秋子が父親の吉川機関手に手紙を書いて以来、上り下り二回の直通列車が、汽笛を鳴らさずにその駅を通過することがたびたびだった。鳴らして通る汽笛は、短い打ち切るような性急な音間の抜けた余韻を持たぬ音。波間に浮き沈むような抑揚の激しい長い音。あの野獣の吼えるような唸るような余韻を持った音ではなかった。 病勢が加速度を持ち出して秋子は床に就いたきりだった。そして彼女は、列車の通るたびごとに自分の耳が兎の耳のように長くなるように感ずるのだった。失望から失望の連続だった。その事がまた病勢を強めるのだった。 「こんなことになるのなら、いっそのこと、手紙を出さなければよかったのだわ。私の方でだけでも、お父さんの汽笛を聞いていられたのに……」 彼女は眼を潤ませてその言葉を繰り返した。弱い苦しそうな声で、そして力のない咳をした。貞吉も同意見らしく何も言わなかった。 「いや、こっちへ来ないんだろう。僕の考えでは、むしろ喜んでいて、今に汽笛を鳴らして通ると思うな。和睦の汽笛を」 傍からいつもこう言うのは信号係の西村だけだった。西村は秋子を慰めようとするのだった。 「汽笛どころか、今に会いに来るよ。怒るときには怒っても、親じゃないか」 「私、逢いに来てくれなくてもいいから、許してだけくれるといいんだわ。私だって、親から許された柴田の妻で死にたいわ。許した証拠に、汽笛だけでも鳴らしてくれると……」 彼女は、そうして湧き出る涙を拭く力さえも失っていた。黒い幕は目前に近付いている気がするのだった。 「死んで行く者を、許してくれたっていいと思うわ。今になって、私の方で、折れるわけにはいかないじゃないの」 秋子は恨みがましく呟くのだった。貞吉は無言で傍から彼女の涙を拭ってやるのだった。
遠方信号が赤だった。吉川機関手は眼をむいて拡大鏡から前方を見詰めた。そして、レギレーターを戻した。もし信号機に故障があれば、暗闇の信号所で青い提燈を振り回すはずだ。 列車は遠方信号に接近した。機関手はブレーキに手をかけた。そして汽笛の紐を引いた。野獣の吼えるように、唸るように、余韻を引いて汽笛は高らかに響き渡った。 信号が青に変わった。機関手は舌敲ちをしてレギレーターを入れた。列車は轟然と突き進んだ。と、また場内信号が赤かった。吉川機関手は周章てレギレーターを戻しブレーキを入れた。そしてもう一度汽笛の紐を引いた。機関車は高らかに吼えた。唸るような余韻を引いて。が、もうブレーキでは間に合わなかった。列車は官舎の横まで来ていた。場内信号はすでに眼の前だった。吉川機関手は腰を上げて、リバース・シングルバース・ハンドルを引き倒した。列車は逆戻りをする前にまず速度を失った。 場内信号が青に変わった。吉川機関手はもう一度汽笛を鳴らしてから、リバーース・シングルバース・ハンドルを戻してレギレーターを入れねばならなかった。 「おい! ねぼけていちゃ駄目だよ」 信号所の横を通りながら吉川機関手は叫んだ。錆のある優しい声で。そして彼は急速力で走り出した機関車の窓から顔を出して場内を見返った。潤み霞んだ眼には停車場の赤や青の燈火が水に映る影のように暈けて揺れていた。
秋子の呼吸からは音を聞くことができなくなった。秋子の生命の余白を彼女の呼吸で計ろうとする貞吉は急に不安を感じ出した。彼は感覚の全部を耳に集めて彼女の顔を見詰めるのだった。微かにも動かなかった。 見詰め続けていると彼女の顔は彫刻的な感じから絵画的なものに変わって行った。汚れた木炭紙の蒼白さだ。もはやその眉や髪さえが貞吉には色彩としての働きを持つだけであった。 汽笛が鳴った。遠方信号のあたりで、野獣のように吼え、唸るように余韻を引いた。 秋子は瞬きをした。そして大きく眼をった。彼は彼女の顔から遠ざかってなおも彼女の顔を見詰めた。彼女の眼の表情は汽笛の余韻を辿っていた。 汽笛! 彼等の窓に震動を投げながら高らかに吼えた。犬の唸るような余韻が、どこかに反響した。 「あら! お父さんだわよ!」 秋子は白い敷布の上から窓へと転げて行った。貞吉は驚異の眼を彼女に向けてった。 「お父さん? お父さん!」 開かれた窓から首をだして彼女は叫んだ。眼の前に長い窓の行列が燈影を撒き散らしながら静かに走っていた。 「お父さん!」 喜悦に満ちた力いっぱいの震えを帯びた声だ。 汽笛だ! 三度目を吼えた機関車は、唸るような余韻を別れの挨拶のように引いたのだった。 「あなた! あなた!」 秋子は貞吉の胸に飛び付いた。彼は彼女を固く抱擁した。彼女の眼は濡れてぎらぎらと光っていた。 「おい! 秋ちゃん!」 彼は彼女の身体に重さを感じて叫んだ。彼は素早く、彼女を白い敷布の上に戻した。しかしもはや彼女の脈は絶えていた。興奮状態からの微かな体温を残して。 機関車が過ぎ客車が掠めて行った。明るい窓の行列。機関車のビストンの音は客車の軌条を噛む音に掻き消された。 西村は信号所の窓から首を出して寂しく微笑した。 「おい! ねぼけていちゃ駄目だぜ」 優しい錆のある声が列車の轟音の消えた中にいつまでも残っていた。 西村は時間の経つにつれて次第に寂しくなって行った。彼の意識の中に築きかけられた美しいものが、吉川機関手の一言で崩されてしまったのだった。あの優しい声は確かに彼の秘密を覗破っているようだった。彼は同時に、秋子が、完全に柴田貞吉の妻であると意識を持つであろうことにも、ある一種の寂しさを感じた。 彼は固く自分の胸を抱きしめた。寂しい気持ちの充満した胸をぎゅっと抱きしめた彼は、狭い信号所の中をがたがたと歩き回った。
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