三
養父紀一先生はそのころ紀一郎といったが、紀一という文字は非常によいものだと漢学の出来る患家の一人がいったとかで紀一と改めたのである。父の開業していた、その浅草医院は、大学の先生の見離した病人が本復したなどという例も幾つかあって、父は浅草区内で流行医の一人になっていた。そして一つの専門に限局せずに、何でもやった。内科は無論、外科もやれば婦人科もやる、小児科もやれば耳鼻科もやるというので、夜半に引きつけた子供の患者などは幾たりも来た。そういう時には父は寝巻に袍のままで診察をする。私もそういう時には物珍しそうに起きて来て見ていると、ちょっとした手当で今まで人事不省になっていた孩児が泣き出す、もうこれでよいなどというと、母親が感謝して帰るというようなことは幾度となくあった。硝子を踏みつけた男が夜半に治を乞いに来て、それがなかなか除かれずに難儀したことなどもあった。咽に魚の骨を刺して来たのを妙な毛で作った器械で除いてやって患者の老人が涙をこぼして喜んだことなどもある。まだ喉頭鏡などの発明がなかった頃であるから、余計に感謝されたわけである。 今は医育機関が完備して、帝国大学の医学部か単科医科大学で医者を養成し、専門学校でさえもう低級だと論ずる向もあるくらいであるが、当時は内務省で医術開業試験を行ってそれに及第すれば医者になれたものである。 そこで多くの青年が地方から上京して開業医のところで雑役をしながら医学の勉強をする。もし都合がつけば当時唯一の便利な医学校といってもよかった済生学舎に通って修学する。それが出来なければ基礎医学だけは独学をしてその前期の試験に合格すれば、今度は代診という格になって、実際患者の診察に従事しつつ、その済生学舎に通うというようなわけで、とにかく勉強次第で早くも医者になれるし、とうとう医者になりはぐったというのも出来ていた。 当時の医学書生は、服装でも何かじゃらじゃらしていて、口には女のことを断たず、山田良叔先生の『蘭氏生理学生殖篇』を暗記などばかりしているというのだから、硬派の連中からは軽蔑の眼を以て見られた向もあったとおもうが、済生学舎の長谷川泰翁の人格がいつ知らず書生にも薫染していたものと見え、ここの書生からおもしろい人物が時々出た。 ある時、陸軍系統といわれた成城学校の生徒の一隊が済生学舎を襲うということがあって、うちの書生などにも檄文のようなものが廻って来たことがあった。すると、うちの書生が二人ばかり棍棒か何かを持って集まって行った。うちの書生の一人に堀というのがいて顔面神経の痲痺していた男であったが、その男に私も附いて行ったことがある。すると切通一帯の路地路地には済生学舎の書生で一ぱいになっていた。彼らは成城学校の生徒を逆撃しようと待ちかまえているところであった。これは本富士署あたりの警戒のために未遂に終ったが、当時の医学書生というものの中には本質までじゃらじゃらでない者のいたことを証明しているのである。 医学書生のやる学問は常に肉体に関することだから、どうしても全体の風貌が覚官的になって来るとおもうが、長谷川翁の晩年は仏学即ち仏教経典の方に凝ったなどはなかなか面白いことでもあり、西洋学の東漸中、医学がその先駆をなした点からでも、医学書生の何処かに西洋的なところがあったのかも知れない。著流しのじゃらじゃらと、吉原遊里の出入などということも、看方によっては西洋的な分子の変型であるかも知れないから、文化史家がもし細かく本質に立入って調べるような場合に、当時の医学書生の生活というものは興味ある対象ではなかろうかとおもうのである。 また、医学の書生の中にも毫も医学の勉強をせず、当時雑書を背負って廻っていた貸本屋の手から浪六もの、涙香もの等を借りて朝夕そればかり読んでいるというのもいた。私が少年にして露伴翁の「靄護精舎雑筆」などに取りつき得たのは、そういう医院書生の変り種の感化であった。 そういう入りかわり立ちかわり来る書生を父は大概大目に見て、伸びるものは伸ばしても行った。その書生名簿録も今は焼けて知るよしもないが、既に病歿したものが幾人かいて、私の上京当時撮った写真にそのころの名残を辛うじてとどめるに過ぎない。
四
その頃、蔵前に煙突の太く高いのが一本立っていて、私は何処を歩いていても、大体その煙突を目当にして帰って来た。この煙突は間もなく二本になったが、一本の時にも煙を吐きながら突立っているさまは如何にも雄大で私はそれまでかく雄大なものを見たことがなかった。神田を歩いていても下谷を歩いていても、家のかげになって見えない煙突が、少し場処をかえると見えて来る。それを目当に歩いて来て、よほど大きくなった煙突を見ると心がほっとしたものである。上京したての少年にとってはこの煙突はただ突立っている無生物ではなかったようである。 私が東京に来て、三筋町のほかにはやく覚えたのは本所緑町であった。その四丁目かに黒川重平という質屋があって、其処の二階に私の村の寺の住職佐原応和尚が間借をして本山即ち近江番場の蓮華寺のために奮闘していたものである。私は地図を書いてもらって徒歩で其処に訪ねて行った。二階の六畳一間で其処に中林梧竹翁の額が掛かっていて、そこから富士山が見える。私は富士山をそのときはじめて見た。夏の富士で雲なども一しょであったが、現実に富士山を見たときの少年の眼は一期を画したということになった。この画期ということは何も美麗な女体を見た時ばかりではない。山水といえども同じことである。 郷里の上ノ山の小学校には時々郡長が参観に来た。江嘉氏であったとおもうが鹿児島出身の老翁で、英吉利軍艦に談判に行った一行の一人であった。校長に案内されて郡長は紙巻の煙草をふかしながら通る。ホールで遊んでいる児童が立って敬礼をする。そのあとに煙草の煙の香が残る。煙は何ともいえぬ好い香で香ばしいような酸っぱいような甘いような一種のかおりである。少年の私はいつもその香に淡い執著を持つようになっていた。しかるに東京に来て見ると、うちの代診も書生どももかつて郡長の行過ぎたあとに残ったような香のする煙草を不断吸っている。ひそかにそれを見ると皆舶来の煙草である。そしてパイレートというのの中には美人だの万国の兵士だのの附録絵がついているので私もそれを集めるために秘かに煙草を買うことがある。煙草ははじめは書生にくれていたが、時には火をつけてその煙を嗅ぐことがある。もともと煙の香に一種の係恋を持っていたのだから中学の三年ごろから、秘かに煙草喫むことをおぼえて、一年ぐらい偶に喫んでいたが、ある動機で禁煙して、第一高等学校の三年のときまた喫みはじめた。その明治三十七年から大正九年に至るまでずっと喫煙をして随分の分量喫った。巣鴨病院に勤務していた時、呉院長は、患者に煙草を喫ませないのだから職員も喫ってはならぬと命令したもので、私などは隠れて便所の中で喫んだ。それくらい好きな煙草を長崎にいたときやめて、佳い煙草も安く喫める欧羅巴にいたときにも決して口に銜えることすらしなかった。一旦銜えたら離れた恋人を二たび抱くようなものだと悟って決してそれをせずにしまった。しかしその煙を嗅ぐことは今でも好きで、少年のころパイレートの煙に係恋をおぼえたのとちっとも変りはないようである。 かつて巣鴨病院の患者の具合を見ていると、紙を巻いて煙草のようなつもりになって喫んでいるのもあり、煙管を持っているものは、車前草などを乾してそれをつめて喫むものもいる。その態は何か哀れで為方がなかったものである。また徳川時代に一時禁煙令の出たことがあった。或日商人某が柳原の通をゆくと一人の乞丐が薦の中に隠れて煙草を喫んでいるのを瞥見して、この禁煙令はいまに破れると見越をつけて煙管を買占めたという実話がある。昼食のとき私はこの実例を持出して笑談まじりに呉院長を説得したことがあった。 開業試験が近くなると、父は気を利かして代診や書生に業を休ませ勉強の時間を与える。しかし父のいない時などには部屋に皆どもが集って喧囂を極めている。中途からの話で前半がよく分からぬけれども何か吉原を材料にして話をしている。遊女から振られた腹癒せに箪笥の中に糞を入れて来たことなどを実験談のようにして話しているが、まだ、少年の私がいても毫も邪魔にはならぬらしい。その夜更けわたったころ書生の二、三は戸を開けて外に出て行く。しかし父はそういうことを大目に見ていた。 明治三十年ごろ『中学新誌』という雑誌が出た。これはやはり開成中学にも教鞭をとった天野という先生が編輯していたが、その中に、幸田露伴先生の文章が載ったことがある。数項あったがその一つに、「鶏の若きが闘ひては勝ち闘ひては勝つときには、勝つといふことを知りて負くるといふことを知らざるまま、堪へがたきほどの痛きめにあひても猶よく忍びて、終に強敵にも勝つものなり。また若きより屡闘ひてしばしば負けたるものは、負けぐせつきて、痛を忍び勇みをなすといふことを知らず、まことはおのが力より劣れるほどの敵にあひても勝つことを得ざるものなり。鶏にても負けぐせつきたるをば、下鳥といひて世は甚だ疎む。人の負けぐせつきたるをば如何で愛で悦ばむ」というのがあって、私はこれをノオトに取って置いたことがある。この文は普通道徳家例えば『益軒十訓』などの文と違い実世間的な教訓を織りまぜたものであって、いつしか少年の私の心に沁み込んで行った。 吉原遊里の話も、ピンヘッド、ゴールデンバット、パイレートの煙草の香も、負ぐせのついた若鶏の話も、陸奥から出京した少年の心には同様の力を以て働きかけたものに相違ない。今はもはや追憶だから当にならぬようで存外当っている点がある。
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