浅野長政は関東の諸方の仕置を済ませて駿河府中まで上った時に、氏郷の飛脚に逢った。江戸に立寄って家康に対面し、蒲生忠三郎を見継がん為に奥州へ罷り下る、御加勢ありたし、と請うたから家康も黙っては居られぬ。結城秀康を大将に、榊原康政を先鋒にした。長政等の軍は十二月中旬には二本松に達した。それより先に長政は浅野六右衛門を氏郷の許へ遣った。六右衛門は名生へ行ったから、一切の事情は分明した。長政は政宗を招ぶ、政宗は出ぬわけには行かぬ、片倉小十郎其外三四人を引連れて、おとなしく出て来て言訳をした。何事も須田伯耆の讒構ということにした。それならば成実盛重両人を氏郷へ人質に遣りて、氏郷これへ参られて後に其仔細を承わりて、言上可申と突込んだ。政宗は領掌したが、人質には盛重一人しか出さなかった。氏郷は承知しなかった。遂に十二月二十八日成実は人質に出た。此の成実は嘗て政宗に代って会津の留守をした程の男で、後に政宗に対して何を思ったか伊達家を出た時、上杉景勝が五万石を以て迎えようとした。然し景勝には随身しないで、復伊達家へ帰ったが、其時は僅に百人扶持を給されたのみであったのに、斎藤兵部というものが自ら請うて信夫郡の土兵五千人を率いて成実に属せんことを欲したので、成実は亘理郡二万三千八百石を賜わって亘理城に居らしめらるるに至ったという。所謂埋没さるること無き英霊底の漢である。大坂陣の時は老病の床に在ったが、子の重綱に対って、此戦は必ず一度和談になって、そして明年に結局を見るだろう、と外濠を埋められてから大阪が亡びるに至るだろうことを予言した片倉小十郎と共に実に伊達家の二大人物であった。其の成実を強要して一旦にせよ人質に取った氏郷は、戦陣のみでは無い樽俎折衝に於ても手強いものであった。 其年は明けて天正十九年正月元日、氏郷は木村父子を携えて名生を発して会津へと帰る其途で、浅野長政に二本松で会した。政宗の様子は凡べて長政に合点出来た。長政はそこで上洛する。政宗も手を束ね居てはならぬから、秀吉の招喚に応じて上洛する。氏郷は人質を返して、彼の二人が提出した証文を持参し、これも同じく上洛した。政宗が必死を覚悟して、金箔を押した磔刑柱を馬の前に立てて上洛したのは此時の事で、それがしの花押の鶺鴒の眼の睛は一ト月に三たび処を易えまする、此の書面の花押はそれがしの致したるには無之、と云い抜けたのも此時の事である。鶺鴒の眼睛の在処を月に三度易えるとは、平生から恐ろしい細かい細工を仕たものだ。 政宗は是の如く証拠書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めなかった。溝の底の汚泥を掴み出すのは世態に通じたもののすることでは無い、と天明度の洒落者の山東京伝は曰ったが、秀吉も流石に洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通り抜けさせてやる気がある。人の腹の中が好いの悪いのと注文を云って居る絛虫や蛔虫のようなケチなものではない。三百代言気質に煩わしいことを以て政宗を責めは仕無かった。却って政宗に、一手を以って葛西大崎の一揆を平げよと命じた。或は是れは政宗が自ら請うたのだとも云うが、孰れへ廻っても悪い役目は葛西大崎の土酋で、政宗の為に小苛い目に逢って終った。 此年の夏、南部の九戸左近政実という者が葛西大崎などのより規模の大きい反乱を起したが、秀次の総大将、氏郷の先鋒、諸将出陣というので論無く対治されて終い、それで奥羽は腫物の根が抜けたように全く平定した。氏郷は此時も功が有ったので、前後勲功少からずとて七郡を加増せられ、百万石を領するに至った。 多分九戸乱の済んだ後、天正十九年か二十年の事であったろう。前年の行掛りから何様も氏郷政宗の間が悪い。自分の腹の中で二人に喧嘩されては困るから、秀吉は加賀大納言前田利家へ聚楽での内証話に、大納言方にて仲を直さするようにとの依頼をした。利家も一寸迷惑で無いことも無かったろう。仲の悪い二人を一室に会わせて仲が直れば宜いが、却て何かの間違から角立った日には、両虎一澗に会うので、相搏たんずば已まざるの勢である。刃傷でもすれば喧嘩両成敗、氏郷も政宗も取潰されて終うし、自分も大きな越度である。二桃三士を殺すの計とも異なるが、一席の会合が三人の身の上である。秀吉に取っては然様いうことが起っても差支は有るまいか知らぬが、自分等に取っては大変である。そこで辞し度いは山々だったろうが、両人の仲悪きは天下にも不為であるという秀吉の言には、重量が有って避けることが出来ぬ。是非が無いから、氏郷政宗を請待して太閤の思わくを徹することにした。氏郷は承知した。政宗も太閤内意とあり、利家の扱いとあり、理の当然で押えられているのであるから戻くことは出来ぬ。然し主人の利家は氏郷と大の仲好しで、且又免れぬ中の縁者である、又左衛門が氏郷贔屓なのは知れきった事である。特に前年自分が氏郷を招いた前野の茶席の一件がある。如何に剛胆な政宗でも、コリャ迂闊には、と思ったことで有ろう。けれども我儘に出席をことわる訳にはならぬ、虚病も卑怯である。是非が無い。有難き仕合、当日罷出で、御芳情御礼申上ぐるでござろう、と挨拶せねばならなかった。余り御礼など申上度いことは無かったろう。然し流石は政宗である、シャ、何事も有らばあれ、と参会を約諾した。 其日は来た。前田利家も可なり心遣いをしたことであろうが、これは又人物が大きい、ゆったりと肉つきの豊かなところが有って、そして実は中々骨太であり、諸大名の受けも宜くて徳川か前田かと思われたほどであるから、かかる場合にも坦夷の表面の底に行届いた用意を存して居たことであろう。相客には浅野長政、前田徳善院、細川越中守、金森法印、有馬法印、佐竹備後守、其他五六人の大名達を招いた。場処は勿論主人利家の邸で、高楼の大広間であった。座席の順位、人々の配り合せは、斯様いう時に於て非常に主人の心づかいの要せらるるものだ。無論氏郷を一方の首席に、政宗を一方の首席に、所謂両立というところの、双方に甲乙上下の付かぬように請じて坐せしめた事だろう。それから自然と相客の贔負贔負が有るから、右方贔負の人々をば右方へ揃え、左方贔負の人々を左方へ揃えて坐らせる仕方もあれば、これを左右錯綜させて坐らせる坐らせ方も有る訳で、其時其人其事情に因って主人の用意は一様に定った事では有るまいが、利家が此日人々を何様組合せて坐らせたかは分らない。但し此日の相客の中で、佐竹の家は伊達の家と争い戦った事はあるが元来が親類合だから、伊達が蒲生に対する場合は無論備後守は伊達贔負の随一だ。徳善院は早くから政宗と懇親である。細川越中守は蒲生贔負たること言うまでも無い。浅野弾正大弼長政は中々硬直で、場合によれば太閤殿下をも、狐に憑かれておわすなぞと罵ることもある程だが、平日は穏便なることが好きな、物分りの宜い人であるから、氏郷贔負では有るが政宗にも同情を吝む人では無い。有馬、金森、いずれも中々立派に一ト器量ある人々であり、他の人々も利家が其席を尊くして吾子の利長利政をも同坐させなかった程だから、皆相応の人々だったに疑無い。主人利家に取っては自分の支持をするものが一人でも多いのが宜い訳だから、子息達も立派な大名である故同座させた方が万事に都合が好いのだが、そこは又左衛門利家そんなナマヌル魂では無い。両者の仲裁仲直りの席に、司会者の側の顔を大勢並べて両者を威圧するようにするのは卑怯で、かかる場合万々一間違が出来れば、左方からも右方からも甘んじて刀を受けて、一身を犠牲にして、そして飽迄も双方を取纏めるのを当然の覚悟とするから、助勢なんぞは却って要せぬのである。 人々は座に直った。利家は一坐を見ると、伊達藤次郎政宗は人々に押つけられまじい面魂でウムと坐っている。それも其筈で、いろいろの経緯があった蒲生忠三郎を面前に扣えているのであるから。又蒲生忠三郎氏郷も、何をと云わぬばかりの様子でスイと澄まして居る。これも其筈だ。氏郷は「錐、嚢にたまらぬ風情の人」だと記されて居るから、これも随分恐ろしい人だ。厄介な人達の仲直りを利家は扱わせられたものだ。前田家の家臣の書いているところに拠ると、「其節御勝手衆も申候は、今日政宗の体、大納言殿御ン屋にて無く候はば、まんをも仕られ申すべく候、又飛騨守殿も少も/\左様の事堪忍これなき仁にて、事も出来申候事も之有るべく候へども云々」とある。まんとは我儘である。氏郷政宗二人の様子を饗応掛りの者の眼から見たところを写して居るのである。そこで利家が見ると、政宗は肩衣でいる、それは可い、脇指をさして居る、それも可いが、其の脇指が朱鞘の大脇指も大脇指、長さが壱尺八九寸もあった。そんな長い脇指というものが有るもので無い。利家の眼は斯様な恐ろしく長い脇指を指している政宗の胸の中を優しく見やった。ここを我等から政宗の器量が小さいように看て取ってはならぬ。政宗は政宗で、寧ろ此処が政宗の好い処である。脇指は如何に長くても脅かしにはならぬ、まして一坐の者は皆血烟りの灌頂洗礼を受けている者達だ。だから其の恐ろしく長い大脇指は使うつもりで無くて何で有ろう。使うつもりである、ほんとに使うつもりであったのである。好んで此を使おうようは無いが、主人の挨拶、相手の出方、罷り間違ったら、おれはおれだ、の料簡がある。何十万石も捨てる、生命も捨てる、屈辱に生きることは嫌だ、遣りつけるまでだ、という所存があったのである。沸り立った魂は誰も斯様である。これが男児たる者の立派な根性で無くて何で有ろう。後に至っては政宗もずっと人が大きくなって、江戸の城中で徳川の旗本から一拳を食わせられたが、其時はもう「蟻、牡丹に上る、観を害せず」で、殴った奴は蟻、自分は大きな白牡丹と納まりかえったのである。が、此時はまだ若盛り、二十六七、せいぜい二十八である。まだ泰平の世では無い、戦乱の世である。少しでも他に押込まれて男を棄てては生甲斐が無いのである。壱尺七八寸の大脇指は、珍重珍重。政宗は政宗だ、誰に遠慮がいろうか。元来政宗は又人に異った一ト気象が有った者で、茶の湯を学んでから、そこは如何に政宗でも時代の風には捲込まれて、千金もする茶碗を買った。ところが其を玩賞していた折から、ふと手を滑らせて其茶碗を落した。すると流石大々名でもハッと思うて胸ドッキリと心が動いた。そこで政宗は自ら慚じ自ら憤った。貴いとは云え多寡が土細工の茶碗だ、それに俺ほどの者が心を動かしたのは何事だ、エエ忌々しい、と其の茶碗を把って、ハッシ、庭前の石へ叩きつけて粉にして終ったということがある。千両の茶碗を叩きつけたところは些癇癪が強過ぎるか知らぬが、物に囚われる心を砕いたところは千両じゃ廉いくらいだ。千両の茶碗をも叩ッ壊した其政宗が壱尺七八寸の叩き壊し道具を腰にして居る、何を叩き壊すか知れたものでは無い。そして其の対坐に坐って居るのは、古い油筒を取上げて三百年も後まで其器の名を伝えた氏郷である。片や割茶碗、片や油筒、好い取組である。 氏郷其日の容儀は別に異様では無かった。「飛騨守殿仕立は雨かゝりの脇指にて候」とある。少し不明であって精しくは分らぬ。が、政宗の如きでは無く、尋常に優しかったのであろう。主人はじめ其他の人々も無論普通礼服で、法印等法体の人々は直綴などであったと思われる。何にせよ政宗の大脇指は目に立った。人々も目を着けて之を読んだろう。仲直り扱いの主人である又左衛門利家は又左衛門利家だけに流石に好かった。其大脇指に眼をやりながら、政宗殿にはだてなる御ン仕立、と挨拶ながら当てた。綿の中に何かが有る言葉だ。実に味が有る。又左衛門大出来、大出来。太閤が死病の時、此人の手を押頂いて、秀頼の上を頼み聞えたが、実に太閤に頂かせるだけの手を此人は持っていたのだ。何とまあ好い言葉だろう、此時此場、此上に好い語は有るまい。政宗は古禅僧の徳山の意気である、それも慥におもしろい。然し利家は徳山どころではない、大禅師だ。「政宗は殊のほか当りたる体にて候」と前田の臣下が書いて居るが、如何に政宗でも、扱い役である利家に対って此語を如何ともすることは出来無かったろう、殊のほか当ったに相違無い。然し政宗も悪くはなかった、遠国に候故、と云って謹んでおとなしくしたという。田舎者でござるから、というようなものだ。そこで盃が二ツ座上に出された。利家は座の中へ出て、殿下の意を伝え、諸大名も自分も双方の仲好からん事を望む趣意を挨拶し、双方へ盃を進め、酒礼宜しく有って、遂に無事円満に其席は終ってしまった。利家の威も強く徳もあり器量も有ったので上首尾に終ったのである、殿下が利家に此事を申付けられたのも御尤だった、というので秀吉までが讃められて、氏郷政宗の仲直りは済んだ。「だてなる御仕立」は実に好かった。「だて」という語は伊達家の衣裳持物の豪華から起ったの、朝鮮陣の時に政宗の臣遠藤宗信や原田宗時等が非常に大きな刀や薙刀などを造ったから起ったのだなどと云うのは疑わしい。も少し古くから存した言葉だろう。 天正二十年即ち文禄元年、彼の朝鮮陣が起ったので、氏郷は会津に在城していたが上洛の途に上った。白河を越え、下野にかかり、遊行上人に道しるべした柳の陰に歌を詠じ、それから那須野が原へとかかった。茫々たる曠野、草莱いたずらに茂って、千古ただ有るがままに有るのみなのを見て、氏郷は「世の中にわれは何をかなすの原なすわざも無く年や経ぬべき」と歎じた。歌のおもては勿論那須野が原の世に何の益をもなさで今後も甲斐なく年を経るであろうかと歎じたのである。然し歌は顕昭阿闍黎の論じた如く、詩は祇園南海の説いた如く、其裏に汲めば汲むべき意の自然に存して居るものである。此歌を味わえば氏郷が身漸く老いんとして志未だ遂げざるをば自ら悲み歎じたさまが思い浮められる。それから佐野の舟橋を過ぎ信濃へ入ったところ、火を有つ浅間の山の煙は濛々漠々として天を焦して居る。そこで「信濃なる浅間の岳は何を思ふ」と詠み掛けたりなぞしている。自分が日頃胸を焦がして思うところが有るからであったろう。 肥前名護屋に在って太閤に侍して居た頃、太閤が朝鮮陣の思うようにならぬを悦ばずして、我みずから中軍を率い、前田利家を右軍、蒲生氏郷を左軍にして渡海しようと云った時、氏郷が大に悦んで、人生は草葉の露、願わくは思うさま働きて、と云ったことは名高い談である。其事は実現し無かったけれども、氏郷の英雄の意気と、太閤に頼もしく思われた程度とは想察に余りある。氏郷が病死したのは文禄四年二月七日で、齢は四十歳で有ったが、其死後右筆頭の満田長右衛門が或時氏郷の懸硯を開いて、「朝鮮へ国替仰せ付けられたく、一類眷属悉く引率して彼地へ渡り、直ちに大明に取って掛り、事果てぬ限りは帰国仕るまじき旨の目安」を作り置かれしが、これを上らるるに及ばずして御寿命が尽きさせられた、と歎じたという。これをケチな史家共は、太閤に其材能を忌まれたから、氏郷が自ら安んぜずして然様いう考を起したのであるというが、そんな蝨ッたかりの秀吉でもない氏郷でもない、九尺梯子は九尺梯子で、後の太平の世に生れて女飯を食った史伝家輩は、元亀天正の丈高い人を見損う傾がある。 太閤が氏郷を忌んで、石田三成と直江兼続の言を用い、利休の弟子の瀬田掃部正忠に命じて毒茶を飲ませたなどと云うのは、実に忌々しい。正忠の茶に招かれて、帰宅して血を咯いたことは有ろうが、それは病気の故で有ったろう。無い事に証拠は無いものであるから、毒を飼わなかったという証拠は無い訳だが、太閤が毒を飼ったということは信ぜられない。太閤が然様なことをする人とは思えないばかりで無い、然様なことをする必要が何処にあるであろう。氏郷が生きて居れば、豊臣家は却って彼様にはならなかったろう。氏郷が利家と仲好く、利家は好い人物であり、氏郷と家康とは肌合が合わぬのであった。然様いうことを知らぬような寐惚けた秀吉では無い。或時氏郷邸で雁の汁の会食があって、前田肥前守、細川越中守、上田主水、戸田武蔵守など参会したことがあった。食後雑談になって、若し太閤殿下に万一の事があったら、天下を掟するものは誰だろうということが話題になった。其時氏郷は、あれあれ、あの親父、と云って肥前守利長を指さした。利長の親父は即ち利家だ。利長は、飛騨殿は何を申さるるや、とおとなしい人だから笑った。皆々は些合点しかねた。で氏郷は、利家は武辺なり、北国三州の主なり、京都までの道すがらに足に障る者もなく、毛利は有りても浮田が遮り申す、家康上洛を心掛けなば此の飛騨が之有る、即時に喰付て箱根を越えさせ申すまじ、又諸大名多く洛に在りて事起らば、猶更利家の味方多からん、と云ったと云う。氏郷が家康に喰付けば、政宗が氏郷に喰付きもするだろうが、それは兎に角として、氏郷は利家贔屓であった。又他の場合にも氏郷は利家が天下を掟するに足ることを云い、前田殿を除きてはと問われたら、其時はおれが、と云ったので、徳川殿はと問う者が出たところ、彼の物悋みめがナニ、と云った談が伝えられている。氏郷が家康を重く視ていず、又余り快く思っていなかったことは実際だったろう。秀吉も猜忌の念の無いことは無い。然し氏郷を除きたがる念があったとすれば、余程訳の分らぬ人になって、秀吉の価は大下落する。氏郷に毒を飼ったのは三成の讒に本づくと、蒲生家の者は記しているが、氏郷は下血を患ったと同じ人が記し、面は黄に黒く、項頸の傍、肉少く、目の下微し浮腫し、其後腫脹弥甚しかったと記してある。法眼正純の薬、名護屋にて宗叔の薬、又京の半井道三等の治療を受けたとある。一朝一夕の病気ではない。想像するに腎臓などの病で終ったのだろう。南禅寺霊三和尚の慶長二年の氏郷像賛に「可レ惜談笑中窃置二鴆毒一」の句が有ったとしても、それは蒲生の家臣の池田和泉守が氏郷の死を疑ったに出た想像に本づいたものであろう。下風の謡が氏郷の父の賢秀の上を笑ったのであろうとも、一族の山法師の崇禅院の事を云ったのであろうとも、何でも差支無いと同じく、深く論ずるに値せぬ。 彼の氏郷が自ら毒飼をされた事を知って、限りあればの歌を詠ずると、千利休が「降ると見ば積らぬさきに払へかし雪には折れぬ青柳の枝」という歌を示して落涙したなどというのは余り面白くない演劇だ。降ると見ばの歌を聞いたとて毒を飼われて終った後に何になろう。且其歌も講釈師が示しそうな歌で、利休が示しそうな歌ではない。氏郷の辞世の歌は毒を飼われたのを悟って詠じたと解せずとも宜かろう。二月七日に死んだのである。春の事であり、花を惜むことを詠んだので、其中おのずからに自ら傷んで居るのである。別に毒のなどはせぬ。政宗をさえ羽柴陸奥守にして居る太閤が、何で氏郷に毒を飼うような卑劣狭小な心を有とう。太閤はそんなケチな魂を有っては居ぬ人と思われる。ただ氏郷が寿命が無くて、朝鮮へ国替の願を出さずに終ったことは、氏郷の為に、太閤の為に惜んでも余りある。太閤は無論悦んで之を許した事であろうに。家康も家康公と云って然るべき方である、利家も利家公と云って然るべき人である、其他上杉でも島津でも伊達でも、当時に立派な沸り立った魂は少くないが、朝鮮へ国替の願を出そう者は、忠三郎氏郷のほかに誰が有ったろう。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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1015-上-9 |
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