7
房枝の父親は房枝の遺書に頼んであったことを守って、なにも言わずに房枝の葬式を済ませた。しかし、房枝の父はだんだん我慢ができなくなっていった。死んだ房枝のことを考えると、かわいそうで涙が出てきて、どうしても鈴木女教員を責めずにはいられない気持ちになってくるのだった。だが、房枝のああいう遺書のことを思うと、父親は涙を呑みながらも、歯を食い締めて我慢をするのだった。 毎日朝から晩まで房枝のことばかり突き詰めて考えていた房枝の父親は、房枝の三七日の墓参りの済んだあとでとうとう鈴木女教員を責めに彼女の下宿を訪ねていった。 「鈴木さんは、おいでかね」 こう言って鈴木女教員の部屋に入っていった房枝の父親は、そこの机で読書をしている鈴木女教員を見るとろくろく挨拶もせずに、懐から房枝の遺書を取り出した。 「これはわたしの馬鹿な娘の遺書ですがね。まあ、読んでみてください。娘は、わたしの口からはだれにもなにも言わないでくれと書いてありますがね。しかし、あなたにだけでもこれを見ておいていただかないと、わたしはどうしても気が済まないのです。そしてこれを見てくだされば、わたしの気持ちだって分かってくださるはずだから」 父親は初め怒りを含んだ声で言いだしたのであったが、言っているうちにだんだん哀れっぽくなってきていた。 「では、ちょっと拝見いたします」 鈴木女教員はなにげなくその遺書の手紙を読みだした。しかし、読んでいるうちに彼女の顔色は青白くなってきた。手紙を持った手が小刻みにわなわなと顫えだした。そして彼女は、手紙を読み終えると同時に、わーっ! と声を立てて泣いて、そこの畳に顔を伏せてしまった。 「房枝さんがこんな気持ちでいてくれたのに……房さんが……」 鈴木女教員はそう言いながら啜り泣いた。 「過ぎ去ったことは仕方がないです。ただ、房枝の気持ちが分かってくだされば、わたしはそれで気が済むというものです」 房枝の父親は、もはや鈴木女教員を責める気にはなれなかった。父親には、自分の娘と鈴木女教員との間が、お互いがどんな感情を抱き合っていたか、いまはそれをはっきりと感ずることができるような気がするのだった。 「でも、房枝さんも、ちょっと思い違いをしている点があるのです」 しばらくしてから、鈴木女教員は言った。 「わたしが吉川先生の洋服のポケットに手を突っ込んで物を探ったのは本当ですけど、それは蟇口ではなかったのです」 「暮口でなくて、なんだったというんです」 「それはどうぞ、いま、ここでは訊かないでくださいまし。いまに何もかも分かるときがまいります。かわいそうに、この部屋は房枝さんの拷問に遭った部屋ですから、わたしもこの部屋で拷問されたいのですけど、いまはなにも訊かないでおいてくださいませ。あの蟇口をとったのはわたしでもなく、もちろん房枝さんでもなく、それがだれだったかいまに分かるときがまいります」 「いったい、だれなんです! それは?」 「それをお話しするのには、わたしが吉川先生のポケットから何をとったかということからお話ししなければ分からないのです。しかし、わたしはいまのところそれを申し上げにくいのです。わたしの口から申し上げなくても、いまに何もかも分かって、わたしも房枝さんも明るみへ出られるのです。吉川先生が近々のうちに結婚をなさるそうですけど、吉川先生が結婚をなされば、それで何もかも分かりますから」 「え? 吉川先生が結婚すれば分かるんですって? どういうわけです」 「おかしい話ですけど、吉川先生の結婚が、わたしも房枝さんもそんな人間ではなかったことを証明してくれるのでございます。それまでなにも訊かずにおいてください」 「いや、なにもいますぐ聞かしていただきたいとは申しませんがね」 「わたし、これから房枝さんのお墓へお参りに行って、通じないまでもお詫びを申してまいりたいと存じますから……」 鈴木女教員は涙を拭きながら立ち上がった。
8
鈴木女教員はその晩、房枝と同じようにして自殺をした。房枝が帯をかけた鴨居に帯をかけて首を縊り、机の上に三本の遺書が置いてあった。 遺書の一本は自分の勤めていた小学校の校長に宛てられていた。他の二本は自分の父親と房枝の父親に宛てたものだった。 校長に宛てられた彼女の遺書は彼女の公開状ともいうべきもので、長々と書かれていた。そして自分の父親と房枝の父親に宛てた遺書の重要な部分は、いずれも校長に宛てた遺書の一部に過ぎないものだった。 高津先生。長い間いろいろとお世話さまになりました。いつまでもいつまでも先生の膝下にお導きを承りたく願っていたわたしではありましたが、悪戯好きな運命の神さまは辛い永久の別れを命ずるのでございます。 しかし、わたしはお別れに臨んで、悪魔の杖によって隠されたる原因をはっきりと申し上げておきたく存じます。わたしの教え子の千葉房枝がみずから果てて間もないのに、わたしがまた同じ運命を辿りましたなら、さぞかし世間の人々を驚かし、一つの謎を残すに相違ないと存じますから……。 高津先生。先生はわたしがこういう道を選びましたら、やはりこの原因は吉川訓導の蟇口に絡んでいるのだとお思いでしょうか。そうお思いになるのもご無理のないことでございます。そして、直接には実にその蟇口に原因を発しているのでございます。一個の暮口、十円足らずの金銭がこうして二つの魂を奪い、生命を攫っていくのかと思いますと、膚に粟の噴くのを覚えます。 しかし、その表面の物質的なものの裏に、もっともっと複雑した精神的なものがあったのでございます。そしてそれは、ある教師の不道徳な行為から出発しているのでございます。そのある教師とは、やはり先生の膝下に教鞭を執っている吉川訓導なのでございますが、わたしはその理由を詳しく証明いたしたくはございません。彼のやがての結婚が、もっとも的確にこれを証明してくれるからでございます。 わたしは先生の膝下にまいりましてから間もなく――甚だお恥ずかしいことですが、これはわたし一個人に関することでなく、千葉房枝の名誉にも関することですから、もう何もかも申し上げてしまいます――わたしは吉川訓導と、深い深い恋に落ちたのでした。そしてわたしたちは、お互いの愛情を交換すべく、一つの方法を思いつきました。わたしは雨の降らない日の休業時間には、決して生徒を教室の中に置きませんでした。そして吉川訓導は、シャツ一枚になって生徒とともに運動をいたしました。この二つの新しい運動奨励法は、校長先生をはじめ他の先生がたからたいへんほめていただいたのですが、吉川訓導はその洋服を、きっとわたしの受持ち教室の窓に投げかけておいたことをお気づきでございましたでしょうか。わたしたち、お互いの愛情の交換は、その洋服のポケットの中で行われていたのです。吉川訓導はポケットの中に手紙を入れて、その洋服を運動場のほうから窓へかけていく。わたしは生徒のいない教室へ入っていって、内側からそのポケットの中の手紙を取り、自分の手紙を残してきたのでした。そしてわたしたちの恋愛は、六か月にわたって続いていきました。わたしはその間に、自分のすべてを吉川訓導に捧げたのでした。しかし吉川訓導は、彼のすべてをわたしに与えていたのではありませんでした。 最後に吉川訓導は、自分たちはどうしても別れねばならないことをわたしに告げてまいりました。許嫁の方があり、近々のうちにどうしても結婚しなければならないからとの理由でございました。わたしは潔く諦め、彼の卑劣な過去を許してやろうと考えたのでございます。しかしそれと同時に、卑屈な吉川訓導は許すことのできない不道徳な行為をしていたのでございます。その卑屈な陰険な行為こそが純情な千葉房枝を殺し、わたしにこういう道を選ばせることになったのでございます。 わたしが吉川訓導から、彼の結婚を告げた手紙を受け取ったとき、ちょうど千葉房枝は頭が痛むというので教室に休んでおりました。そして彼女は、見るともなしにわたしが吉川訓導の洋服のポケットを探っていたのを目撃して、わたしが何かものを取っているものと思ったのでございます。そしていよいよ蟇口のなくなった騒ぎになりますと、純情な彼女はわたしを案ずるのあまり、とうとう脳貧血を起こして倒れたのでございます。それを、なんと愚かなわたしの錯覚でございましたでしょう? きっと彼女がその蟇口を取ったものと思い込み、まるで拷問にかけるようにして訊こうとしたのでございます。しかし、純情であくまでわたしを慕っていた彼女は、とうとうわたしを罪人にすることができずにみずから自分の身を殺していったのでございます。(千葉房枝の純情は、彼女が彼女の父親に書き残した手紙をお読みくださいませ) そして、千葉房枝がわたしの名誉を気づかいながら書いた遺書によりますと、吉川訓導の蟇口はわたしが取ったことになっておりますが、前にも申し上げましたように、それは、わたしがポケットから手紙を取ったのを目撃した彼女の錯覚で、実はわたしでもなかったのでございます。その名誉はわたしが死をもって証明すると同時に、さらに的確に、吉川訓導の近々に挙げられる結婚が証明してくれることをわたしは信じております。と申しますのは、吉川訓導はわたしがそのポケットを探ることを知っていて、自分の蟇口がなくなったという穽を構えて、わたしをその無実の罪に陥れ、自分からわたしというものを有無を言わせずに引き裂こうとしたのでございました。 高津先生。こうして、彼の卑劣な虚構が純情無垢の千葉房枝を殺してしまいました。わたしはこれから、気の毒なかの少女を慰めるべく、彼女の後を追ってまいります。どうぞわたしに代わり、吉川訓導の卑屈な不道徳極まる行為を責められ、哀れな少女千葉房枝の名誉を世の中の人々にお告げくださいますようお願いいたします。 わたしのこの遺書と、千葉房枝が彼女の父親に宛てた遺書とを卑劣な吉川訓導の目に晒して、彼の卑屈にも不道徳極まる精神を刺激し、神聖な教育界から彼のごとき人間を除き、純情無垢の児童の将来と幸福とを誤りませんよう、お別れに当たりくれぐれもお願いいたしておきます。
鈴木女教員が高津校長に宛てた遺書には、だいたいこういう意味のことが書かれていた。
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