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汽笛(きてき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-6 9:17:11 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 見えない機関車 鮎川哲也編
出版社: 光文社文庫、光文社
初版発行日: 1986(昭和61)年10月20日

 

改札孫の柴田貞吉しばたていきちは一昼夜の勤務から解かれて交代の者にはさみを渡した。朝の八時だった。彼は線路づたいに信号所の横を自宅へ急いだ。
「おーい! 馬鹿に急いで帰るなあ」
 信号所の中から声をかけたのは彼と同じ囲いの官舎にいる西村にしむらだった。彼は振り返って微笑ほほえんだ。突然で言葉が出なかったのだ。
「細君はどうなんだ? 幾分かはいいのか?」
「同じことですね。起きてはいますけれど……」
「起きてるのなら、散歩にでも連れて出てみるんだな。あんまり家の中にばかりいるのも、身体のためじゃないぜ」
 西村はそう言いながら転轍機てんてつきそばへ近付いて行った。
「今夜は七時の交代でしょう? 早く帰って闘球とうきゅうをしに来ませんか? 西村さん」
 貞吉は、頭の中で、自身の若い細君をどうしてよろこばせたらいいかと、そればかり考えているのだった。
「行くがね。しかし君のところの細君は闘球盤なんか絶対に駄目だよ。あんなこごんで胸を圧迫するようなことは全然いけないね。まあ今日は昼のうちに散歩に連れて行きたまえ。悪いことは言わないから」
 西村はまた次の信号に掛からねばならなかった。
「え。連れて行くつもりなんです」
 貞吉は子供らしい動作で軌条の上を歩き出した。足を踏み外さないようにと用心する動作は過去の記憶をよみがえらすのだった。
 ――今の妻の家の前を、彼女が窓からていることを意識しながら、口笛を吹き鳴らし、綱渡りの格好で軌条の上を渡り歩いたころを。その窓からは、あの秋子あきこ蒼白あおじろい顔ばかりでなく、父親の吉川よしかわ機関手が、真っ黒い髯面かおのぞけていることがあったことを。

 柴田貞吉は秋子を連れて官舎を出て行った。
 鉄道線路の高土堤たかどてが町はずれの畑の中を走っていた。さながら町の北側に立ち回した緑色の屏風びょうぶだった。長い緑の土堤には晩春の陽光がいっぱいに当たっていた。その下は土を取った赭土あかつちの窪地。としを取ったどすぐろい汚水、死に馬の眼のような水溜まりだった。水面には棒切れや藁屑わらくずが浮いていた。岸に幾株かの青い若葉の猫柳。くさむらの中からは折り折り蛙が飛び込んだ。鈍い水の音を立てて。
 清新な暖かい気流、うららかな陽光。静かに青波あおなみを打つ麦畑。煤煙に汚れた赤煉瓦れんがの建物が、重々しく麦畑の上に、雄牛のように横たわっていた。白い煙突からは黒い煙がうずを巻いて立ちのぼった。そしてだんだんと赤味を帯びながら悠長ゆうちょうにたな引くのだった。
 彼等二人は青草の土堤に腰と背とを当て暖かな陽光にひたった。
「どうだ。あの煙は? この町は空気が悪いんだね」
 貞吉と秋子とは視線をそろえて工場の煙突から立ちのぼる黒煙に向けた。
「どうかして転地でもしなければいけないね。秋ちゃんのうちから半分出してくれないかな。そしてどこか空気のいい海岸へでも転地していれば……」
「まだ結婚さえ許してくれないのですもの。それよりも、お父さんが私達の結婚を許して下さるといいと思うわ。そしたら、私、死んでもいいわ。私もうそれだけよ」
「馬鹿な。僕が困るじゃないか。近ごろ少しふとったじゃない? どれ手を……」
 貞吉は秋子の手を自分の膝の上に取った。
「肥るわけないじゃないの」
 汽笛が高らかに響き渡った。獣類のえるように、うなるような余韻を引いて、そして機関車はもくもくと黒煙をあげながら麦畑の中をつつみの上を突進して来た。
「あら! あの機関車は、お父さんが乗っているのよ」
 秋子は堤草どてくさに身体をすりつけるようにして小さくなり顔を伏せるのだった。貞吉はあわてて彼女の手をほどいた。直通列車がすさまじい速力で囂々ごうごうと二人の頭の上を過ぎて行った。
「どうしてわかる?」
「だって、あの汽笛は、お父さんの鳴らす汽笛なんだもの、そりゃ直ぐ判るわ」
 秋子は顔をあげて列車を見送った。
「汽笛で判るかい? ほんとに?」
「判るわ。よく判るわ。鳴らす人によってみんな違ってよ。お父さんの汽笛はああいう吼えるような唸ような長い音なのよ。兄さんのは、何かしら三味線のいとでもたたくような、短い汽笛よ」
「ほんとに判るのかなあ?」
「そりゃ判りますとも。お父さんなど、機関庫中の人のをみんな聞き分けるのよ。私だってお父さんのと兄さんのと、それからお父さんの助手をしていた青木さんのと、三人の汽笛を聞き分けられるわ。ほんとなのよ。兄さんが機関車に乗り初めのころには、うちの前を通る時には汽笛をきっと鳴らすのよ。ああ兄さんの汽笛だって窓から顔を出して見ると、真っ黒な顔で得意そうに笑って行くのよ。それから青木さんの汽笛はとても優しいの。泣くような。訴えるような。お父さんは青木さんの汽笛が鳴ると、ああ青木が泣くから、発車の時間だ、なんて出掛けて行ったものだわ」
「そんなによく判るものなら、お父さんは、僕達がここに来ていることを知ったら、ここを通るときには、汽笛を鳴らさないだろうな。あんなに怒つたのだから」
「さあ? 案外そうでないかもしれないわ。どんなに怒ってみたところで親子は親子ですもの、もう今ごろは、直ぐ許してくれるかもしれないわ。私、手紙を出してみようかしら。ここにいるからここを通るときには、汽笛だけでも鳴らしてくださいって。今ごろは、私達のことをきっと心配しているのよ」
「でも、随分と頑固だからな」
「表面では怒ったような顔をしていても、きっと心配しているんだわ。私達だって、心の中では可愛いんだわ」
 秋子の眼は濡れて光って来た。

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