3
風が少しあった。窓の前で、落ち葉が金色や銅色に光って散っていた。午後の陽に輝きながら、ひっきりなしにぱらぱらと散るのだった。そして、落ち葉にうずめられた運動場の一部は、まるで火の海のようにぎらぎらと陽の光を照り返していた。生徒たちは赤い顔をして落ち葉の中を駆け回っていた。白いシャツの吉川訓導の後姿がその中にちらりと見えた。 鈴木女教員は教員室を出ていった。 彼女は廊下を歩きながら、胸の轟きを感じた。彼女にとって、もっとも魅力のある数分間だった。 教室の入口の扉が一尺(約三〇センチ)ほど開いていた。彼女は目を瞠るようにして立ち止まった。心臓が急に激しい運動を始めた。教室の中には机の上に顔を伏せて、一人の女生徒が残っていたからだった。彼女はしいて気持ちを静めようと努めながら、静かに教室の中へ入っていった。 「房枝さん」 鈴木女教員は軽くその女生徒の背中を叩きながら、低声に呼んだ。しかし、女の子は顔を上げなかった。鈴木女教員はその瞬間に、窓にかかっている洋服を思い出した。やはり目を覚まさないでいてくれるほうがいいのだと思った。鈴木女教員は房枝をそのままそっとしておくようにして、静かに窓際へ寄っていった。そして、しゃがむようにしてポケットの中へ手を突っ込んだ。 房枝は鈴木女教員がポケットへ手を突っ込んだちょうどその時、顔を上げて彼女の後姿を追ったのだった。そして、房枝はもう少しで叫び声を上げるところだった。自分のもっとも敬愛している鈴木先生が、そこの窓にかかっている他人の洋服のポケットに手を突っ込んで何か探しているのを見たからだった。のみならず、鈴木先生がそのポケットの中に探り当てたものを、素早く自分のポケットの中へ押し込んだからだった。房枝は見てはいけないものを見たのだった。彼女はすぐにまた机の上に顔を伏せてしまった。胸がどきどきと騒ぎだしている。 「房枝さん、房枝さん」 鈴木女教員はまた房枝のところへ戻ってきて、その肩を叩いた。 「房枝さん、どうかしたの? え?」 「頭が痛いんです」 房枝は真っ青な顔を上げて言った。 「頭が痛いんですって!」 鈴木女教員は房枝の額に手を当てて熱を診た。 「熱は大してないようね。脈は?」 彼女は脈を診たり、心臓に手をあててみたりした。 「脈が少し多いようね。あら、心臓がばかに早いじゃないこと? こうしていても大丈夫なの? 何かお薬を持ってきてあげましょうね。静かにして寝ていらっしゃい」 鈴木女教員はそう言って、教室を出ていった。
4
午後の第一時間の授業が始まった。吉川訓導は生徒を連れて畑から運動場へ出てきた。 「じゃ、おい、みんなね、大急ぎでこの落ち葉を掻き集めてくれ」 吉川訓導はそう言いながら、落ち葉を蹴って歩いた。生徒たちは、わっ! といっせいに地肌を覆い隠している落ち葉を掻き集めにかかった。 「なるべく埃を立てないようにしてくれ。そして、集めた木の葉はいまみんなで掘ってきた穴のところへ運んでいって、積んでおいてくれ」 窓にかけておいた洋服を取って着ながら、吉川訓導は言った。 「じゃいいかい。おい級長、あまり騒ぎ回らないようにするんだよ」 吉川訓導はそう言って、行きかけながらポケットの中を探った。そして、急に驚いた表情で立ち止まった。 「おい! 蟇口を拾った人はないか?」 吉川訓導はなおもポケットの中を掻き探りながら、生徒たちのほうへ戻っていった。 「拾わねえ、おれは」 「おれも拾わねえ」 生徒たちはがやがやと吉川訓導の周囲を囲んだ。吉川訓導は未練らしく探りつづけた。 「あ、田中の奴、おれらが畑から来たとき、ここにいて先生の服をいじってたっけが……」 「田中はどこへ行った?」 「田中は落ち葉を運んでいったから、いまに帰ってきます」 落ち葉を運んでいった六、七人の生徒が駆け戻ってきた。その中に田中が交じっていた。 「田中くん。先生の蟇口を知らなかったか?」 級長の杉村が田中のほうへ歩み寄りながら訊いた。 「きみはぼくらが畑にいるうちからこっちへ来て、いちばんにこっちへ来て、先生の洋服を弄っていたそうじゃねえか?」 「ぼくはね、ぼ、ぼ、ぼくはね、先生の洋服を、ま、ま、窓へかけてやっただけだよ。ただ、窓へかけてやっただけで、弄らねえよ、ぼくは」 「では、先生の服は落ちていたのかい?」 吉川訓導は級長に代わって訊いた。 「はい。お、お、落ちていました。そして、ど、ど、ど、どこかの犬が咥えて歩いていましたから、そ、そ、それを取り返して、ま、ま、窓へかけておいただけです」 「うむ……」 吉川訓導は軽く唸って、田中の顔を見詰めた。 「吉川訓導、どうかなさいましたの?」 鈴木女教員が窓から首を出して言った。 「え、蟇口をなくしてしまって……」 「まあ、お落としになったんですか? ポケットへお入れになっておりましたの?」 「確かに入れておいたはずなんだが……」 「では、一応わたしのほうの生徒にも訊いてみましょうか?」 鈴木女教員はそう言って、教壇へ戻った。 「さあ、ちょっとペンを置いて。こっちを見て。……吉川先生が蟇口をおなくしになったそうですけど、みなさんのうちに拾った方はありませんか? 拾って、先生に届けようと思っていて、まだ届けずにいる人はすぐ先生のところへ持っていらっしゃい。……いますぐに先生に届ける人は、その人は正直な人です。たとえ拾ったものでも、その、その人は、泥棒……」 ここまで話したとき、一人の女生徒、千葉房枝が机の横にばたりと倒れた。 「どうしたの? 房枝さん! どうしたの?」 鈴木女教員は慌てて教壇から下りていった。房枝は静かに起き上がって、真っ青な顔をしておどおどした目で鈴木女教員の顔を見詰めた。 「どうしたの? まだ頭が痛むの?」 房枝は鈴木女教員の視線を避けるようにしながら、静かに首を振った。 「ではどうしたんですの? あなた、吉川先生の蟇口を拾わなかったこと?」 房枝はなんとも答えなかった。ただじっと、鈴木女教員の顔を見詰めた。 固唾を呑むようにして房枝の席のほうを見詰めていた生徒たちが、ひそひそと囁きだした。房枝が拾ったのではないだろうか? そんなことが囁き交わされているのだった。 「房枝さん、あなた本当に知らないのね」 「…………」 房枝は小刻みに顫えながら頷いた。 「では、まあ、あなたは病気なのだから、宿直室へ行って休んでなさい。……ね。さあ、一緒にいらっしゃい」 鈴木女教員はそう言って、房枝を連れて教室を出ていった。
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