四
大谷川の源頭の流れに對し、華嚴の大瀑布を右手の軒近く看て、小茶亭が立つてゐる。それが即ち五郎兵衞茶屋であつて、今日のところではこの茶店又はその附近程、天下の名瀑布たるこの瀑布の絶景を賞するに適した處は無い。大谷川となつて瀧の水が流れ出す東の一方を除いては、三方は翠峯青嶂に包まれてゐるその中央の高處から雪と噴き雷と轟いて、岩壁にもさはらずに一線に懸空的に落ちて來るのが華嚴の壯觀である。瀧の幅と高さの比例も自然に甚だ審美的であり、瀧壺の大きさもこれにかなつてゐる。瀧の背景になつてゐる岩壁も上半部が三段ばかりに横になつて見えるが、その最上部のものは恰も屋簷のやうに張出してゐて、その縁邊が鋸齒状をなしてゐるので鋸岩といふさうであるが、若しそれ近くついて視る時は、屋簷のやうに張り出してゐるその出が五間餘もあるといふのであるから驚く。これ等の巖壁の罅隙は、無數に亂飛してゐる巖燕の巣であつて、全く燕でなくては到る能はざるところである。巖壁の中部より下は、幾條となく水がほとばしり出してゐて各衞星的小瀑布をなしてゐる。その中で數へるに足りるのが十二もあるので、十二の瀧といふ名を與へられてゐる。十二の瀧の一つで、華嚴に近く、向つて右手のものは、高さが百三十尺もあるといふから、たとへ衞星的のものですらも他處へ持出せば、壯觀だの偉觀だのといはれるに足りるのである。これを以て推して華嚴の雄大を知るべしである。 まして此境が冬になつて氷雪の時にあへば、岩壁四圍悉く水晶とこほり白壁と輝いて、たゞ一條長へに九天より銀河の落つるを看る、その美しさは夏季に勝ることは遠いものであらうが、今は、千年流れて盡きず、六月地長へに寒しといふ詩の句の通り、人をして萬斛の凉味に夏を忘れしめ、飛沫餘煙翠嵐を卷いて、松桂千枝萬枝潤ひ、龍姿雷聲白雲を起して、岩洞清風冷雨鎖してゐる快さをもつて吾人を待つてくれる。この華嚴の景を直寫しようとして、石偏や山偏や散水や雨冠の字を澤山持ち出したら千言二千言の文の綴るのも難事では有るまいが、活字制限の世の中に文選的の詞章を作つて活字の文選者を弱らせたとて野暮なことであるし、女學生や小學生も修學旅行で昵懇になつてゐる場所のことを、今更らしく艮齋張りの文なぞにするのも餘り小兒臭いから、夏向はすべて抛下著にかぎると、あつさり瀧の水に流してしまつて、煙草のしめる瀧壺の冷え、その煙草から李白の詩句では無いが紫煙を生じさせてゆつくり一休み。 五郎兵衞茶屋の主人、名は五郎作、六十餘の好人物的風采を具した男で、茶屋開始者五郎兵衞老人の子である。五郎兵衞老人は華嚴の瀧が立派な瀧であるに拘らず適當な觀賞場所が無くて、たゞ瀧見臺から觀望するに過ぎぬ事を他國の人々が飽かず思ふのを道理と感じた。そしてこれは瀧壺へ下りさせるに足る徑を開くに限ると考へた。本業は人を使つて山深く入つて曲物(日光名物であるに拘らず、今はこれを鬻いでゐることの少いのは遺憾だ)の材料たる木をとるのであつたが、その事を思ひ立つてから、獨力で測量し、獨力で開鑿しはじめた。人々はそんな無理な事が出來るものかと嗤笑した。非難や嗤笑は、世の中の賢顏する詰らない男、ガスモク野郎、十把一からげ野郎の必ず所有してゐる玩具である。五郎兵衞老人は玩具におどかされるやうな男では無かつた。その鶴嘴を手にしだした時はすでに六十三歳であつたが、せかず忙がず、毎年々々コツ/\と路を造つた。七年の歳月は過ぎた。明治三十三年に至つて路は成就した。それが即ち今の路である。三十三年以前は瀧壺へは下りられなかつたが、徑が出來てから世人は華嚴を十分に觀賞するを得るに至つたのである。耶馬溪も昇仙峽も、これを愛しこれを開く人が有つてから世にあらはれるに至つたのである。華嚴も五郎兵衞老人を得てから愈その美を發したのである。瀧の神も吾人も五郎兵衞老人に滿腔の謝意を致さねばならぬ。
五
對岸の高處に明智平といふのがある。馬返しからそこを經て中禪寺へケーブルカー敷設の企てがある。それが成就すれば、八分乃至十二三分で馬返しから中禪寺へ行く事が出來るやうになる筈であるとのことだ。五郎兵衞老人の工事は誠意と勇氣との自力で出來たのだが、この工事は資本と巧智との衆力で出來るのである。出來上つた上はいづれも感謝に値するが、ケーブルカーの工事が勝景の風致の上に十分の考慮を拂つて施行されんことを望む。叡山筑波山の如きは無くもがなのものだといふ評さへ聞くが、こゝのは蓋し出來れば出來た方が婦女老幼のために甚大の利を餽ることにならう。 歸路についた。白雲の瀧、かさゝぎの橋は矢張り好い感じを人に與へる。歸りは上りになるのと、一度でも歩いた路なのとで、嶮峻の感じを大に薄くする。上り了つて一休みしながら、下までの深さを考へると、箱根の大路から堂ヶ島へ下りる位、或はそれより一二丁少しくらゐのものであつた。 中禪寺の區長に迎へられて、人々と共に宿に還ると直に湖に泛んだ。モーターボートで湖を一周しようといふのである。四山環翠、一水澄碧の湖上に輕艇を駛らすれば、凉風面を撲つて、白波ふなばたに碎くるさま、もとより爽快の好い心持である。歌が濱の佛國、英國、獨國大使別館、いづれも景勝の地を占めて湖に臨んでゐる。立木觀音で艇を出でゝ、立木をきざんだ本尊の古拙ではあるが面白い像を見、勝道上人の所持であつたといふ傳の刀子だの錫杖だのを見た。 勝道上人は日光の開山者で、日光を開くために前後十數年を費し、それまでは世に知られ無い神祕境であつたのを遂に開いたのである。その事は空海の性靈集中の碑文に見え、またそれによつて書いたと見える元亨釋書にも見えてゐる。神護景雲から延暦にわたつての事で、弘法大師よりは少し前の人である。この頃は有力の佛者が諸所の山々を開いた時代で、小角が芳野を開き、泰澄が白山を開いたのなどは先蹤をなしてゐる。上人の所持物だつたといふものが眞實であるならば、相當に貴族的有力者的生活者だつた事が窺ひ知られる。おもふに地方において中々の權力地位を有してゐた人であつて、それでこの山をも開き得たのであらう。元來この山の名は二荒山であつて、音讀して美しい字面を填めて日光山となつたのは、たとへば赤倉温泉の中の嶽が名香の嶽の字で填められ、名香を音讀して妙高山となり、今日では妙高山で通るやうになつたと同じである。また二荒を普陀落にあてゝ觀音所縁の山名に通はせ、それで觀音をきざみ、勸請などもしたのであらう、弘法の文にもはやくその洒落が見えてゐる。とにかく勝道上人のおかげで好い山が開けたものであるから、感謝の情を起さずにはゐられない。 堂を出て心づくのは、華嚴の瀧に飛び込んだ馬鹿者どものために供養塔が建てられたり、地藏尊がきざまれたりしてゐることである。これは死者をかなしむ美しい人情のあらはれであるが、死者は眞に人をわづらはし地を汚したものである。死にたくなるには何れそれだけの事由があつてだらうから、一概に罵倒したくも無いことでは有るが、同胞の一人が飛び込んだとすると、さあ大變だ、大騷ぎをしてその死骸を搜し出す、それ/″\の公私手續きを取る、その面倒さは一通りのもので無い。死んだ人は彼の恐ろしい瀧の中へ飛込んだなら一切この世とは連絡が絶えてしまふ位に考へてでも有らうが、何樣してそんなに容易に一切が水の泡となるものでは無い。瀧壺は三十何尺の深さが有つても、屍骸を食つて消化するのでも何でも無いから、必ず之を吐き出す。大勢の土地の人々は必ず之を見付け出す。見るも物憂い醜い屍は、煩雜な手續きを經て後に適法に處理される。その厄介を人々に掛ける事は一通りや二通りで無い。死者もその間は死恥をさらさぬ譯にはゆかぬし、死者の遺族などは重々困難の立場に立つ譯だ。自殺は人の勝手のやうなものだが、華嚴飛び込くらゐ智慧の無い、後腐れの多い、下らない死方は無い。生を否定してゐるに近い佛教ですら自殺は禁ぜられてゐて、釋迦存生當時厭世觀の極點に立つて、獵師であつたものに自分を殺させた者、その他の自殺をはかつた者等が釋迦の彈呵を被つたことは記録に明らかである。西藏や印度の蒙昧信者が身を棄てる如きも誰か今日之を是認しよう。まして宗教的からでも何でも無い、詰らないことから自殺しようとして華嚴を擇ぶ如きやからには、自分の權利も何も有るものでは無い。特に華嚴をえらぶ如き下らぬわがまゝを許せる理由が何處に有らう。涅槃の瀧といふのが何處かに有つたら知らぬこと、華嚴は高華偉麗の世界である、白牡丹花に蟻の這ひ上るのはまだしも許し得るとしても、華嚴に汚穢い馬鹿者の屍體を晒さうといふ場席は無いわけだ。華嚴行願には火の中へ飛び込んで清凉世界を得る談はあるが、それも淺間山へ飛び込めといふやうな譯ではない。華嚴へ飛び込みたいやうな氣のする人があつたら、六十三歳から瀧壺道を七年かゝつて造つた人にも慚ぢて、せめて故郷へかへつて半年なりと鍬でも鋤でも振廻して働いて見て貰ひたい。「石塔に鉢卷」といふ壯んな諺が日本にはあるが、石塔になつた氣で鉢卷をして働いたなら、華嚴の瀧はその人の棺前の華では無くて、必ず酒の下物たる好い眺めであらう。と先亡諸靈を哀むにつけて、つく/″\と心中に思つた。
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