二
停車場を出ると直に自動車に乘つて山上へと心ざした。本來今市から日光までの路は、例の杉並木の好い路であるから、汽車で乘越すのは惜いのであるが、時代を逆行させて、白地の夏の衣の袖さへ青む杉の翠の蔭を、煙草の烟吹きながら歩くむかしに返すことも出來ないことであるから是非無いとして、日光へは一夜宿つて東照宮其他を拜觀すべきであるが、それはすでに二人共に幾度か濟ませてゐることでもあり今度の目的でもないから、いきなりプー/\と山へ上つたが、馬返しまではたゞ一飛びであつた。それからは地名があらはしてゐる如く山路けはしくなるので、道路は文明のお蔭で汗も流さず車中に安坐しながら登り得るものゝ、時々急勾配の電光形状の屈曲角になると、車も一寸逆行して方向を鹽梅しなければ登れぬところも有つて、山嘴突端の逆行は餘り好い心持では無い。けれど日光自動車に事故はかつて無いといふ歴史を信じて談笑してゐる中に、般若方等の瀧徑も後に段々樹深く山深く入つて、溪添路は殊更に夕霧の深くなる中を大平へ着いた。 霧は可なり濃くなつて何もはつきりとは見えず、夏の長き日も暮かゝつて來るので、わが乘つた車の轟きも或時は奇妙に反響して、瀧の轟きが聞えるのでは無いかと疑つたりした。大平と聞いたので車を止めて下り立つた。瀧見臺へかゝつた。こゝは華嚴の瀧をその三分の二位の高さに當るところから望むところで、三十年も前には人々は大抵こゝから瀧を見るのみであつた。古い記憶は丁度今起つてゐる霧の立隔てゝゐるやうになつてゐるその中をたどつて、瀧を見るべき突端に至つた。客を接する人も居らず、岑閑とした霧の暮に、あらい金網を張つてゐる危ふげな突端にいたると、一谷呀然として開けて、たゞ白煙蒼霧の埋めてゐるかなたに、恐ろしい瀧の音が不斷の響きを立てゝゐるばかりであつた。心當にかなたと思はるる方をぢつと見てゐると眞白な霧の中に薄々と、薄青い帛を下げたやうにそれとうなづかるゝものがかすかに透かして見えた。山氣と嵐氣と暮氣とは刻々に懷に迫つて、幽奧の境、蒼茫の態、一聲鳥だに啼かず、千古水いたづらに落つる景、丁度人去つて霧卷くこの時に會つて、却つて原始的の状を味はふことは出來て幽趣無きにあらずでは有つたが、これだけでは仕方が無い、いづれあとは又明日と車に上つた。 時計を見ると七時五分であつた。そこで東京上野からは正しく僅々五時間で八景の一たる景勝が連接されてゐると思ふと、莞爾として滿足欣快の感のわき上るのを覺えた。五時間である。僅に五時間である。それで海拔四千尺の地に、直下七十何間(七十五丈ともいふ、説はまち/\だ)の大瀑布に對し、白樺や山毛欅や唐松の梢吹く凉しい風に松蘿の搖ぐ下に立つことが出來るかと思ふと、昭和の御世が齎らしてゐる文明が今のわれ等を祝福してゐてくれると誰も感ぜずには居られまい。 車は忽ち電燈の光の華やぐ旅館の門並の前を過ぎて、朱の鳥居の見ゆるところに來た。中禪寺へ着いたなと思ふ間もなく、華嚴の瀧の上流である湖尻の川にかゝつてゐる橋を渡ると、周圍七里の一大湖は眼前に開けたが、霧が來去するので何程の濶さがあるか朦朧として、たゞ人の想像に任せるものとして見えたのも却つて興があつた。以前は橋を渡らずに二荒山神社の方へ湖畔に沿うて行つて、そこらに點在する旅館に泊つたものであるが、われ等は歌が濱の米屋といふに着いた。樓に上つて欄によると、湖を壓して立つてゐる筈の男體山もぼんやりとして、近き對岸の家々の燈火も霧のさつと風に拂はれる時は點々と明るく、霧のおほひかゝる時は忽ち薄れ忽ち見えずなつた。雲霧は山につきものであり、塵埃は都の屬物であるが、萬丈の塵は景氣が好い代りに少し息苦しい。山の湖の霧は凉やかでこそあれ、安らかに吾人の睡眠を包んでくれた。夢を訪ふものは銀鈴を振るやうな河鹿の聲ばかりであつた。
三
平和の夢からさめて十日の朝だなと意識した時には、昨夜は少し厚過ぎるやうに思つた夜被も更に重く覺えなかつた。湖に面した廣縁に置かれた籐椅子によつて眺めると、昨日は水の面をはつて一望をたゞ有耶無耶の中に埋めた霧が、今朝はあとも無く晴れて、大湖を繞る遠い山々の胸や腰のあたりに白雲が搖曳してゐるばかりで、男體山は右手の前面に湖岸から直ちに四千尺の高さをもつて美しい傾斜で、翠色滴るばかりに聳え立つてゐる。山が自然の作用によつて條をなして崩れて襞のやうなものを造り出すのを、ゾレといふ國もありナギといふ國もあるが、男體山は頂上まで滿山樹木が茂つてゐるので、そのいはゆるナギの少いのは、人をして山に對してなつかしい和らかな感じをもたしむる所以で、それが加之清らかに澄みきつた萬頃の水の上にノッシリと臨んでゐるところは、水晶盤上に緑玉を堆うすとでもいひたい氣がする。二荒山神社及びその附近の人家が昨夜は霧のために遠く想はれたが、今朝は近々と指點し得るだけ空氣が明るいので、眼を男體山から左方へ移すと、連山が肩をつらね手を接して爭ひ立ち並び圍んでゐる中に、前白根奧白根が流石にそれとうなづかせるだけの勇姿を示して、まだ殘つてゐる谷の雪が銀白の光を見せてゐるのもうれしい景色であつた。 朝食を終つてから宿の主人や東日の通信員の案内を得て復び華嚴の瀧へと向つた。大平の瀧見臺へ到る途中、瀧の流れる見當へと行く右手の、道も無い林間叢裏に處々鐵網を張つて人の通行をさせぬやう用心してあるのが見えた。無理に瀧の上へ出て生命を粗末にしようとする狂人共を制する爲の手配であるが、見るさへにが/\しい。 瀧見臺に立つて見ると、昨夜の幽味は少しも無くて瀧は明らかに見え、無數の岩燕が瀧飛沫の煙の中を、朝の日の光を負ひながら翼も輕げに快く入亂れて上下左右してゐる。この臺から瀧を望むのも惡くは無いが、瀑布といふものの性質が俯瞰もしくは對看するよりは、その下にゐて仰望する方がその美を發揮する。然なくばやゝ離れた位置から遠くわが帽子の簷のあたりに看る方がおもしろい。李太白の廬山の瀑布を望む詩の句にも、仰ぎ觀れば勢轉雄なり、壯なる哉造化の功、といつてゐるが、瀑布の畫を描けば大抵李太白は點景人物になつてゐるほど瀑布好きの詩人で、自分からも、仍て諧ふ夙に好む所に、永く願はくは人間を辭せん、といつてゐる位に、名山の中に飽までも浸りたがつた先生である。その李太白先生も仰觀の一語を道下してゐる。どうも瀑布そのものが高處より落ちるところがその生命なのであるから、仰ぎ觀るのがよいに相違無く、さうしてからこそ、初めて驚く河漢の落つるを、半灑ぐ雲天の裏、なぞといふ詩句も出來て來るのである。また遠望するのも宜しい。同じ人が、日は香爐(峯の名)を照して紫煙を生ず、遙に看る瀑布の長川を挂くるを、といつてゐるのは遠望の觀賞である。華嚴は遠望する譯にはゆかぬが、瀑布の下へは幸にして下りられる。そこで瀧見臺より少し下つて、休み茶屋のあるところから谷底へと下りた。丁度瀧見臺の眞下へ下りるのだから、徑は甚だ危急であるが、老人の自分が靴をはいたまゝで下りられるのであるから、さして老人の冷水業といふほどでもない。勿論巖岨を截り削つて造つた道だから、歩を誤つては大變であるが、鐵の棒を巖へ立てたり、力になるやうに鐵線を架してあつたり、親切に出來てゐるから危いことも無い。 次第々々に下りて行くと華嚴の瀑布は見えなくなるが、やがてどう/\といふ瀑布の音が聞えて、右手に立派な瀧が見える。それは白雲の瀧といふので、その瀧の末の流れを鵲の橋によつて渡つて對岸へ路はつゞく。橋の上は丁度白雲の瀧を見るによい。これは屈折はしてゐるが五十間であるから、他の土地に在つたら本尊樣になるだけの立派な瀧だが、華嚴の近くにあるので月前の星のやうに人に思はれるのは是非が無い。併し鵲の橋の上に立つてゐると瀧が近いので、瀧飛沫は冷やかに領に下ちて衣袂皆しめり、山風颯然として至つて、瀧のとゞろき、流の沸りと共に、人をして夏のいづこにあるかを忘れしむるところ、捨て難いものがある。橋の名も宜い、瀧の名も宜い、紅葉の頃には特にウツリが宜からうと思はれる雅境である。橋を渡つて巖路を一轉囘すると、やがて華嚴の大觀は前面に現れた。
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