八
そのころ東京には火事がしばしばあって、今のように蒸気ポンプの音を聞いて火事を想像するのとは違い、三つ番でも鳴るときなどは、家のまえを走ってゆく群衆の数だけでもたいしたものであった。 私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干台から瓦を伝わり其処の屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。 そういう具合にして私は吉原の大火も、本郷の大火も見た。吉原には大きい火事が数回あったので、その時から殆ど四十年を過ぎようとしている今日でも、紅い火焔と、天を焦がして一方へ靡いて行く煙とを目前におもい浮べることが出来るほどである。時には書生や代診や女中なども交って見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人の叫びごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。そのうち火勢が段々衰えて来て、たちのぼる煙の範囲も狭くなるころ、「もうおしまいだ」などといって書生らは屋根から降りて行っても私はしまいまで降りずにいたものである。こういう光景は、私の子どもらはもう知ることが出来ない。 このごろは、ナフタリンだの何のと、種々様々な駆虫剤が便利に手に入ることが出来るので、蚤なども殆どいなくなったけれども、そのころは蚤が多くて毎夜苦しめられた。そのかわり、動物学で学んだ蚤の幼虫などは、畳の隅、絨毯の下などには幾つも幾つもいたものである。私はある時その幼虫と繭と成虫とを丁寧に飼っていたことがある。特に雌雄の蚤の生きている有様とか、その交尾の有様とかいうものは普通の中等教科書には書いてないので、私は苦心して随分長く飼って置いたことがある。飼うには重曹とか舎利塩などのような広口の瓶の空いたのを利用して、口は紙で蔽うてそれに針で沢山の穴をあけて置く。また時々血を吸わせるには、太股のところに瓶の口を当てて置くと蚤が来て血を吸う。そういうときに交尾状態をも観察し得るので、あの小さい雄の奴がまるで電光の如くに雌に飛びつく。もはや清潔法は完備し、駆虫剤の普及のために蚤族も追々減少して見れば、そういう実験をしようとしても今は困難であるから、私の子どもなどはもうこういうことは知らないでいる。 そうだ、火事のところでいい忘れたが、火事が近くて火の粉の降りかかって来たのが鳥越町に一つあった。また凄かったのは神田和泉町の第二医院の火事で、あまりの驚愕に看護婦に気のふれたのがあって、げらげら笑うのを朋輩が三、四人して連れて来るのを見たことがある。私がそんなに近く見たのはこの一例だけだけれども、そのころの東京の火事にはそんな例がざらにあったものとおもう。 東京は大震災であのような試煉を経たが、私も後年に火難の試煉を経た。少年のとき屋根瓦にかじりついて、紅く燃えあがる吉原の火事を傍看したのとは違って、これはまたひどいともひどくないとも全く言語に絶した世界であった。私は香港と上海との間の船上で私の家の全焼した電報を受取り、苦悩のうちに上海の歌会に出席して人々の楽しそうな歌を閲して批評などを加えつつ、不思議な気持で船房に帰ったことを今おもい出す。
九
私らが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、私は一度東三筋町の旧宅地を見に行ったことがある。その時には、門から玄関に至るまで石畳になっていたところに、もう一棟家が建って糸の類を商売にする人が住んでいたようであった。しかし塀に沿うて路地を入って行くと井戸もそのままで、塀の節穴から覗けば庭も元のままで、その隣の庭もそのままのようで松樹などが塀の上からのぞいていた。その隣の庭というのは幕府時代の某の屋敷でなかなか立派であった。 それから、昭和元年ごろ、歳晩にも一度見て通ったことがある。その時には市区改正の最中で道路が掘りかえされ、震災後のバラック建であるし、殆ど元のおもかげがなくなっていた。私は泥濘の中を拾い歩きして辛うじて佐竹の通に出たのであった。 それからついでがあって昭和十一年の一月と十月とに其処をたずねた。蔵前通を行くと、桃太郎団子はさびれてまだ残っていた。そして市区がすっかり改正されて、道路も舗装道になっているし、一月の時には三筋町の通りで羽子などを突いているのが幾組もあった。まがり角が簡易食店で西洋料理などを食べさせるところ。その隣は茶鋪、蝦蟇口製造業、ボール筥製造業という家並で、そのあたりが私のいた医院のあとであった。その隣はカバン製造業、洋品店、玩具問屋、煙草店、菓子店というような順序に並んでおり、路地に入ってみると、元庭であったところにもぎっしり家が建っており、そのあたりの住人も大体替ってしまっていた。その頃の煙草屋も薬種商も、綿屋も床屋も肉屋も炭屋も皆別な人で元のおもかげがなかった。私の気持からいえば先ずリップ・ワン・ウィンクルというところであった。 一月の時には私は鳥越神社にも参拝した。神殿も宝庫も震災後新に建てられたもので、そのころ縁日のあったあたりとは何となく様子がかわっていた。それから北三筋町の方へも歩いて行って見た。今は小さい通りも多くなって、電車通に向いて救世軍の病院が立派に建っている。新堀は見えなくなってその上を電車の通ったのは前々からであるが、震災後街衢が段々立派になり、電車線路を隔てた栄久町の側には近代茶房ミナトなどという看板も見えているし、浄土宗浄念寺も立派に建立せられているし、また東京市精華尋常小学校は鉄筋宏壮な建築物として空に聳えつつあった。かつて少年私の眼にとまった少女の通っていた学校である。 私の追憶的随筆は、かくの如くに平凡な私事に終始してあとは何もいうことがない。ただ一事加えたいのは、父が此処に開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入の『古今集』を貰った。多分田安家に奉ったものであっただろうとおもうが、佳品の朱で極めて丁寧に書いてあった。出処も好し、黒川真頼翁の鑑定を経たもので、私が作歌を学ぶようになって以来、私は真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはり一しょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年暮の火災のとき灰燼になってしまった。私の書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、辛うじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それも失せた。私は東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思出して残念がるのであるが、何事も思うとおりに行くものでないと今では諦めている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとした事に本づくものがあると知って、それで諦めているようなわけである。 まえにもちょっと触れたが、上京した時私の春機は目ざめかかっていていまだ目ざめてはいなかった。今は既に七十の齢を幾つか越したが、やをという女中がいる。私の上京当時はまだ三十幾つかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」と私に教えた女中である。その女中が私を、ある夜銭湯に連れて行った。そうすると浴場には皆女ばかりいる。年寄りもいるけれども、綺麗な娘が沢山にいる。私は故知らず胸の躍るような気持になったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかも知れない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことが分かり、女中は母に叱られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまった。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜したこともある。今度もこの随筆から棄てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 尾页
|