佐左木俊郎選集 |
英宝社 |
1984(昭和59)年4月14日 |
序言
植物のもつ美のうちで、最も鋭く私達の感覚に触れるものは、その植物の形態や色彩による視覚的美であろう。それから嗅覚的美、味覚的美といった順序ではないかと思う。併し、私達の心の中のロマンチストは、その伝説を聞き、名称の持つ美から、未知の植物に憧れることが少なくない。そしてまた私達のセンチメンタリストは、廃墟に自然が培う可憐な野草に、涙含ましい思いを寄せることがある。 ○ 植物の生理的作用は、その形態と色とによって植物体の美を表現する。深緑の葉、真紅の花、さては薄紫の色に、或いは淡紅色に…… そして春の野は緑に包まれ、夏の森林は深緑がしたたり、秋の林は紅葉の錦を纏う。落葉樹が寒風に嘯き早春の欅の梢が緑の薄絹に掩われるのも、それは皆すべて植物の生理的必然の作用に他ならない。 * 併し、私達の詩的感情は、何が故にと、その植物固有の、所生や境遇や季節による生理的必然の作用としての生理的変化を探究しようとするのではない。私達はその科学的見地から離れて、それらとりどりの植物が、いつの季節に、いかなる境遇において、最も強く私達の美的感覚に触れるかを、その所生の境遇と外囲の関係とにおいて、その植物固有の美的表示を知ろうとするだけである。 ○ 例えば、菌、苔、藻草のような植物でも、その所生の境遇と外囲の関係とによって初めて私達の詩的感覚を打つのである。樅、落葉松、栂などのように、深山に生ずる植物は、深山の風景に合わせて見なければ趣が少ない。柳、蓼、蘆などのように、水辺の植物は水に配合して眺めなければその植物の美的特徴を完全に受け取ることは不可能と言っていい。その他、丘陵、高山、原野、沼沢、砂地、海辺、田圃、河畔、庭園など、その土地に在る植物の美を知るには、その植物それぞれの所生の状態、季節や気象に伴うて現わす変化、又は花と昆虫、或いは果実と鳥との関係というように、一々その自然との関係に就いて観察する必要があると思う。
福寿草
福寿草は敏感な花です。最も鋭敏に温度を感ずる野草です。福寿草は残雪のまばらな間から微かな早春の陽光をあびて咲き出るのです。そしてとても光に感じ易く、光を憧れる花なのです。夜明けの微光とともに開いて、夜の暗さとともに眠るのです。太陽の輝きが燦爛たれば燦爛たるほど元気で、曇れば福寿草も元気なく項垂れます。寒さと暗さとをおそれる臆病な花だけに、あどけなく可愛らしい花です。 ○ 春の訪れを最も早く感ずるのは、あらゆる野草のうちで福寿草が一番早いような気がします。朝の縁先に福寿草のあの黄金色の花が開いているのを見ると、私達はなんとなく新春の気分に浸って来ます。また、それとは反対に、春になっても、福寿草の花が咲かないと、陽春の季節を迎えた気分にはなれないのです。 ○ 福寿草は暖かい花です。そして明るい花です。あの黄金色に輝く花が、緑の縮緬のような、すがすがしい茎の上に、可愛らしいあの明るい顔を擡げると、私達は去年から重ねて来た着物を、一枚へらさねばならないことを感ずるのです。その時の私達は、明るい晴れやかな心になって、福寿草とともに、涙含ましい気持ちで春の陽光に感謝しています。 ○ 福寿草はどうかすると、非常に哀れっぽく見えることがあります。そんな時の私達は、きっと、襟をかき合わせ、眉を寄せて寒空を見上げているに相違ありません。庭の捨て石や蹲み石のもとに植えられた福寿草は、よく自然の趣を見せてくれます。けれども、あの肌寒い春さきの風が、思わず障子を閉めさせる時、本当に歔欷いているのではないかと思われるほど、微かに顫えながら哀しい表情をしています。 ○ 北海道の人里はなれた植民地に咲く福寿草は、そこに孤独な生活を送る人々の心を、どんなに慰めることでしょう。長い間を雪に埋もれて、郷里を憧れ、春の陽光を待ちわびている孤独な人達が、そろそろ雪が消えて、斑らに地肌が見えかけて来た時、雪間がくれに福寿草の咲いているのを見たら、どんなによろこぶことでしょう。そしてはまた、郷里を想い、自分達の活動を想い、淋しい生活を振り返って、感慨無量の涙にくれるに相違ないのです。 ○ 福寿草は、孤独な人々の心をよく知ってくれます。そして慰めてくれます。もうよぼよぼになったお爺さんが、長い白い髭を垂れて日当たりのいい南の廊下で、暖かい陽光を浴びて咲き輝いている鉢植えの福寿草を前に、老眼鏡をかけて新聞を読んでいるのや、北海道辺の新開地の農夫が、木の根の燻ぶる炉ばたで、罐詰の空罐に植えた福寿草を、節くれだった黒い手でいじっているのなどは、いい調和です。それは、その人々も淋しければ福寿草も淋しいからです。そして、その人々も光を憧れ、春の訪れを待ちわびていれば、福寿草も太陽の燦爛と輝くのを待ち焦がれているからです。
梅
梅の花はなんとなく先駆者という感じです。寒さをおそれず、肌を刺すような北風の中で弾けるだけに、なんとはなしに草木の先駆者というような気がします。梅の花の一輪二輪と綻びるころの朝夕は、空気がまだ本当に冷えびえとしていて、路傍には白刃のような霜柱が立ち並び、水溜まりには薄い氷がはっています。私達は冬の長い習慣で、襟の中にすくんでいる首を、無理に伸ばすようにして、ふところ手のまま見上げるのです。本当に、ふところ手のまま、一輪二輸と綻びかけたのを見上げるのです。
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