6
前田鉄工場の職工たちは観桜会のその場から、ことごとく警察に挙げられた。そして、前田弥平氏絞殺のことについては夜を徹して厳重な取調べが続いた。しかし、だれもそれを自白する者はなかった。 「……では、だれじゃないかな? ぐらいの想像ならつくだろう」 係の警察官はそう訊くより仕方がなかった。 「それが、どうも。七十人近くの人間がみんな同じ着物、同じ顔をしていたものですから……」 「いったい、あの仮装はどっちが考えたのかね? 工場主のほうで考えたのか? それとも、きみたちのほうが考えたのかね?」 「あれは工場主のほうで考えて、必ずその仮装をして出るようにとのことでしたもんですから……」 「分からん! どうも分からん!」 係の警察官はそう言って、頭を振るより仕方がなかった。 「工場主はいったい、なぜあんな仮装をきみたちにさせたのかね? 何か目的があったのだと思わないかね?」 「わたしたちには分かりませんです」 「どうも不思議だ」 「でも、工場主が職工たちとの間を親密なものとしようとして、花見をしたことだけは分かります」 「それはそうだろう。しかし、なぜあんな同じ仮装をさせる気になったか? どうも分からん」 結局、そこに挙げてきた職工たちの中から犯人を捜し出すことはできなかった。職工たちと同時に、工場主と一緒だったその家族の人たちも一応は調べられた。もちろん、犯人はそこからも挙がらなかった。 警察ではそして、その職工たちの中からもっとも過激的であると睨んでいた七、八人を残すよりほかに仕方がなかった。事件の端緒が間接的にも直接的にも、今度の争議に発しているからである。 その七、八人の中から、わけても真犯人としての嫌疑をかけられているのは山本と河瀬とであった。山本は前田鉄工場へ来る前にある大さな鉄管工場に働いていて、その工場に争議があったときその工場を経営している会社の社長の自宅を訪問し、社長にピストルを突きつけ脅迫罪の前科を持っている男だったからである。そして、河瀬は前田鉄工場の今度の争議に際して幾度も工場主前田弥平氏をその自宅に訪問し、そのたびに脅迫的な言葉をもって弥平氏と激論していたからであった。 しかし、この二人の嫌疑者にも、その証拠となるべき充分な何物もなかった。しばらくして彼らも放免された。 そして、前田弥平氏殺害事件は忙しい社会から、新しい事件の下積みとなってしだいに忘れられていった。警察のほうでもまた真犯人検挙のために注いでいた全力を中止して、その方針を改めなければならなくなってきていた。
7
主人の弥平氏を失った前田家では、その鉄工場を他人の手に渡してしまおうという話が持ち上がった。個人でその工場を経営しているばかりに、しばしばのことその家人までがいやな思いをさせられるからである。そして、その工場を手放すことによってかれらの今後の生活は安全らしく、しかも平和らしい殻の中に閉じ籠ることができそうだったからである。娘の弥生子もまたそれには賛成だった。が、養子の賢三郎はそのことにはどうしても賛成しなかった。 賢三郎には、前田鉄工場を模範工場にしたい野心があった。従来のいわゆる模範工場ではなかった。彼は彼の中の理想の世界の一部を、その工場に移したいのだった。それは困難な道に相違なかった。しかし、賢三郎の若い野心は新しい時代の社会の要求として、自分の目に映じたその世界をそこに実現してみずにはいられない希望に燃えるのだった。 そして、賢三郎はこれまでの書斎の生活を離れ、若い工場主として実生活への第一歩を踏み出すことになった。 ちょうどそのころ、これまで前田家の書生としてそこに寄食していた布川もまた、賢三郎と同じように実社会へと乗り出していくことになった。 「とにかく、ぼくは生命を投げ出してやってみようと思うんです」 布川はそう、賢三郎に向かって言うのだった。しかし、彼には別に自分としての特別な意見があるわけではなかった。彼のそれはただ、賢三郎の常からの言葉を実行に移そうとしているに過ぎないものだった。 「まあ、どこまでやれるか、やってみるんだね。ぼくはきみの情熱を尊敬しているよ。とにかく、ぼくの目指しているところときみの目指しているところは同一場所なんだからね。ただ、その場所へ行くのに、表からと裏からと、その行く道が違っているだけなんだ。大いにやろうじゃないか?」 「ぼくはやります。ぼくは生命を投げ出してやります」 「しかし、前にも言ったことがあったように、テロリズムだけはその場をよく見ないと馬鹿らしい犠牲に終わるからね」 「ぼくだって、それは充分考えています。運動のほうへ入って、とにかくぼくはこれからひとつやってみますから」 そして、布川は前田の家を出ていった。 布川のそれからの生活は、工場労働の不平不満を背負うという生活だった。それは白熱している鉄塊に、裸の身体を打ちつけるような生活であった。 しかし、布川はそれに耐えていた。
8
靄! 靄! 靄! 靄の日が続いた。胡粉色の靄で宇宙が塗り潰された。そして、その冷たい靄ははるかの遠方から押し寄せてくる暖かいものを、そこで食い止めていた。くい止めて吸収していた。 靄の中で桜の蕾が目に見えて大きくなっていった。人間の感情もまた、その靄の中で大きくなっていく桜の蕾のようなものだ。街の人たちはもう花見の話をしていた。 靄が濃くなり暖かくなるにつれ、桜の蕾がその中でしだいに大きくなっていくように、人間の感情もまたその雰囲気の中でしだいに膨張する。前田鉄工場の職工たちの感情もまたそうだった。一年前のこの工場の待遇に比べれば、はるかにいいものにはなっていたが、しかし彼らはもはやその待遇に慣れ切っていた。そればかりではなく、生活は雪達磨のように転がれば転がるほどしだいに大きくなるものだ。彼らもまたあの時から、しだいに大きくなってきていた。しかし、あの時よりはよくなり、大きくなってきているということは、必ずしも現在を満足させるものではあり得ない。あの時の彼らの生活が人間以下の生活であったように、現在の生活もまたそれは人間以下のものであった。豚の生活にも、その飼主によっていろいろの生活がある。甲の飼主から乙の飼主の手に移って、ある豚ははるかにいい待遇を受けたかもしれない。しかしそれはやはり豚の生活であって、人間の生活ではない。自分たちの生活が人間以下のものであることを自覚した彼らが、そして一方に自分たちの労働を搾取することによって豪奢な生活を構えている前田賢三郎を見ると、彼らは当然要求すべきものを要求せずにはいられなかった。 前田賢三郎は工場主として、職工たちのその要求を当然のものとすることができなかった。彼は彼自身、職工たちに対して相当以上の理解のある工場主であることを信じていた。そして、彼は職工たちに対してできるだけの待遇はしてきているはずだった。工場主としての自分のそういう気持ちを知らずに、なおこのうえに要求を重ねようとしている職工たちの貪欲を思うと、賢三郎は意地でもその要求を退けてやりたい気がするのだった。 前田賢三郎はその対策についていろいろと考えた。書斎の前の露台に籐の長椅子を持ち出させて、その上に長々と寝そべりながら彼はその対策を考えつづけていた。 彼の白い手に挟んだ高価な葉巻からは、青白い煙が静かに立っていた。そして庭の隅の、五、六本の山桜はもう咲きかけていた。麗らかな懶い春であった。その麗らかな自然の中で、相闘っている一方の人間が充分の余裕をもってその対策を考えているのだった。 そこへ、しばらくぶりに布川が彼を訪ねてきた。賢三郎は布川を自分の書斎へ通させて、そこで会った。 「やあ! しばらくじゃないか?」 「しばらくです」 布川は油の染みた背広を着ている。それはところどころ破れてさえいた。 「その後どうしているね?」 「このとおりです」 「運動をやっているんだね」 「やっているんです。それで、今日はお金を寄付していただこうと思ってきたんです」 「どこかに争議があるのかね?」 「あなたにも似合わないことを言いますね。争議なら、いつだってどこにもありますよ。しかし、今日はその争議の費用を頂きに来たわけではないんです」 「何をする金なんだね?」 「職工たちに仮装観桜会を開いてやろうと思うんです」 「今年もかね? きみ! いつもいつも柳の下に鰌[#ルビの「どじょう」は底本では「とじょう」]はいないよ。いったいどこの工場だね?」 「前田鉄工場です」 「前田鉄工場?」 賢三郎は怪訝そうに顔を緊張させて、その皺の中に恐怖的観念を畳み込んだ。 「そんなにお驚きにならなくてもいいですよ。わたしはあなたをどうしようなど思っていないんですから。ただ、お金を頂ければいいんですから」 「ぼくは出さんね。ぼくは前田鉄工場の職工たちにはどんなことをしても出さんね」 「職工に出してくれというのじゃありません。わたしに出してください。わたしはあなたの、もっとも大きな過失を知っている人間です。そのわたしが職工たちに少しは人間らしい生活をさせてやりたいからってこうして頼むんですから、出せないわけはないでしょう? しかも、それはあなたの過失によって、あなたが職工たちから搾取したものじゃありませんか? それを、そのほんの一小部分を職工たちに返してやれないわけはないじゃありませんか?」 「きみは自分の罪を、ぼくになすりつけようとしているんじゃないのかね?」 賢三郎の声は少し顫えていた。 「わたしはそんな卑怯な男じゃないです。わたしは自分の行為には生命を投げ出して責任を持っています」 「きみは少し不良になったようだね? きみはぼくの言葉を、あんなに信じてくれていたのだが……」 「しかし、あなたは誤っていたじゃありませんか? いまはわたしのほうが正しいのです。わたしは当然、職工たちの代表者としてそれだけの要求をしていいはずです」 「きみが正しい? きみが卑怯な男でない? それでぼくのほうが誤っているのかね? きみはまさか、自分の罪をぼくになすりつけるつもりじゃあるまいね?」 「わたしはそんな人間じゃありません。しかしあのことなら、それはあなたが殺したのですよ」 「ぼくが?」 「そうです。それはわたしはあの手拭いを引っ張ったですけれども、わたしは手拭いを引っ張った手に過ぎなかったのです。引っ張るべきだという意志は、あなたがわたしに強いた意志じゃないですか?」 「きみ! そんなことを大きい声で言っちゃ困る。ぼくはそんなつもりじゃなかったんだ」 「しかし、それは事実です。あなたはテロリズムの話を持ち出したとき、わたしになんと言って教えたか、それを思い出してください。わたしはそれを実行したまでじゃありませんか?」 「きみ? しかし……しかし……」 賢三郎の声はひどく顫えた。 「大丈夫です。あなたがその話を持ち出してわたしを罪人のように言うから、わたしはそう言っただけです。だれにも公言なんかしやしません」 「……でも、きみはぼくの過失だと言うからだよ。ぼくの過失から……」 「わたしの過失と言うのは、だれが殺したか? その責任を言っているのじゃないです。あなたは、資本家として、職工たちの生活を改造してやろうと思っているのでしょう? それを言うのです。それが過失じゃないでしょうか? たとえば、資本主義は職工を搾取する機械でしょう。あなたはその搾取する機械を運転している資本家じゃないですか。わたしの言った過失というのはそれなんです」 「まあ、それはそれでいい。それならぼくの過失でいい。それできみは、職工たちにどんな仮装をさせるのかね? 仮装をさせるのにそんなに金がいるかね?」 「わたしは仮装観桜会はしません」 「では、どうして……」 「あなたが去年の仮装観桜会のころのことを思い出して、職工たちの今度の要求を全部容れてやっていただきたいのです」 「全部?」 「全部です」 布川はそう言って、じっと賢三郎の顔を見詰めた。賢三郎も、布川の顔を見詰めた。二人の間に沈黙が続いた。
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