三
市街地は黒い雲のように、青い耕地の上へ、日に日に幅広く這出した。 そしてこの黝んだ膨らみの中で、嵐のような叫び声がひっきりなく続き、市街地は耕地の真中へと千切れて行った。家……家……家…家、家、家。住宅が出来、商店が開かれ、工場が建って、市街地の黒い雲は、青い耕地の中の破片に繋がり、続き、そこを直ぐ黒い市街地にして了うのだ。すると、直ぐ又、その膨らみの尖端から黒い破片が千切れて飛び、黒い雲がその破片に向って幅広く這出して行く。同じことが繰返され、繰返され、萎縮を知らない膨脹が続いた。 道路は先ず市街地から住宅分割貸地へ、第一の幹線が通された。併し、地主達の予定通り、それだけでは済されなくなって来た。そこえら一帯の自作百姓達は、誰も彼も、自分の地所の中に道路を通したい希望を持っているからであった。 「土地の発展のためだ。五十坪や百坪、道路にされたって仕様ねえ。」 彼等は進んで道路のための土地を寄附した。その新道を前にして、新しくその附近へ移り住んで来る人達を相手の、新しい店を開こうと計画しているからであった。そして更に、新道を控えたその辺一帯の土地が耕作価値から所有価値へ、無限に騰貴して行くからであった。 そのために、市街地から住宅分割貸地への四間道路を幹線にして、そこから直角に走る二間道路が、幾本も幾本も開かれた。 「馬鹿馬鹿しい! 土地を寄附してまで道路を開かせてさ。自分の耕す土地を無くなすなんて……」 斯う言って小作人の甚吉は、白い眼でそれを見るようにした。 「だって、あの人達は、その方が得なんだべから……」 「得かも知んねえが、得だから得だからで、耕す土地を皆んな町場にして了ったら、人間は一体、何を食ってればいいんだよ? 町場になって、工場が出来たからって工場からは食うものが出来めえ? そう云うと俺ばかり馬鹿に食意地が張ってるようだが……」 「工場から、食う物は出来ねえか知んねえが、俺、工場さでも行って働くより仕様がねえ。耕す土地がねえのだから、どうも仕様がねえからな。」 耕作価値が急に所有価値に変り、所有価値が暴騰したために、却って職を失った耕地を持たない小作百姓達は何れにしても土地の発展を欣んではいなかった。 「われわれ、百姓でありながら、始めっから土地を持ってねえのだから、どうも仕様がねえ。働く分にゃ、畠だろうが、工場だろうが、何処で働いたって同じことだろうから。」 「それさ。われわれの暮しにだって、工場で出来たものも必要なのだからな。」 「俺、工場さ行くだ。百姓が出来なくなっても、俺、工場でせえ使って貰えば、それでいいだ。」
四
畠の中に開かれた平坦な新道は、雨の降る毎にひどくぬかった。わけても、雨の降り続く季節には苗代のような泥濘になった。 その新道端に店を開き、所有地を住宅のために貸してそれで生活をして行こうと云う人達は、新道へ砂利を敷くための寄附金を蒐めに奔走した。 部落内の農家へは、自作百姓の豊作と栄三と金平とが雨の降る日毎に廻った。 「どうもよく降りますね。新道は、まるで泥田のようですよ。それで一つ。住宅の人達にも寄附して貰って、砂利を敷き度いと思うんですが、幾らでも、お思召しで結構ですから寄附して頂き度いと思いましてね。」 豊作が先ず斯う、燥いだ口調で切り出したのであった。 「砂利を敷くんですって? わたしゃあ、砂利を敷いた道路を歩くのあ大嫌いでさあ。わたしの歩くどこだけ、細くあけて置いて貰いますべ。砂利を敷いたごろごろ路ばかりあ、わたしゃあ、何んと思っても嫌いでさあ。」 斯う言って甚吉はその寄附を撥付けた。彼は、極端に土地の発展を嫌っているのだ。彼は何処までもじみに百姓を続けて行こうと思っているからであった。 「冗談は冗談として、住宅の人達にも気の毒ですし、土地の発展のためですかんね。」 「商売でもやろうて者にゃ発展かも知んねえが、われわれ小作百姓にゃ、その反対でさあ。これまで作っていた地所は、やれ工場の敷地に貸すの、やれ住宅に貸すのと言っちゃ、片端から取上げられるし、砂利を敷いた道路の真中で百姓が出来るものでねえしさ、ね。」 「併し、いくら百姓だからって、道路を歩かねえってことはねえんですからね。」 「だから、わたしゃあ、砂利の敷いてねえどころを歩きますあ。どうせ、道路いっぱいには、敷くわけであんめえからね。何処の道路だって、泥溝際のどころは少し残してあるもんだから。」 甚吉は煙草を燻していて、彼等の方には見向きもしなかった。 「じゃ、甚さんは、自分の土地が、発展しようがしまいが、構わねえってんだね?」 金平はとうとう角のある語調で言い出した。 「構わねえようだねえ。」 「構わねんだね? そりゃ、一体、甚さん、どう云うわけかね?」 「何んのわけで、そんなことまで調べるんだね? 一体その寄附っての、何処から出た話なんだね? 手前達が、勝手にきめて来て、俺が寄附しねって云うの、手前達にせえわかったら、そんでいいじゃねえか?」 「まあまあ、甚さん、そう腹を立てねえで……」 栄三が顔に微笑を刻みながら宥めた。 「面白くもねえ。人を調べるようなことしやがって……」 「では又、気が向いたら寄附して貰うとして……」 栄三は腰を上げながら言った。 「向かねえようだね。わたしゃあ、何時まで経ったって……」
五
併し新道には間もなく砂利が敷込まれた。砂利を敷くための寄附金など、最早、彼等に取っては問題でなかったのだ。寄附ではなく、彼等に取っては、一種の投資であった。店を開くための、土地の所有価値を暴騰させるための投資であった。 部落の形態はそこで完全な分散作用を開始した。誰も彼も半自給自足の素材生産から足を洗って、扮飾術師になり、消費者になろうとして。 先ず、新道端に店が並び、畠の中に住宅が出来、工場が建って、耕地は急に市街地の形態を整えかけ、積極的な機構をもち出した。丁度これは、膨脹しつつある団雲に近付いて行く一片の雲に似ている。膨脹しつつある機構に合体するためには、矢張、膨脹しつつ近付いて行かねばならないのだ。 耕地はそうして市街地に変って行った。其処から自分の生活資料を掘出していた百姓達は、当然のこと、他の職業に転ずるか、何処かの耕地へ移って行かなければならないことになって来た。 「いよいよ賑かになりましたな。斯うなると儂等の家も、どうもあのままじゃ置けねえようですよ。目障りで……」 河上は地主仲間に言っていた。 「一つ、お屋敷風に建てかえるとしますかな? この町中さ、茅葺は、どうもね。」 彼等は市街地から、自分達の不調和な茅葺屋根の家を掻消して、新らたに瓦屋根の邸宅を構えた。それが現在の彼等の生活に、最もふさわしい居宅であった。土地の所有価値が暴騰して来たため、地主の彼等は、何等職業らしい職業を必要としなくなっていたからである。 そして金平や栄三や豊作など、自作百姓だった人達は大抵、道路を控えている自分の所有地の片隅へ店を開いた。資金の余裕につれて貸家を建てて行った。 「今度、店を開いたんですがね。なあに、百姓をしていたと思えば、そう儲けなくてもいいんですから……」 彼等はそう言って、住宅から住宅へ、葉書ほどもある大きな名刺を配って歩いた。 「若し、知ってる人で、土地を借り度いって人がありましたら、他所より、地代をまけて置きますから。」 斯う、彼等は、屋敷続きの荒地のことも忘れてはいなかった。 全然自分の耕地を持たなかった小作百姓の重次郎や長助ら七八人の者は、何処かへ移って行かないかぎり、近くの工場へでも這入って働くより途がなかった。住宅や工場のために、自分達の耕していた土地が完全に取上げられて了ったからであった。そして土地の所有者達は、その土地を荒して置きながらも、耕作のためには貸してくれなかったからだ。 「なあに、工場さ通って、飯せえ食いれあ、われわれに取っちゃあ、何方だって同じごったから……」 「わたしゃあ、どんなことしたって、そこえらの工場だけは行かねえ。面白くもねえ。一体、何んの機械を拵えんだか知んねえが、食う物の湧いて来る土地を潰してそんな工場なんか建てやがってさ。最後に、その機械でも食ってるつもりか? 俺は矢張、何処までも百姓を続けるだあ。」 甚吉は斯う言って、隣り部落の方へ移って行った。そして又そこで、ささやかな小作百姓を続けていた。その甚吉の気持が、工場へ行った重次郎には判然と呑込めなかった。 「甚吉さあに言わせるど、食う物を作るのが一番いいことになるが、工場だって同じごってねえか? なあ、おうい! 例えば、百姓仕事に使う機械だったら、その機械を、他の土地で使ってさ、その土地からうんと収穫があるようにしたら、そんでいいわけだからな。そのために少しばかりの耕地を潰したって、百姓をやめて職工になるものがあったって……」
六
隣り部落へ移って行った小作百姓の甚吉に取って、以前に自分の住んでいた部落であった現在の市街地は、まるで自分に関係のない場所となって行った。 殆んど自給自足に近い生活をしている甚吉は、自分の収穫物を、市街地へ売りに行くと云うようなこともなかった。時折に、荷車を曳いて人糞をあげに行くだけが、以前に自分の住んでいた部落との纔かな繋がりであった。 併し又それが、以前の小作人仲間と自分との気持を、纔かながらに繋ぐ機縁となっていた。甚吉は人糞をあげに行って、どうかすると、工場通いをしている人達に行き会うことがあった。そして、昔のことや現在のことや未来のことに就いて立話をした。けれども、重次郎に行き会って立話をするのは、それ以来今度が始めてであった。 「おめえの方はどうだえ? 甚さん、その後の具合は……」 重次郎は機嫌よく微笑んでいたが、その顔には、何処となく憔悴した影が流れていた。 「うむ。俺の方はまあ、どうにかやってるが、なあに、相変らず追われ通しだ。おめの方はどうだ? 少しは景気がいいのか?」 「景気がいいどこじゃねえ。悪くて仕様がねえよ。日給一円八十銭で、家族七人と来ちゃ、景気のいい筈がねえじゃねえか? そんで、近近のうちに何んかおっ始まりそうなんだよ。」 「やっぱりな。やっぱり、じゃ、工場だなんて大きな顔していても、景気はよくねえんだな?」 「工場は景気がいいんだ。工場の方じゃ、どんどん儲かって、又、分工場を建てるって話だからな。われわれ、そんで黙っちゃいられなくなって来たわけさ。幾ら工場の方が大きくなったって、われわれの賃銀は一向あがらねえんだからひでえや。」 「大きくなるもの、大きくなる一方だ。われわれは又われわれで……」 「今度の分工場ってのは、とても大きいらしいんだ。そら、甚吉さんの耕っている畠のところに、川に沿うて桑畠があるな。なんでもあそこらしいって話だぞ。」 「俺の畠のとこへ建てるって? 一体、工場の野郎共はなんと云う野郎だべ! この俺を、一体、何処まで追払うつもりだんべ? あそこへ工場が出来れあ、俺の耕ってる畠なんか、住宅に貸すからって、直ぐ又取上げられて了うのだから……」 甚吉は眼をりながら、急に、狂人のように叫び出した。 「だからよ。甚さん! 工場はそうして大きくなって行くのに、われわれは一向に……」 「一体、何処まで手を拡げて行くつもりなんだ? あんなどこへまで工場を建てるなんて。糞面白くもねえ。」 「われわれ、われわれの言い分を通さねえうちは、どんなことがあったって建てさせるものか。俺、何時か、甚さんに言ったことがあったけがよ。耕地を潰して工場を建てたって百姓をやめて職工になるものがあったって、金目にしてその工場から、耕地から収穫していた以上の収穫があればそんでいい筈だって。――ところが、いくら収穫があったって、われわれ、同じことなんだ。耕地を潰しちゃ奴等だけ膨らんで、われわれは一向に同じことなんだ。」 重次郎も、眼をりながら、叫ぶように云うのだった。 「あそこへ工場を持って来るなんて、百姓するものは、一体、何処へ行って百姓をすれあいいんだ?」 「工場の方じゃ、われわれの耕地を潰して置きやがって、幾ら儲かったって、われわれには全然同じことなんだから、そんで、われわれも、黙っちゃいられなくなって来たんだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。」
七
部落の中央部にあった台地の上は、人家で埋め尽されて、完全に住宅街になっていた。 空から続く腕のように、南向きの斜面を抱込んでいた雑木林は、何時の間にか伐払われて、赤黒青、三色の瓦に埋め尽されていた。そしてラジオのアンテナの竿がその屋根屋根から林立していた。 瓦の海の沖の方では、空高く組まれた捲揚機が、カラカラカララララと、ひっきりなく鳴り、黒煙に濁った空から、鉄骨の長い手を差伸していた。大きな煙突がそのところどころから、幾本も幾本も、黒い煙を吐いていた。そして瓦の海は、隣り部落を乗越え、何処までも何処までも拡って、青葉の中に消えていた。
――一九三○・四・二五――
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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