○ 梅の花は落ち着いています。本当に沈着な花です。思い切って、一度にぱっと開くことの出来ない花です。梅の花の妙味はそこにあるのだと思います。あの、早春の鉛色の空を背景にして、節くれだった、そしてひねくれ曲がった枝に、一輪二輪と綻び初めるところは、清新な、本当になんとも言われない妙味のあるものです。そして又、その時ほど梅の花が純潔に、気高く見えることは無いのです。又、まんまるにふくらんだ白い蕾が、内に燃える発動を萼のかげに制御しながら、自分の爆発する時期を待っているのもいいものです。そして、このとき梅の花は、その中央に抱く雌芯雄芯の色や、ふくらんだ褐色の蕾と調和して、最も質朴に見え、古典的な感じを与えるのです。 ○ 梅の花の美的情緒は、小鳥をはなして想い描くことが出来ません。わけても雀です。そしてその時の梅の花は、本当に冴えざえしく見えるのです。小鳥は又、花の香りを嗅ごうとするように、やけに鼻先を突き付けて、さては蕾を啄んだり、花を踏みこぼしたりするのです。そして小鳥たちの歌う歌から、一声ごとに、明るい世界が開けて行き、梅もそれにつれて、花は香りを深め、蕾は弾けて行くように思われます。 ○ 梅の樹は老人くさい木です。あの節くれだって、そしてひねくれているところは、なんといっても頑固なお爺さんです。併し、なんとなく気品のある老人です。それだけ梅の樹には、老人がよくうつります。まず私達は、土器のように厚ぼったく節くれだち、そして龍のようにくねった梅の木を想い描くとき、その下に、曲がった腰を杖に支えて引き伸ばし、片手を腰の上に載せた白髯のお爺さんや、白い頭を手拭いに包んで、鍬の柄を杖に、綻びかけた梅の花を仰いでいるお爺さんを想い描かずにはおられないのです。そしてそれは、決して美的な空想ではなしに、私達は奇妙なほど、ひねくれ曲がった梅の樹に、老人のつきまとっているのを見るのです。 ○ 梅の樹の、最も私達の美的情緒を惹くのは、なんといっても、やはりその樹形の節くれだってひねくれているところだと思います。利鎌のような月の出ている葡萄色の空に、一輪二輪と綻びかけている真っ直ぐな枝の、勢いよく伸びているのもいいものです。ですが、その若い枝の根元から、私達は、ひねくれながら横へそれている老木の姿を想い求めずにはいられないのです。 ○ さらに私達のなつかしむのは、あの古典的な樹皮です。渋い渋い感じの、そして質朴な、あの樹皮です。あの龍のような不格好な老樹が、もし滑々した肌をもっていたら、それはとても見られたものではないでしょう。それに、絵の具をぬたくったようにくっついているあのうめのきごけが、どんなに私達の心を落ち着かし、古典的な感じを与えるか解らないのです。それは、うめのきごけが、樹皮の乾燥している老幹に宿をかりるという、科学的な、又は自然的な関係からばかりでなく、自然の美的情緒を深めるためにも、梅の老樹を灰白色に、或いは茶褐色にぬりつぶしているような気がします。 ○ 深い香りの花です。本当に深い香りを漂わせる花です。それが燥ぎきった空気の中を遠くまで流れて行きます。小鳥も人間も、この香りに花の在所へと誘われるのです。鼻の感覚の鈍くなったお爺さんもです。 ○ 梅の花の香りの流れているところは、きっと、それは人里です。梅の樹のないところには、その土地に住みなれたお爺さんもいなければ、人のいないところには梅の花も咲かないのです。梅の樹はどこまでも人なつこい木です。いや人間が梅の木につきまとうのかも知れません。路に迷った旅人が、ほっと胸を撫で下ろすのも梅の香りです。それだけ梅の木は人間と密接で、人の世の古い歴史をひそめているのです。
睡蓮
睡蓮は本当に可憐な花です。孤独の淋しさを悩む無口な少女のように哀れっぽい花です。総ての悩みも悲しみも、苦しみも悶えも、胸に秘めて、ただ鬱々と一人哀しきもの思いに沈むというような可憐な表情を持つ花です。その可憐な表情こそ、睡蓮の花の私達の心を惹いてやまないところです。 ○ 寂しい睡蓮の花は、淋しい情景の中に咲いてこそ、その哀愁的美、詩的情緒が私達の胸にぴったりうつって来るのです。巡礼乙女のお鶴や石童丸のように、親を尋ねて漂泊う少年少女が、村から村へと越える杉杜の中の、それも鬱蒼と茂った森林の中の、そして岸には葦が五六本ひょろひょろと生えていて、緑い藻などが浮き、鏡のように動かない古池に、ぽっつり夢のように浮いている睡蓮の花を見たら、きっと、泣き出したに相違ありません。哀しい少女の心には、睡蓮のあの可哀想な、淋しそうで悲しそうな、あの気持ちがあまりにもぴったりはいって来るからです。 ○ 衰滅の美――という言葉があります。私達は、屋島の戦いに敗れた平家の話や、腺病質の弱々しい少女が荒い世の波風にもまれている話を聞くとき、その哀れな一種の美しさにうたれます。――それが衰滅の美というのでしょう。睡蓮の花はどうかすると、この衰滅の美という言葉に、ぴったりすることがあります。あまりにも可憐な、弱々しい花だからです。 昔の栄華を語る古城のほとり、朽ちかけた天守閣には蔦かずらが絡み、崩れかけた石垣にはいっぱい苔が生え、そのお濠に睡蓮の花が咲いていたら、私達は知らぬ間に、涙含ましい気持ちでいっぱいになっているに相違ありません。 ○ 緑滴るころ、東京近郊では、井之頭の池に、あの静かな、原始林のような森林に囲まれ、錆のついた鏡のような池の面に、白い夢のように睡蓮の花が浮いています。そのまわりに、小さい水鳥が浮いたり沈んだりして遊んでいるのを見ることもあります。
――昭和六年(一九三一年)『新月』四、五、六月号――
●表記について
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