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朝は深い靄のために鈍色に曇っていた。 「晴れる晴れる。大丈夫晴れるよ」 仮面の男が街頭の空を見上げて言った。 「花曇りさ」 「青空が見えてきたよ」 同じ仮面の男が言った。 前田鉄工場の仮装観桜会に行く、前田鉄工場の職工たちであった。 集合場所は新宿の駅前になっていた。同じ仮面をつけた同じ仮装の人間が、その住宅から三人五人ずつ連れ立って集まってきた。最初はその声色や身体の恰好で、仮装の中に包まれている人間がだれであるか判然と分かった。しかし、それがしだいに多く合流していくに従って、だれがだれであるか全然分からなくなっていった。 新宿の集合場所には、工場主前田弥平氏が早朝から行っていた。彼は家族の者にも職工たちと同じ仮装をさせて引き連れてきていた。しかし、彼自身は背広の首に花見の手拭いを一本結んでいるだけで、仮装はしていなかった。したがって、そこへ集まってくる職工たちの目には、自分の同志のだれが来ているのかは分からないが、工場主前田弥平の来ていることだけはすぐ分かった。 仮装の職工たちはそこへ集まってくると、まず工場主のところへ行ってお辞儀をした。前田弥平は鷹揚な微笑でそれを受けていた。職工たちはもしその同一の仮装をしていなかったら、こんな場合、彼の前に行ってお辞儀をするようなことはなかったかもしれない。しかし、同一の仮装のため、もはやだれがだれであるか全然分からなくなっているのだった。そのことが彼らをして、何の懸念もなく工場主に対してお辞儀をさせたのだった。 前田弥平は豪胆な一面を持っている男だった。仮装の職工たちからそうしたお辞儀を受けるために、自分だけが仮装せずにいるのがすでに彼の豪胆を語っているといってもよかった。彼はそして、職工たちが個人として自分に対する場合、自分に対してどれだけの好意を持っているかを見ようとして、この同一仮装の人間を作り上げたのかもしれなかった。職工側のほうではまた、その仮装が全部同一のものであったために、今日の花見のことを受け入れたのかもしれなかった。いずれにしろ、前田弥平氏の計画の第一歩はとにかく成功したのだった。
5
観桜会の場所は、武蔵境の小金井であった。同じ青と白との縞の着物を着て、同じ仮面をつけた六、七十人の職工たちは、ただ一人背広を着ている工場主を取り巻くようにして長い土堤の上を雪崩れていった。 用水堀の両側の土堤からその中央の流れの上に、桜の花は淡紅色の霞のように咲きつづけていた。搾りたての牛乳のように微かに温かで柔らかな空気の中に、桜の花はどこまでもおっとりと誇らかに咲いているのであった。 花見の人たちはその下を潮騒のように練っていた。幾つも幾つも団体の仮装が通った。喚声が高らかに至るところから上がった。子供の泣き声がした。喧嘩があった。急拵えの茶店からは大声に客を呼んでいた。それは花と人間との接触ではなかった。人間と人間との接触! まるで、人間の洪水を見に来ているようなものだった。そして、桜の花のほうがかえってある一つの落ち着きをもって、じっとこの人間の騒々しい芝居を眺めていた。 その雑踏の中でも、前田鉄工場の仮装団はとくに目立っていた。彼らはその仮装が同じばかりでなく、同じような昂奮で語り、同じ声で叫び、そしてときどき彼らは労働歌を合唱した。ある者は工場主を罵倒し、ある者は皮肉を投げつけた。しかし、工場主の前田弥平氏はその機構の中の一つの細胞のように愉快な笑いで語りながら、彼らと一緒に縋れていた。それは嵐を孕んだ青白い雲だった。青白い雲のように、彼らの一団はその人間の洪水の中を通り過ぎていった。 長い土堤を中ほどまで来たとき、青白い仮装団はそこの雑木林の中へ雪崩れ込んでいった。仮装観桜宴会はその雑木林の中で催されるのだった。青白い仮装団は雑木林の中いっぱいに広がった。持ってきた折詰の弁当が渡された。瓶詰の酒が配られた。 前田弥平氏はそこで、一場の挨拶をすることになった。寄生者の生活にはしばしばのこと、一場の挨拶が縺れついている。彼の挨拶もまた、それに過ぎないものではあったが、彼はその挨拶のカテゴリーにおいて自分の計画の第一歩を踏み出そうとしていることはもちろんであった。彼は仮面の群れに向かって声を張り上げた。 「――諸君! わたしは今日のこの仮装観桜会の主催者として、何よりもまず今日の晴天であったことを諸君とともに喜ぶ者であります」 「だれも喜んでなんかいねえや」 だれかが後ろから怒鳴った。仮面の目がいっせいにその声のほうへ集中した。 「ふんとだあ! 降りゃあよかったんだ」 「……諸君! 空には花がいまや満開です。平和な空に花は共に楽しく微笑んでいます。そして地には、われわれ人間がこうしていま平和な喜びをもって宴会を開こうとしています。共に楽しみ、喜びをもって、平和を……」 「嘘吐きゃあがれ!」 また一つの仮面が怒鳴った。 「証拠を見せてやれ! 証拠を!」 その時だった。仮装の一つが闘鶏のように飛び出していった。次の瞬間に、その男は弥平氏が首にかけていた花見の手拭いに手をかけて、弥平氏をぐっと背後へ引き倒していた。そして、その男はその手拭いの端を握って弥平を曳き摺り回した。弥平氏は声を立てることもできずに身をいた。しかし、その男はその手拭いの端を放さなかった。彼は弥平氏の身体を曳き摺って駆け回った。 「乱暴はよせ! 乱暴はよせ!」 しかし、そう言って五、六人の者がその男の手から弥平氏を放させたとき、それがどの手から放させたのか分からなくなっていた。そして、弥平氏はもう死んでいた。 「おい! 死んでいるじゃないか!」 「だれだ! いまのはいったいだれだ!」 もちろん、分かるわけはなかった。同じ七十の顔から、それがだれであるか見分けることのできなかったのはもちろんだった。
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