日本プロレタリア文学全集11 「文芸戦線」作家集(二) |
新日本出版社 |
1985(昭和60)年3月25日 |
1989(平成元)年3月25日第4刷 |
序景
窓は広い麦畠の、濃緑の波に向けて開け放されていた。擽るような五月の軟風が咽せかえるばかりの草いきれを孕んで来て、かるく、白木綿の窓帷を動かしていた。 南面の窓に並んで、鉄筋混凝土の上層建築が半分ほど出来あがっていた。その上に組まれた二本の大きな起重機は、艶消電球のような薄曇りの空から、長い鉄骨の手を伸して、青い麦畠やそのまわりの小さな建物を掴みあげようとしていた。 北側の窓の真ん前には、建築混凝土用の捲揚機が組まれて、大規模の工場が建築されかけていた。その建築場と校庭との間には、焼跡のような住宅予定地が拡っていた。塵埃や紙屑や、瀬戸物の破片、縄端、木片などが散らばり、埋め、短い青草の禿げている空地。校庭から子供達がときどきそこへ転り込んで行った。 建築場の空では、カラカラカラララララと、ひっきりなくクレインが鳴っていた。混凝土をあける音は一日中、一定の時間を置いて、窓窓の硝子を震動させた。 尋常五年の教室では地理の時間が始っていた。黒板の片隅には、縮尺五千分の一の「本郡全図」が掛けられていた。地図に対する概念を固めるために、生徒の熟知している土地の地図に就いて、踏査的教授を与えているのであった。 「この地図の上で、煉瓦色に塗られてある部分は、市街から続いて来ている郡部の町で、この緑色の部分は、田舎なのです。即ち私達の村がこの緑色の部分なのであります。ところが、これは三四年前に拵えた地図で、毎年一度ずつ訂正を加えているのですが、現在では又この地図とは大部違って来ているのであります。」 そこで教師は、ぽんと、細い竹鞭で地図の上を打った。動きかけていた生徒の視線が又一斉にそこへ集って行った。 「何処がどんな風に変ったか? 今日は一つ、皆さんにその変ったところを見つけて貰らおうと思うのだが、さあ誰かわかる人はありませんか?」 教師は又ぽんと地図を打った。 「地図の中央を流れている川の、水の色が変ったのであります。以前は綺麗な水が流れていたから水色になっていますが、川上に住宅地が出来てから、住宅の人達が、塵埃だの洗濯水だの、いろいろな穢いものを川へ流すので、現在では、黒い水が流れているのであります。」 「川の、水の色か? うむ。」 教師は唸った。そして言った。 「併し、地図の上で川を水色にしてあるのは、第一の目的が(これは川だぞ)と云うしるしなので、黒い水が流れているからと云って黒く描いたら、道路か何かと間違われやしないかな? 誰か他に……」 「学校の前から、住宅地の方へ行く、真直ぐな四間道路が新しく出来たのであります。」 「学校の前から住宅地の方へ行く新道。よろしい!」 言いながら教師は、赤い白墨で、地図の上に一本の直線を引いた。 「この新道が、去年の今頃から今日までに出来たものの一つ。それから何処かに変ったところが無いかな? さあ、誰か……」 教師は生徒等へ微笑みかけながら言った。 「わからないかな! よしっ! じゃ一つ先生が見つけて見よう。いいか? この煉瓦色の部分だ。これは前にも言ったように、人家の建混んでいる都会の色、市街地の色なのであるから、この地図の上で、当然この色が塗られていなければならない部分に塗り落されているように思うが……誰か、わかる人?……」 「市街地は学校の前まで膨らんで来ているのに、地図の上では、用水堀のところまでが市街地のようになっているのであります。」 「よろしい! そうだ。去年の今頃は、市街地はまだ用水堀のところまでしか膨らんで来ていなかった。そしてこの学校は、この地図の上でもわかるように、青い麦畠の真中にあった。ところが市街地は僅か一年の間に、丁度、校長先生のお腹のように、斯う弓なりに学校の前まで膨らんで来た。そしてこの小学校は、田舎の小学校だか、都会の小学校だかわからなくなって了った。」 教師は言いながら、煉瓦色の白墨で、地図の上に一本の彎曲線を描いた。生徒等は忍び笑いをして、低声に囁き合った。 「騒いではいけない。さあ、此方を見て……」 彎曲線の内部は煉瓦色で塗り潰されていた。 「ところでと、一体、どうして市街地は、斯うどんどん拡って行くのだろう? まさか校長先生のように、御馳走をどっさり喰べたと云うわけでもあるまい。」 「人口が殖えたからであります。」 「うむ。それもたしかに一つの原因だ。はいっ!」 「田舎の人が、百姓を廃めて、誰も彼も町へ行って商人になるからであります。」 「それもあるだろう。他に……」 「工業が発達して来たからであります。」 ガザガザアン! 凄まじい音が建築場で撥ねた。混凝土捲揚機の樋がはずれたのだ。空で鳴っていたクレインの音が止み、人夫等が呶鳴り合い騒ぎ合った。 「おおっ!」 「どうしたんだろう?」 生徒達は総立ちになって窓に眼をやった。 「騒ぐんじゃない。騒ぐんじゃない。」 教師は鞭を撓めながら、教壇をおりて、ゆっくりと窓際へ歩み寄って行った。
一
部落の中央部に小高い台地の部分があった。 台地の一帯は、南向きの斜平な斜面になっていた。そして、西から北にかけては、厚い雑木林がうねっていた。その青い雑木林のところどころから、黒い杉杜がぬいていて、例えば空から続く大きな腕のように、台地の斜面を抱き込んでいた。 赭土の飛沫を運ぶ春先の暴風に、自然の屏風を備えたこの地帯は、部落中での優良な耕作地であった。此処に三人の地主が巣を喰い、八九家族の小作百姓が生活の大半を托していた。 処が、耕作のために年十五円で貸していたその土地を、坪当り月五銭で借り度いと云う借手が出て来た。住宅地にするのである。十五円の貸地代は、一躍八十円にまで飛んだ。 貸地代によって生活している地主達にとって、耕作価値など全然問題ではない。彼等の知っているのは、所有価値だけである。その土地が、どんな目的に使われようと、唯地代が多ければ地主達はそれでいいのだ。彼等は何んの躊躇もなしに、小作人達からその耕作地を取上げ、そして更に地代を上げて、借手の出るのを待つことにした。 「併し、われわれはどうすればいいんだ? 手前等は、そんで地代が余計這入って来るようになったからよかんべが、一体、われわれは何処から食う物を掘出せばいいんだ?」 斯うそこの小作人達は叫んだ。 「けれども、私等にしたところで、月十五円で貸してくれと頼まれている方を断って、年十五円の方の口さ貸して置かねばならんと云うこともあるまいからな。せめて、あんたらが、その三分の二位の地代でも出してくれると云うのなら格別として……」 群山は、他の二人の地主に代って返事を与えた。 「馬鹿馬鹿しいっ! 百円からの地代払って、地代分だけも儲けられしめえ! 群山さん。そんな馬鹿なこと、あの禿頭にでも教えられたのかね?」 甚吉は太い腕を、胸の上に腕組みながら言った。群山の話の口調が、彼の地所に家を建てた男にそっくりであったから。 「併しね。此処へ、別に働かねえでも段当り百八十円からの金が湧いて来るってえのに、そこを畠にしていたんじゃ、全く勿体ねえですからなあよ。」 「勿体ねえ? ハハハ……」 重次郎が笑い出した。地主の野本は、笑い出した小作人の青年を、怪訝そうに視詰めた。 「勿体ねえって云うんなら、住宅にすんのこそ勿体ねえ話だ。畠にして置けえあ、それこそいろんな食う物が湧いて来るのにさ。住宅にして了ったら、せえぜえ、塵埃が関の山だべ。」 「併し、黙って腕組みしていて、百八十円ずつの地代が這入って来んのですかんな。」 野本は斯う反駁した。 「幾ら地代が這入ったって、地代がその土地から湧くもんじゃあるめえがな。他所で働いて取って来る金じゃねえか?」 「何れにしろ、私等の懐中さ這入る分にゃ同じことだから、地主としちゃ、やっぱり地代のいい方さ貸すことになるね。全く、借手の誰彼を問題にしちゃいねえんだ。問題は、唯、地代なんだから……」 群山はそう言って頭から小作人達を抑えつけた。土地の使用目的から、地代で及ばない小作人達は、それ以上言葉ではもう何も出来なかった。 「お気の毒ですが、まあ、此処の地所はそう云うわけですから、あんたがたも一つ、百姓なんかやめて了って、商売でも始めたらどんなものでしょうね?」 河上が微笑みかけながら言った。この穏やかな地主の言葉に対しては、誰もさからわなかった。 「それさね。」 「そう云うことになれば、何んかで、出来るだけのことはいたしますから。店を開くと云うような場合には……」 斯う河上は更に付け加えた。 「資本金でもあれば店も結構だが、われわれ、どうして商売など始められんべ? 工場さでも通うより仕方がなかんべ。」 「そこですよ。私の言っているのは……勿論、大したことは出来かねますがね。まあ、及ぶだけのことは……」 「併し、皆んな商売をやり出したら、一体、誰が買うんですかね?」 甚吉は煙草に火をつけながら、皮肉らしく言つた。 「ですから、それは、斯うしてこれから、住宅地を貸すことにして、どんどん部落へ人を呼ぶんですよ。そうするてえと、部落はどんどん発展して来る。私達は地代がどっさり這入るし、あんたがたは商売が繁栄するってことになるじゃありませんか?」 「それはそうですね。じゃ一つ、御援助を願って、商人になりますかな。」 「俺の言ったのは、そう云う意味じゃねんだ。今に言わなくたって、わかるときが来るさ。一体全体百姓を廃めて、皆んな商人になれなんて、何処の世界にそんな馬鹿な話があるんだ。」
二
南向きの斜面は、雑木林の腕の中で、耕地から住宅地に整理された。 混凝土の泥溝をもった道路が、青い雑草の中に砂利の直線で碁盤縞に膨れあがった。碁盤目の中には、十字に椹の籬が組まれた。雑草は雨毎に蔓延って行った。荒地野菊が地肌を掩い、姫昔蓬が麻畠のように暗い林になって立った。蓼は細いちょろちょろの路をあけて、砂利の上にまで繁った。 「われわれから取上げやがって、ああして荒して置けあどうだと云うんだ。借手のつくまで、耕させて置けあ、幾らかなりの収穫があんのに……」 そこの土地を取上げられた小作人達、甚吉等はそれを見て、吐き出すように罵った。 併しこの場合は、地主達三人は、借手の要求のままに耕作中の畑の一隅を分割していたのでは、二重にも三重にも損なことを体験していた。彼等は私かな戦術をもって、一本の「住宅地分割貸地」の棒杭に合同したのだった。 「ちょっと考えると、斯うして遊ばして置いちゃ損なようだがね。なあに、町が直きそこまで拡って来てんのですもの。三人が一緒になって頑張ってれあ……」 「斯うして置けあ、なあに、一年も経たねえうちに、もう、皆んな住宅になって了いまさあ。」 そこで地主達に残されてある一つのことは、そこの住宅地を市街地に繋ぐ道路の計画であった。 「どんなにしても、二間道路よりゃ狭く出来ますめえが、坪十円で売って貰うことにしても……」 「馬鹿馬鹿しい! あんた! 道路にする土地を買っていられますか? 買手があって、われわれの方から売るんなら別問題ですがね。われわれは寄附して貰うんですな。」 「寄附して貰えるもんなら、そりや、勿論、それに越したことはありませんがね。」 「そこですよ。あんた!(土地の発展のため!)と云うことで、店を出したがってる奴等をあおるんですなあ。尤も、そうなれば、われわれの住宅地へだけ引張ると云うわけには行きますめえ。その辺へ二三本、余計な道路も引張らなくちゃね。」 「それで寄附してくれますかな? 一坪幾らって、皆んな勘定していますからなあ。」 「なあに、皆んな寄附しますよ。百姓を廃めて、店を出したがっている奴等ばかりですもの。店を出すにあ、どうしたって、自分の地所続きに賑かな道路がほしいですからなあ。」
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