「…………」 頭も上げ得ず、声も出し得ず、石のようになっている意外さに、福々爺も遂に自分の会得のゆかぬものが有ることを感じ出した。其感じは次第次第に深くなった。そして是は自分の智慧の箭の的たるべき魔物が其中に在ることは在るに違無いが何処に在るか分らないので、吾が頼むところの利器の向け処を知らぬ悩みに苦しめられ、そして又今しがた放った箭が明らかに何も無いところに取りっぱなしにされた無効さの屈辱に憤りを覚えた。福々爺もやや福々爺で無くなった。それでも流石に尖り声などは出さず、やさしい気でいじらしい此女を、いたわるように 「そうしたのではまずいのか。」 と問うた。驚くべき処世の修行鍛錬を積んだ者で無くては出ぬ語調だった。女は其の調子に惹かれて、それではまずいので、とは云兼ぬるという自意識に強く圧されていたが、思わず知らず 「ハ、ハイ」 と答えると同時に、忍び音では有るが激しく泣出して終った。苦悩が爆発したのである。 「何も彼も皆わたくしの恐ろしい落度から起りましたので。」 自ら責めるよりほかは無かったが、自ら責めるばかりで済むことでは無い、という思が直に※[#「匈/月」、997-上-1]の奥から逼り上って、 「おかた様のきつい御難儀になりました。若し其の笛を取った男が、笛を証拠にして御帰りなされた御主人様におかた様の上を悪しく申しますれば、証拠のある事ゆえ、抜差しはならず、おかた様は大変なことに御成りなされまする。それで是非共に、あれを、御自由のきく此方様の御手で御取返しを願いに、必死になって出ました訳。わたくしめに死ねとなら、わたくしは此処ででも何処ででも死んでも宜しゅうございます、どうぞ此願の叶えられますよう。」 と、しどろもどろになって、代りの品などが何の役にも立たぬことをいう。潜在している事情の何かは知らず重大なことが感ぜられて、福々爺も今はむずかしい顔になった。 「ハテ」 と卒爾の一句を漏らしたが、後はしばらく無言になった。眼は半眼になって終った。然しまだ苦んだ顔にはならぬ、碁の手でも按ずるような沈んだのみの顔であった。 「取った男は何様な男だ。其顔つきは。」 「額広く鼻は高く、きれの長い末上りのきつい目、朶の無いような耳、おとがい細く一体に面長で、上髭薄く、下鬚疎らに、身のたけはすらりと高い方で。」 「フム――。……して浪人か町人か。」 「なりは町人でござりましたなれど、小脇差。御発明なおかた様は慥に浪人と……」 問わるるままに女は答えた。それを咎めるというのではなく、 「娘もそなたもそれほど知ったものに、何で大切な物を取らせた。」 と、おのずから出ずべき疑をおのずからの調子で尋ね問われて、女はギクリと行詰まったが、 「それがわたくしの飛んでも無い過ちからでござりまして。」 と、悪いことは身にかぶって、立切って終う。そして又切なさに泣いて終う。福々爺の顔は困惑に陥り、明らかに悶えだした。然し、 「よいよい、そなたを責めるのでは無い。訳が分らぬから聞くまでじゃ。では面は見知っても、名はもとより知らぬものじゃナ。前々から知った者でも無いナ。」 と責めるでは無いと云いながら責め立てる。 「ハイ。ハイ。取られました其夜初めて見ました者で。」 と答える。 「フム――。そなた等で承知して奪らせよう訳は無いことじゃ。忍び入ることなどは叶わぬようにしてもあるし、又物騒の世なれば、二人三人の押入り者などが来るとも、むざとは物など奪られぬよう、用心の男も飼うてある家じゃ。それじゃに、そなた等、おもては知ったが、知らぬ者に、大事なものを奪られたというのか。フム――。そして何も彼もそなたの恐ろしい落度から起ったというのじゃナ。身の罪に責められて、そなたは生命を取られてもと云い居るのじゃナ。」 「ハイ、あの有難いお方様のために、御役に立つことならば只今でも……」 真紅になった面をあげて、キラリと光った眼に一生懸命の力を現わして老主人の顔を一寸見たが、忽ちにして崩折れ伏した。髪は領元からなだれて、末は乱れた。まったく、今首を取るぞと云われても後へは退かぬ態に見えた。 心の誠というものは神力のあるものである。此の女の心の誠は老主人の心に響いたのであろう。主人の面には甘さも苦さも無くなって、ただ正しい確乎とした真面目さばかりになった。それは利害などを離れて、ただ正しい解釈と判断とを求めようとする真剣さの威光の籠り満ちているものであった。 「して其男が聟殿に何事を申そうという心配があるのか。何事。何事を……」 的の真ただ中に箭鏃のさきは触れた。女は何とすることも出来無かった。其儘に死にでもするように、息を詰めるより外はなかった。 「…………」 「…………」 恐るべき沈黙はしばし続いた。そして其沈黙はホンノしばしであったに関らず、三阿僧祇劫の長さでもあるようだった。 「チュッ、チュッ、チュ、チュッ」 庭樹に飛んで来た雀が二羽三羽、枝遷りして追随しながら、睦ましげに何か物語るように鳴いた。 「告口……証拠……大変なことになる……フム――」 と口の中で独りつぶやいて居た主人は、突然として 「アッ」 と云って、恐ろしいものにでも打のめされたように大動揺したが、直ちに 「ム」 と脣を結んで自ら堪えた。我を失ったのであった。大努力したのであった。今や満身の勇気を振い起したのであった。勇気は勝った。顔は赤みさした。 「アア」 という一嘆息に、過ぎたことはすべて葬り去って終って、 「よいわ。子は親を悩ませ苦めるようなことを為し居っても、親は子を何処までも可愛く思う。それを何様とも仕ようとは思わぬ。あれはかわゆい、助けてやらねば……」 と、自分から自分を評すように云った。たしかにそれは目の前の女に対って言ったのでは無かった。然し其調子は如何にもしんみりとしたもので、怜悧な此の女が帰って其主人に伝え忘れるべくも無いものであった。 一切の事情は洞察されたのであった。 女の才弁と態度と真情とは、事の第一原因たる吾が女主人の非行に触れること無く、又此家の老主人の威厳を冒すことも無く、巧みに一枝の笛を取返すことの必要を此家の主人に会得させ、其の力を借ることを乞いて、将に其目的を達せんとするに至ったのである。此家の主人の処世の老練と、観照の周密と、洞察力の鋭敏とは、一切を識破して、そして其力を用いて、将に発せんとする不幸の決潰を阻止せんとするのである。しかも其の中でも老主人は人の心を攬ることを忘れはし無かった。 「分った。言う通りにして計らってやる。それにしてもそちは見上げた器量じゃ。過ちは時の魔というものだ、免してやる。口も能く利ける、気立も好い、感心に忠義ごころも厚い。行末は必ず好い男を見立てて出世させて遣る。」 と附足して、やさしい眼で女を見遣った時は、前の福々爺になっていた。女はただ頭を下げて無言に恩を謝するのみであった。 「ただナ、惜いことは其時そちが今一ト[#「ト」は小書き]働きして呉れていたら十二分だったものを。其様に深くは、望む方が無理じゃが。あれも其処までは気が廻らなかったろうか。」 「ト仰ありまするのは。」 「イヤサ、少し調べれば直に分ることだから好いようなものの、此方は何の何某というものの家と、其男めには悟られて了って居ながら、其男めを此方では、何処の何という者と、大よその見当ぐらいも着かぬままに済ませたは、分が悪かったからナ。」 と余談的に云うと、女は急に頭を上げて勇気に充ちた面持で、小声ではあるが、 「イエ、其事でございまするなら、一旦其男を出して帰らせました後、直に身づくろい致しまして、低下駄の無提灯、幸いの雪の夜道にポッツリと遠く黒く見えまする男のあとを、悟られぬようつけてまいりました。」 と云いかくるに、老主人は思わず知らず声を出して、 「ナニ、直に其後をつけたというのか。」 「ハイ、悟られぬよう……、見失わぬよう……、もし悟られて逆に捉えられましたならば何と致しましょうか、と随分切ない心遣いをいたしながら、冷たさに足も痛く、寒さに身も凍り縮みましたなれど、一生懸命、とうとう首尾好くつけおおせました。」 主人は感心極まったので身を乗出して、 「オオ。ヤ、えらい奴じゃ。よくやり居った。思いついて出たのもえらいが、つけ果せたとは、ハテ恐ろしい。女にしては恐ろしいほどの甲斐性者。シテ……」 「イエ何、御方様の御指図でござりましたので、……私はただ私の不調法を償いましょうばっかりに、一生懸命に致しましたことで。それに全く一面の雪の明るさが有ったればこそで、随分遠く遠く見失いかねませぬほど隔たっても、彼方の丈高い影は見え、此方は頭上から白はげた古かつぎを細紐の胴ゆわいというばかりの身なりから、気取られました様子も無く、巧くゆきましたのでございまする。」 「フム。シテ其男の落着いたところは。」 「塩孔の南、歟とおぼえまする、一丁余りばかり離れて、人家少し途絶え、ばらばら松七八本の其のはずれに、大百姓の古家か、何にせよ屋の棟の割合に高い家、それに其姿は蔵れて見えずなりましたのでございまする。ばらばら松の七八本が動かぬ目処にございまする。」 「ム、よし。すぐに調べはつく。アア、峻しい世の中のため、人は皆さかしくなっているとは云え、女子供までがそれほどの事をするか。よし、厭なことではあるが、乃公も何とかして呉れいでは。」 と、強い決意の色を示したが、途端に身の周囲を見廻して、手近にあった紙おさえにしてあった小さなものを取って、 「遣る。」 と、女に与えた。当座の褒美と思われた。それは唐の猊か何かの、黄金色だの翠色だのの美しく綺え造られたものだった。畳に置かれた白々とした紙の上に、小さな宝玩は其の貴い輝きを煥発した。女は其前に平伏していた。 「チュッ、チュッ、チュ、チュ」 雀の声が一霎時の閑寂の中に投入れられた。
下
舳の松村の村はずれ、九本松という俚称は辛く残りながら、樹々は老い枯び痩せかじけて将に齢尽きんとし、或は半ば削げ、或は倒れかかりて、人の愛護の手に遠ざかれるものの、自然の風残雪虐に堪えかねたる哀しき姿を現わしたる其の端に、昔は立派でも有ったろうが、今は不幸な家運を語る証拠物のように遺っているに過ぎぬというべき一軒屋の、ほかには母屋を離れて立腐れになりたる破れ厩、屋根の端の斜に地に着きて倒れ潰れたる細長き穀倉などの見ゆるのみの荒廃さ加減は、恐らくは怨霊屋敷なんど呼ばれて人住まずなった月日が、既に四五年以上も経たものであろう。それでも、だだ広い其の母屋の中の広座敷の、古畳の寄せ集め敷、隙間もあれば凸凹もあり、下手の板戸は立附が悪くなって二寸も裾があき、頭があき、上手の襖は引手が脱けて、妖魔の眼のように然と奥の方の灰暗さを湛えている其中に、主客の座を分って安らかに対座している二人がある。客はあたたかげな焦茶の小袖ふくよかなのを着て、同じ色の少し浅い肩衣の幅細なのと、同じ袴。慇懃なる物ごし、福々しい笑顔。それに引かえて主人は萎え汚れて黒ばめる衣裳を、流石に寒げに着てこそは居ないが、身の痩の知らるる怒り肩は稜々として、巌骨霜を帯びて屹然として聳ゆるが如く、凜として居丈高に坐った風情は、容易に傍近く寄り難いありさまである。然し其姿勢にも似ず、顔だけは不思議にもにッたりと笑を含んで、眼にも嶮しい光は見せて居らぬが、それは此人が此頃何処からか仮りて来て被っている仮面では無いかと疑われる、むしろ無気味なものであった。 座の一隅には矮い脚を打った大きな折敷に柳樽一荷置かれてあった。客が従者に吊らせて来て此処へ餉ったものに相違無い。 突然として何処やらで小さな鈴の音が聞えた。主人も客も其の音に耳を立てたというほどのことは無かったが、主人は客が其音を聞いたことを覚り、客も主人が其の音を聞いたことを覚った。客は其音が此家へ自分の尋ねて来た時、何処からか敏捷に飛出して来て脚元に戯れついた若い狗の首に着いていた余り善くも鳴らぬ小さな鈴の音であることを知った。随って新に何人かが此家へ音ずれたことを覚った。しかし召使の百姓上りのよぼよぼ婆が入口へ出て何かぼそぼそと云っていたようだったが、帰ったのか入ったのか、それきりで此方へは何も通じは仕無かった。 主人は改めて又にッたりとして、 「ヤ、了休禅坊の御話といい、世間の評話といい、いろいろ面白うござった。今日はじめて御尋をいただいたなれど十年の知己の心持が致す。」 「左様仰あって頂き得て、何よりにござる。人と人との気の合うたるは好い、合いたがったるは悪い、と然る方が仰せられたと承わり居りまするが、まことに自然に、性分の互に反りかえらぬ同士というはなつかしいものでござる。」 「反りかえった同士が西と東とに立分れ、反りかえらぬ同士が西にかたまり、東にかたまり、そして応仁の馬鹿戦が起ったかナ。ハハハハ。」 「イヤ、そればかりでもござりますまい。損得勘定が大きな分け隔てを致しましたろう。」 「其の損得という奴が何時も人間を引廻すのが癪に障る。損得に引廻されぬ者のみであったなら世間はすらりと治まるであろうに。」 「ハハハ。そこに又面白いことがござりまする。先ず世間の七八分までは、得に就かぬものは無いのでござりまするから、得に就いた者が必定に得になりましたなら、世間は疾く治まりまする訳でござりまするが、得を取る筈の者が却って損を取り、損をする筈の者が意外に得をしたり致しますことが、得て有るものでござりまするので、二重にも三重にも世間は治まり兼ぬるのではござりますまいか。」 「おもしろい。されば愈々損得に引廻わされぬ者を世間の心にせねばならぬ。」 「ところが、見す見す敗けるという方に附く者は今の世――何時の世にも少いでござりましょう。されば損得に引廻されないような大将の方に旗の数が多くなろう理は先ず以て無いことでござれば、そこで世の中は面倒なのでござる。」 「癪に触る。損得勘定のみに賢い奴等、かたッぱしからたたき切るほかは無い。」 「しかし、申しては憚りあることでござれど」 と声を落して、粛然として、 「正覚寺の、さきだっての戦の如く、桃井、京極、山名、一色殿等の上に細川殿まで首となって、敵勢の四万、味方は二三千とあっては、如何とも致し方無く、公方、管領の御職位、御権威は有っても遂に是非なく、たたき切ろうにも力及ばず、公方は囚われ、管領は御自害、律儀者の損得かまわずは、世を思切って、僧になって了休となるような始末、彼などは全く損得の沖を越えたものでござる。人柄はまことになつかしいものでござるが、世捨人入道雲水ばかり出来ても善人が世に減る道理。又管領殿御臣下も多人数御切腹あり、武士の行儀はそれにて宜敷けれど、世間より申せば、義によって御腹召すほどの善い方々が、それだけ世間に減った道理。そういうことで世間の行末が好くなって行こう理窟はござらぬ。これは何としても世間一体を良くしようという考え方に向わねば、何時迄経っても鑓刀、修羅の苦患を免れる時は来ないと存じまする。」
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