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念珠集(ねんじゅしゅう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-5 9:31:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 斎藤茂吉選集 第八巻
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1981(昭和56)年5月27日
入力に使用: 1981(昭和56)年5月27日第1刷
校正に使用: 1998(平成10)年8月7日第2刷

 

  1 八十吉

 僕は維也納ウインナの教室を引上げ、きふを負うて二たび目差すバヴアリアの首府民顕ミユンヘンに行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県金瓶村かなかめむらで僕の父が歿ぼつした。真夏の暑い日ざかりにはたけの雑草を取つてゐて、それから発熱ほつねつしてつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東におほ地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
 僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想出おもひでが一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『八十吉やそきち』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念珠ねんじゆたまの一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
 八十吉は父の『お師匠様』の孫で、僕よりも一つ年上のわらべであつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。読書よみかきがよく出来て、遊びでは根木ねつきく打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日のひるすぎに、村の西方をながれてゐる川の深淵しんえん溺死できしした。
 そのときのことを僕はいまだに想浮おもひうかべることが出来る。その日は村人のふ『酢川落すかおち』の日で、水嵩みづかさが大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層につき当つてそこに一つのふちをなしてゐたのを『葦谷地よしやぢ』と村人がとなへて、それは幾代いくだいも幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までもさかのぼることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻ろてきの類がしげつてゐて、そこをいろいろの獣類がほしいままに子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕しんしよくされて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切よしきりがかしましくいてゐるこゑが今僕の心によみがへつて来ることも出来た。その広々とした淵はいつもくろずんだ青い水をたたへて幾何いくばく深いか分からぬやうな面持おももちをして居つた。
 ひとみを定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水泡みなわが流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるからたとひ大人であつてもそこから余程川下かはしもの橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つててのひらを合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透きとほるやうな砂であるから、水遊みづあそびする童幼どうえうは白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾競ひろひくらをしたりするのであつた。
 旧暦の六月廿六日は『酢川落すかおち』の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、あたかも祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は死骸しがいとなつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水のづるところにかたまつてあへいでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐをかしらに十又は九つ八つぐらゐまでの童が淵の隅の割合浅いところに水遊をしてゐた。水遊と云つてもふだんの日の水遊とは違つて、一方には底に潜つて行つて死んだ小魚を拾ふのもその楽みの一つなのである。くば弱つて喘いでゐる大きな魚をつかまへることが出来たりするので、童らは何時いつまでも陸に上らうとはしない。
 泳げるものは最も気味の悪い深いところまで泳いで行つて、渦のところを二まはり三まはりぐらゐ廻つて来るのが自慢の一番とつてよかつた。すると淵の向う岸に八十吉がたつたひとり浅瀬のところで何かしてゐるのが見えた。向う岸と云ふと童らの居るところからは平らな光つてゐる水面を中に置いて可なりのへだたりがある。八十吉は唯一人で小魚でも見つけて居るのかも知れんと思つてから五分間位も経つた頃であらうか。岸から少し淵に入つた鏡のやうな水面に人の両方の手が五寸ぐらゐひよいと出たのが見えた。童らの驚く間もなく、人の両方の手が二たび水面から五寸ばかり出た。ほんの刹那せつなである。
 そのとき十四になる童が水中に飛込んで泳ぎ出した。ややしばらく泳いでゐたが人の両手が水面から出たあたりに行著ゆきつくと、頭の方を下にして水中ふかくくぐつて行つた。その童の両の足の活溌な運動も見えなくなつて、いよいよ水中ふかく潜つて行つたことを観念すると、こんどはみんな息をめて、小さい心臓の鼓動をせはしくしてそこの水面を見てゐた。水面は全く水の動揺を収めてこの事件をすこしも暗指あんじしてゐる様な気色けはひがない。ややしばらくすると、童はつひにむなしく水面に浮上つて来て、しきりに手掌てのひらで顔をでた。その時である、はじめて事の軽々しくないといふ一種の不安が僕らの心を圧して来て、そこに居たたまらないやうな気がした。童は二たび身をさかしまにして水中に潜つて行つた。けれども暫くののちまた手を空しうして水面に浮上つたとき、水面にあつて、人を呼べとこゑを立てた。それから童らはひた走りに走つて田畑に働いてゐる大人を呼びに行つた。
 村の人々が数十人集つて、かはるがはる淵の中に飛込んだのは、人の両手が見えてから三十分ぐらゐも経つてゐたであらうか。大人が息こんで水中に潜るのであるが、八十吉はなかなか見つからない。入りかはり立かはり水中にもぐつて、また三十分間ぐらゐも経つた頃であつたらうか。一人の若者がたうとう八十吉を肩にかついで水面に浮上つて来た。若者は何か鋭く叫んで、その肩には生白い人の体がぶらさがつて、首の方がだらりとして腕などは日にからびたねぎの白いところを見るやうな、さういふ光景が電光のごとくに僕に見えた。
『お関の婿だ。あれあ』
『お関の婿あ八十吉を見つけた』
 かういふこゑが聞こえた。お関は村はづれに小さい店を開いてそこで揚物だの蒟蒻こんにやく煮などを売つてゐた。八十吉を引上げたお関の婿といふのはそこへ他村から入婿に来た若者のことであつた。この若者はの数年後隣村の火事に消防に行つて身をぬきんじて働いたとき倉の鉢巻が落ちてつひに死んだ。八十吉が水の中からやうやく上つてから暫くは、人間の重苦しい鋭い一種の叫びごゑがそのあたり一帯にきこえて居たが、間もなく元の静寂に帰つた。
 蔵王山ざわうさんふもと湧出わきでる硫黄泉の湯尻ゆじりが、一つの大きい滝瀬をなして流れてゐる。それが西に向つて里へ里へと流れ下つて、金瓶村の東境ひがしざかひに出るとそこから急に折れて北へ向つて流れる。の川の川原かはらの石はいつも白い様な色合を帯びてゐて水苔みづごけ一つ生えない。清く澄んだ流であるが味が酸いので魚も住まず虫のたぐひも卵一つ生むことをしない。又この水を田に引くと稲作いなさくに害があるので、百姓にとつて此の川は一つの毒川だとつてよい。これを酢川すかは何時いつの頃からか名づけて来た。それから、金瓶村の西方を流れる川は米沢境よねざはさかひの分水嶺から出てくるもので、山形の平野に出てから遂に最上川に入るのであるが、これは淡水であつて多くの魚類を住まはせてゐる。しかるに昔、雨降の後に洪水おほみづが出た時、村の東境まで西へ向つて流れて来た酢川が、北へ折れる処で北へ折れずにそこを突破したから、村の西方を北へ流れてゐる淡水の川に、酢川の水が混つてしまつた。いはば西洋文字のHの様な恰好かつかうになつたのである。すると其の川に住んでゐる魚族が一度にむらがり死ぬといふ現象が起つた。さういふ害のある水が淡水の川に混つては困るから、村では破れたところに堤防を築いてその混入を防いだのである。然るにいつの頃からであらうか。時代はずつとずつとさかのぼるであらう。深夜人無きに乗じてその堤防を破つて、故意に酸い水を淡水の川にそそいだものがあつた。その酸い水が混じると、魚の族は真黒になるほど群がつて川下へ川下へとくだる。それをやなで取れるだけ取つて、暁にならぬうちに家に帰つて知らんふりしてゐるのである。これを『酢川落すかおち』と唱へる。
 暁に先立つて草刈くさかりに行く農夫の一人二人がそれを見つけて、村役場へ届ける。村役場では人足にんそくを出して堤防の修理をする。然るに一方では村の老若男女童男童女が我先にと川へ出かけて行つて、弱り切つてゐる魚を捕まへるので、つまり余得よとくにありつくのである。この『酢川落ち』はさうたびたびは無い。また村人も一種の楽みとおもふので、役場がそれを大目に見て、罪人を発見しようと努めるやうなことはない。『酢川すかおとし』の行為は法に触れるべきものであるが、『酢川おち』の現象は村民にとつては無くてはならぬ、はば一つの年中行事の如き観を呈するに至つた。それがずつとずつと古い代から続いて来たのである。およぎを知らない、常には川遊などをしない八十吉が、この『酢川おち』の日に、ただのひとりで川に遊びに来てゐたのである。
 八十吉はつひに蘇らなかつたことを下男が来て話して呉れた。八十吉のこの事があつた時父は他村に用足しに行つて、日暮時に入つてやうやく帰つて来た。父の顔を見るや否や、あわてて僕は父の側に行き、八十吉のおぼれる有様、それから八十吉を水から揚げてから、藁火わらびをどんどんいて、身の皮のあぶれる程八十吉を温めたこと、八十吉の肛門かうもんから煙管きせるを入れて煙草たばこのけむりを骨折つて吹き込んだこと、さういふことを息をはずませながら話をした。
『八十吉のけつの穴さ煙管が五本も六本もずぼずぼ這入はひつたどつす。ほして、煙草のけむが口からもうもう出るまで吹いたどつす』
 かういふ僕の話を聞いてゐた父は、どうしたのか一ことも云はずにいきなりと僕をにらめつけるやうな顔をして、僕は予期しない父の此の行為に驚愕きやうがくするいとまもなく、父はあたふたと著物きものを著換へて出て行つてしまつた。祖母も母もみんな八十吉の家につめ切つてゐた時である。
 僕は父の歿した時、民顕ミユンヘン仮寓かぐうにあつてこのことを想出おもひだして、その時の父の顔容を出来るだけおもひ浮べて見ようと努めたことがあつた。帰国以来僕は心に創痍きずを得て、いまだ父の墓参をもはたさずにゐる。家兄の書信にると八十吉は十二で死んでゐるから僕の十一のときであつた。八十吉は金瓶村宝泉寺に葬られてあつて、円阿香彩童子といふ戒名をもつてゐる。(大正十四年九月記)

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