2 痰
父は長い間、痰を煩つてゐた。小男で痩せた父が咳込んで来ると、少し前かがみになつて、何だかお腹の皮でも捩れるやうに咳込むのがいかにも苦しさうであつた。ところが、その苦しさうな咳が一とほり済むと、イツヘ、イツヘ、イツヘ、イツヘといふ咳が幾つか続いて、それから、イツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ咳になる。その工合がどうもをかしいので、幼童の僕がその真似をしたものであつた。仏壇の勤めなどがまだ終らぬうちに父が咳込んで来てさういふ異様な咳になると、勝手元で働く母の傍にくつついてゐながら僕がイツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ真似をして、母から睨まれたりするけれども、母もたうとう笑つてしまふのであつた。 年に一度、多くは冬を利用して人形芝居が村にかかつた。夕飯を終へてから、翁媼も、婦も孫も、みんな、深く積つた雪がかんかんと氷る道を踏んでその人形芝居を見に行つた。時にはひどい吹雪の夜のことなどもあつた。その人形芝居には、美しい娘をさらつてゐる大猿を一人の侍が来て退治したり、松前屋五郎兵衛が折檻されて血を吐いたり、若い女房がひとりの伴を連れて峠を上つて行くと、そこに山賊が出て来たりした。杉の木立の向うは暗闇で星が輝いてゐるやうにも拵へてあつた。ある晩に父は僕を背中に負つてその人形芝居を見に行つたときにも、父はひどく咳込んでいかにも困つた様子であつたが、僕がまたそれの真似して、それでも穉ごころに悪いことをしたやうな気持でゐたことをおぼえてゐる。 父の痰持は僕の生れる前からであつた。祖父が隠居してから楽みに飼つた鯉が、水が好いので非常に殖え、大きな奴がいつも沢山泳いでゐた。雪がもう二三度降つてからのことであつたさうである。大雪にならぬ前に、その鯉池の浚ひをする方がいいといふので、寒さの厳しい日に父は若者を督促して働いたのが本で、たうとう痰になつてしまつたといふことであつた。痰になつてからも父はやはり働いてゐた。僕の生れたのは父が痰になつてから後のことである。僕は小さい時は腺病質でひよろひよろしてゐた。父が痰でなやんでゐたときの子だからだなぞと祖母の云ふのを聞いたことがある。 父は痰持であつたから、水飴だの生薑の砂糖漬などを買つてしまつて置いた。水飴は隣の宝泉寺からよく貰つて来たやうである。宝泉寺では村人が餅を搗くたびに持つて行くので、餅の食べきれないときにはそれを水飴に作つた。いつか宝泉寺では、琥珀色の透とほる水飴が甕に一ぱいあるのを持つて来て分けて呉れたことを僕は覚えてゐる。父の居ないときに時折兄と僕とがその水飴を盗んで嘗めた。 或る時僕は生薑の砂糖漬をも盗んで来たことがあつた。そして砂糖だけを嘗めて生薑を外に棄てた。外には雪が一めんに降積つて居る。生薑が雪の上におちると三四の雀が勢よく飛んで来てそれを争つたことをおぼえてゐる。痰と生薑とに何かの因縁があるやうにも思へたがそれが穉い僕には分からない。それから大分経つて僕は東京にのぼるやうになり、好んで浪花節を聞いた。浪花節かたりは、『せめて生薑の一へげも』といふことをうたふ。その度ごとに僕は父の痰のことを追憶した。医学を学んでから僕は漢方または民間医方に興味をもつたこともある。さて生薑のことを注意するに、『思の云く。八九月に多く食へば、春にいたりて眼を病む。寿を損じ筋力を減らす。妊婦これを食へばその子六指ならしむ』なんぞと説明したのもあつて僕を驚かしたが、多くの漢医方には、生薑に開痰の作用あることが説いてある。痰火の条に薑汁を用ゐることもあり、治二寒痰咳嗽一といふ句もあり、導痰丸、導痰湯などの処方もあるので、父が砂糖生薑をしまつてゐたことが、何だか一種の哀ふかいやうな気持で僕の心に浮んでくることもあつたのである。 父は三山や蔵王山あたりを信心して一生四足を食はずにしまつた。僕の寝小便がなかなか直らぬので、牛が好い、馬が好い、犬が好いなどと教へて呉れるものがあつたが、父はわざわざ町まで行つて、朝鮮人蔘二三本買つて来てくれたことをおぼえて居る。それであるから、兄が十五になつて、若者仲間に入つてから間もなく、大雪が降つてそれの固まつた或る晩に、鮭の頭に爆発する為掛をして、狐六疋を殺した。六疋の狐は銘々行くところに行つて死んでゐたさうである。垂れてゐる血を辿つて行くと其処に狐が死んでゐるので、一つなどはそれでも、林の中の泉の傍まで行つてゐたさうである。兄達五六人の若者は夜業の藁為事が済んでからそれを煮て食つた。兄は爆発為掛の旨く行つたことを得意に話しながら、どうも少し臭くて駄目だな。牛よりも旨くないな。こんなことを話した。それを次の日父が聞きつけて非常に怒り、何でも狐のことをひどく勿体無がつたことをおぼえてゐる。 父は痰を病んでから、いつのまにか何かの神に願を掛けて好きなものを断つことを盟つた。ただ、酒も飲まず煙草も吸はぬ父は、つひに納豆を食ふことを罷めた。幾十年も納豆を食ふことを罷めて、もう年寄になつてから或る日納豆を食つたが、どうも痰に好くない。また痰がおこりさうだなどと云つたことがある。父はその時から命のをはるまで納豆を食はずにしまつただらうと僕はおもふ。父は食べものの精進もした。併しさういふ普通の精進の魚肉を食はぬほかに穀断、塩断などもした。みんなが大根を味噌で煮たり、鮭の卵の汁などを拵へて食べてゐるのに、父はただ飯に白砂糖をかけて食べることなどもあつた。併し僕には何のために父がそんな真似を為るかが分からなかつた。
3 新道
六歳ぐらゐになつた僕を背負つて、父は早坂新道を越えて上山へ向つて歩いた。雨あがりの道はよく固まつて、天がよく晴れても塵の立ちのぼるやうなことはない。両側に密生した松林がしばらくの間続いてゐて寂しいやうである。人どほりの尠い朝のうちで、街道は曲折のなるべく無いやうについてゐるから、遙か向うから人の来るのが見えてその人に逢ふまでには大分かかる。それからその人が後の林の角に見えなくなるまでも大分かかる。さういふ街道を父はいい気持で歩いて行つた。時節は初夏の頃ではなかつたらうかと思はれる。さういふ記憶は朦朧としてゐるが、松蝉でも鳴いてゐたやうな気持もする。 上山は温泉場で、松平藩主の居城のあつたところである。御一新後はその城をこはして、今では月岡神社の鎮座になつてゐる。後年俳人の碧梧桐がここを旅して、『出羽で最上の上山の夜寒かな』といふ句を残した。僕の村からこの広い新道を通つて上山まで小一里ある。そこまで村の人が大概買物などに行つた。 さういふ街道を父は独占したやうなつもりで街道の真中を歩いて行つた。然るに稍しばらくすると、僕のうしろの方で人力車の車輪の軌る音がした。さうしてヘエ、ヘエ、といふ懸声がした。これは避けろといふ合図に相違ないから、父は当然避けるだらうとおもつてゐると依然として避けない。その刹那にどしんといふ音がして人力の梶棒がいきなり僕の尻のところに突当つた。父は前にのめりさうになつた。 すると父は突嗟に振向きしなに人力車夫の項のところをつかまへて、ぐいぐい横の方に引いたから人力車がくつがへりさうになつた。人力車夫は慌しく梶棒をおろさうとしたが父はなほ攻勢をゆるめない。人力車夫はつひに左方になつて倒れた。父は人力車夫の咽のあたり項のあたりを二三度こづいたが、それでも人力車夫は再び起き上つて父と争はうとした。そのとき乗つてゐた老翁が頻りにそれを止め父に詫をした。 父は威張つた恰好で尻を高くはしより再び街道の真中を歩いた。その老翁を乗せて後から来た人力車は今度は僕らを避けて追越して行つた。追越すときに車夫は何か口の中で云つてゐたが父はそれにはかまはなかつた。僕は事件のあつた時父の背中で声を立てて泣いたことをおぼえてゐる。 僕は明治四十二年に熱を病んで、赤十字病院の分病室にゐたときに、終日少年の頃の回想に耽つたことがある。そしてなぜあの時、人力車夫が梶棒をあんなにひどく突当てたであらうと考へたことがある。この文章を書いてゐる現在の僕がやはりそのことを思ふのと同じであつた。 この街道の開通されるまでは、小山を幾つも越えて漸く上山に行著くのであつた。そこは如何にも寂しい山道で、夜遊に上山まで行く若者が時々道が分からなくなつて終夜そのあたりをさまよふといふやうなことがあつた。上山から魚を買つて夜道すると屹度道が分からなくなるといふこともいはれた。夜更けてから、ほうい、ほうい、といふこゑがその山道あたりから聞こえるのはさう稀なことではなかつた。 一つの小山の中腹に大きな石が今でもある。それを狼石と称へてゐるのはそこには狼が住んでゐて子を生むと、村の人が食べ物を持つて行つてやる。小さい狼の子が出て来て遊ぶといふやうなことがあつて、夜半などに鋭い狼のこゑがよく聞こえたものださうである。その石の近くを上山へ行く山道が通つてゐた。この山道には狐狸の変化に関する事件がなかなか多く、母も度々さういふ話をした。 そこへ御一新が来、開化のこゑがかういふ山の中にも這入つて来るやうになつた。三島県令が赴任するとたうとう小山の中腹を鑿開いて山形から上山を経て米沢の方へ通ずる大街道が出来た。早坂新道と村の人が称へたのはこの新道である。この新道は僕の生れるずつと前に開通されたものだが、連日の人足で村の人々の間にも不平の声が高かつた。ある時、県令の臨場の際に人足に寝そべつてゐる者のあるのを役人が咎めると、『人としてねぶたきことはあるものを吾にはゆるせ三島県令』といふ一首を差上げたなどといふ逸話も伝へられた。その男は僕が東京に来てからも年取つて未だ存命して居つたが余程前に亡くなつた。 さて新道が出来ると人力が通る。荷車は干魚などを積んで通る。郵便脚夫が走る。後には乗合馬車が通り、新発田の第十六聯隊も通つた。たまには二頭馬車などの通ることもあり、騎馬の人の通ることもある。珍らしいものの通るときには、宝泉寺まで走つていつて遠目鏡でそれを見た。 人力車夫が此の大街道を勢づいて走つてゐるときには心中に一種の誇があつただらう。恰もヴアチカノの宮殿を歩いてゐるときに何か胸が開くやうに感ずるが如きものである。僕の父にしてもさうである。父がこの大街道を独占したやうにして歩いてゐたときには、そこにやはり不意識の矜尚があつたに相違ない。父の剛愎な態度は人力車夫の矜尚の過程に邪魔をしたから、梶棒をどしんと僕の尻に突当てたのである。その不意打の行為が僕の父の矜尚の過程に著しい礙を加へたから父は忽然として攻勢に出でたのではなかつたらうか。
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