その二 一月十九日正午――一時
とある料亭の別室で、向い合って話しているのは、大鹿と上野光子である。 「桜映画じゃ、一流投手二三人引ッこぬきに成功したらしいのよ。それで、大鹿さんのこと、うけつけてくれないの。それで専売新聞にかけあったんだけど、どうしても、百万までね。まア、それが、ホントのところ、あなたのギリギリよ」 大鹿はむしろそれでホッとした顔だ。 「いえ、もう、その話は、いいですよ。どうも、お世話さまでした」 「アラ。アッサリしてるわね。やっぱり、ラッキーストライクがいいのね。暁葉子さんのいるところが」 「いえ、そんな話はありませんよ」 「ウソ仰有い。今夜、煙山クンがこッちへ来るでしょう」 「そんな話、知らないですね」 「フン」光子の眉間にピリピリ癇癪が走った。 「あなた、専売新聞のネービーカット軍に移籍しなさい。お約束の三百万、だします。専売から、百万。私から、二百万。私の全財産ですわ。どう?」 「もう、お金の必要がなくなったんです」 「なに云ってんのさ。なぜ、あなたが三百万円欲しかったか、私はチャンと突きとめてますよ。誰から、きいたと思う? 岩矢天狗氏よ。あす二十日でしょう。彼氏、京都へ、暁葉子の手切金、うけとりに来る筈よ。三百万、払える?」 「えゝ、ま、なんとかなります」 「甘チャンね。煙山クン、お金なんか、持ってきやしないのよ。持ってくるのは百万だけよ。それで、なんとかなるの?」 そこは大鹿の急所だ。なんといっても、三百万という大金は、手にとってみないうちは、煙をつかむようで、見当がつかない。思わず言葉を失って、うなだれてしまった。 「私は煙山クンに会ったわよ。百万でごまかすツモリなの。あとは暁葉子の義理でひきずる算段よ。卑怯じゃないの。あなた、それでもいいの」 光子の目がランランと火をふいている。 「たとえ岩矢天狗のようなヨタモノ相手でも、人の奥さんとネンゴロになって、損害バイショウが払えなかったら、男がすたるわよ。野球選手の恥サラシじゃないの。私が二百万だしますから、岩矢天狗に、札束叩きつけてやってよ」 「あなたから、お金をもらうイワレはありませんよ」 「イワレはなくったって、お金が払えなかったら、どうするのよ」 「なんとかします。ボクは覚悟しました」 「なんの覚悟よ」 大鹿は男らしく、顔に決意をみなぎらした。 「そのときは、たぶん、死にますよ」 「バカね」 光子は苦笑したが、やがて顔色をやわらげた。 「未来の世界的大投手が、そんなことで死ぬなんて、ダラシないことね。私の言うこと、ききなさいな。私からお金をもらうイワレがないって云うけど、私と結婚しましょうよ」 大鹿はビックリして目をあげた。 「おどろくことないでしょう。去年の夏は、たのしかっわね。私、あなたの初登板の時から、日本一の大物だと思ったわ。ピースの豪球左腕投手一服クンが嫉いてね。なぜ、あんな小僧を相手にするんだ。なんて、つめよるのよ。小僧なんて、何云うのよ。あんたの三振記録なんて、小僧クンにたちまち破られるからって、言ってやったのよ。一服クン、去年の暮ごろから、しつこく私にプロポーズしてるのよ。今日も、街で出会ったの。一服クン、京都に住んでるでしょう。でね、すぐ結婚しよう、泊りに行こうなんて云うから、ハッキリ云ってやったの。私は二三日中に、大鹿さんと結婚するんですって。一服クン、青くなって、怒ったわよ」 大鹿はなんとも不快な気持がこみあげてきたが、しかし、この先どうしたらいいのか、思えば、クラヤミがあるだけだ。胸がつぶれる悲しさである。 「なにを、ふさいでいるのよ。ほがらかに、ハッキリなさいな。私と結婚するのよ。そして、ネービーカットへ移籍するのよ。煙山クンや、ラッキーストライクの卑劣さを嘲笑ってやりましょうよ。私、あなたのために、二百万円失うぐらい、なんとも思っていないわよ」 大鹿は冷めたく目をあげて、 「あなたと結婚するんでしたら、こんなに骨身をけずる思いをして、三百万円で苦労しやしませんよ」 光子の顔色が変った。 「なんですって?」 「ボクは暁葉子さんと結婚したいのです。そのために、こんなに苦しい思いをしているのです」 「フン。結婚できないわよ。岩矢天狗に三百万円、払えないもの」 「その時の覚悟はきめていますよ。どなたのお世話にもなりません。自分一人で解決します。色々と面倒なことお願いして、すみませんでした。失礼します」 「お待ち!」 「いえ、ボクの気持をみださないで下さい」 クルリとふりむくと、ひきとめる手をふりはらって、大鹿は、立ち去ってしまった。光子が追って出た時は、もう大鹿の姿はなかった。 光子はジダンダふんだ。どうしても、大鹿の住所を突きとめねばならない。突きとめてみせる。そして、復讐してやる。ラッキーストライクへの移籍話をぶちこわして、三百万円をフイにさせ、岩矢天狗への支払いを妨害してやる。そして、自分に縋らざるを得ないようにしてみせる。天下の女スカウト上野光子は誰にも負けない女なのだ。 何時に着くかは知れないが、今夜中には煙山が来る筈だ。なぜなら、明朝までに、三百万の契約金を大鹿に手渡す必要があるだろうから。彼女は煙山を京都駅に張りこんでやろうかと思った。しかし、張りこんで、後をつけたにしても、その時はもう彼らの商談の終りだ。 光子が考えこんで歩いていると、一服投手にパッタリあった。 「さっきは、よくも、捨てゼリフを残して逃げたな。ヤイ、お光」 「なによ。天下の往来で」 「フン。どこだって、かまうもんか。キサマ、ほんとに大鹿と結婚するのか」 「フフ」 「オイ。もし、結婚するなら、キサマか、大鹿か、どっちか一方、殺してやる」 「すごいわね」 「なア、オイ、ウソだと云え」 「さア、どうだか。今のところ、ハッキリしないから。二三日うちに分るわよ。大鹿さんと結婚するか、しないかが」 「大鹿はどこに住んでる」 「私もそれが知りたいのよ」 「フン。隠すな。痛い目をみたいか」 「隠すもんですか。私も探しているのだもの。あんた、探せたら、探してよ」 「よし、探してみせる。ついてこい」 「どっちよ」 「だいたい見当がついてるんだ。大鹿が、嵐山の終点で下車するという噂があるんだ」 「あそこから、又、清滝行の電車だってあるじゃないの」 「なんでも、いゝや。意地で探してみせるから。オレが大鹿と膝ヅメ談判して、奴が手をひくと云ったら、お光はオレと結婚するな」 「さア、どうだか。大鹿さんと結婚しないったって、あんたと結婚するとは限らないわよ」 「そうは云わせぬ」 「じゃア、どう言わすの」 「とにかく、大鹿の隠れ家を突きとめてみせるから、ついてこい」 一服は、光子をムリヤリひっぱるようにして歩きだした。光子も大きいとは云え、六尺ゆたかの一服のバカ力にかかっては、仕方がない。 しかし奇策縦横の自信は胸に満々たる光子、イザという時の用意には充分に確信があるから、このデクノボーのバカの一念で大鹿の隠れ家が分ったら、モッケの幸い、と内々ホクソ笑んで、ひっぱられていった。
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