、ありがてえや、まだ夏場の旅でちっと暑くるしいが、久しぶりに江戸を離れるんだから、わるい気持ちじゃねえや」
官費の旅行だから、大きにそれにちがいないが、しかし、十町と行かないうちに、いっこうそれがいい気持ちでないことになりました。というのは、ちょうど加賀さまのお屋敷前までやって行くと、はからずも、向こうから意気揚々と、旅のしたくをしながら、こちらへやって来る一団にばったりと出会ったからです。しかも、それが余人ではなく、あばたの敬四郎とその一党であることがはっきりとわかったものでしたから、右門もぎょっとなったが、伝六のいっそうぎょっとなったのは当然なことでした。
「ちくしょうめ、いやなかっこうで来やがるが、かぎつけたんでしょうかね」
「そうよな。どうやら、遠出の旅じたくらしいな」
「そうだったら、野郎め、あの非人からかぎ出したにちげえねえから、あっしゃあいつらと刺しちげえて死にますぜ」
「むやみと死にてえやつだな。まだかぎつけたかどうだかもわからねえじゃねえか」
たとえ足はついたにしても、まさかに中仙道へ落ちたことまでは知るまい、と思いましたから、右門はかれらの知らぬ恒藤権右衛門虐殺事件の証跡を持っているだけに、安心していましたが、しかし、それが少し意外でありました。ばったり両方が顔を合わすと、いつにもなくあばたの敬四郎が勝ち誇って、尋ねもしないのにべらべらとやりだしたからです。
「おきのどくだが、今度はお先に失礼するよ。これからもあることだから、参考のためにいっておくがな、さきほどはせっかくあげた非人をこちらへいただいてしまって、ごちそうさまだったよ。おかげで、あいつらの口からほしの野郎が、刀屋でわきざしを買い入れ、本郷方面へ
のみならず、つら憎そうなせせら笑いを残すと、手下の者三人を引き連れて、揚々と過ぎ去っていったものでしたから、せっかくこれまで証跡を洗い出していたのに、いま一歩という手前でみんごと
「珍しいこともあるもんだ。おれがあばたのやつに負かされるなんて、さるが木からおっこちたより、もっとおかしいよ」
でも、右門にはまだしゃくしゃくとして、それをつぶやくだけの余裕がありましたが、伝六は黙然と歯ぎしりをかみつづけたままで、さながらふたりの位置は、むっつり屋とおしゃべり屋とが、入れ替わったようなかっこうでありました。