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蒲生氏郷(がもううじさと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:29:12 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

政宗にも氏郷にもゆかりは無いが、政宗の為に虚談想像談で有って欲しい。政宗こそかえって今歳ことし天正の十八年四月の六日に米沢城に於て危うく毒を飼わりょうとしたのである。それは政宗が私に会津を取り且つ小田原参向遅怠の為に罪を得んとするの事情が明らかであったところから、最上もがみ義光にたぶらかされた政宗の目上が、政宗を亡くして政宗の弟の季氏すえうじを立てたら伊達家が安泰で有ろうという訳で毒飼の手段を廻らした。幸にそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒にあたって苦悶くもん即死したから事あらわれて、政宗は無事であったが、其為に政宗は手ずから小次郎季氏をり、小次郎のもり小原縫殿助おばらぬいのすけちゅうし、同じく誅されそこなった傅の粟野藤八郎は逃げ、目上の人即ち政宗の母は其実家たる最上義光の山形へ出奔いではしったという事がある。小次郎を斬ったのは鈴木七右衛門だったとも云う。これも全部は信じかねるが、何にせよ毒飼騒ぎのあったことは有ったらしく、又世俗の所謂いわゆる鬼役即ち毒味役なる者が各家に存在した程に毒飼の事は繁かったものである。されば政宗が氏郷に毒を飼ったことは無かったとしても、蒲生方では毒を飼ったと思ってもあながち無理では無く、氏郷が西大寺を服したとても過慮でも無い。又ずっと後の寛永初年(五年)三月十二日、徳川二代将軍秀忠が政宗の藩邸に臨んだ時、政宗が自ら饗膳きょうぜんを呈した。其時将軍の扈従こじゅうの臣の内藤外記げきが支え立てして、御主人おんあるじ役に一応御試み候え、と云った。すると政宗はおおいに怒って、それがし既にかく老いて、今さら何で天下を心掛きょうず、天下に心を掛けしは二十余年もの昔、其時にだに人に毒を飼う如ききたなき所存はたず、と云い放った。それで秀忠が笑って外記の為に挨拶が有って其儘そのままに済んだ、という事がある。政宗の答は胸がくように立派で、外記は甚だ不面目であったが、外記だとて一手ひとてさきが見えるほどの男ならば政宗が此の位の返辞をするのは分らぬでもあるまいに、何で斯様かようなことを云ったろう。それは全く将軍を思う余りの過慮から出たに相違無いが、見す見す振飛ばされると分ってながら一押し押して見たところに、外記は外記だけの所存が有ったのであろう。政宗と家康と馬の合ったように氏郷と仲の好かった前田利家は、温厚にして長者の風のあった人で、敵の少い人ではあったが、それでも最上の伊白という鍼医はりいの為に健康を危うくされて、老臣の村井豊後ぶんごの警告により心づいて之を遠ざけた、というはなしがある。毒によらず鍼によらず、陰密に人を除こうとするが如きことは有り内の世で、最も名高いのは加藤清正毒饅頭どくまんじゅう一件だが、それ等の談は皆虚誕であるとしても、各自が他を疑い且つ自らいましめ備えたことはあまねく存した事実であった。政宗が毒を使ったという事は無くても、氏郷が西大寺を飲んだという事は存在した事実と看て差支あるまい。
 其日氏郷は本街道、政宗は街道右手を、並んで進んだ。はや此辺は叛乱地はんらんちで、地理は山あり水あって一寸錯綜さくそうし、処々に大崎氏の諸将等が以前って居た小城が有るのだった。氏郷軍は民家を焼払って進んだところ、本街道筋にも一揆いっきこもった敵城があった。それは四竈しかま中新田なかにいだなど云うのであった。氏郷の勢に怖れて抵抗せずに城を開いて去ったので、中新田にとどまり、氏郷は城の中に、政宗は城より七八町へだたった大屋敷に陣取ったから、氏郷の先隊四将は本隊を離れて政宗の営の近辺に特に陣取った。無論政宗を監視する押えであった。此の中新田附近は最近、即ち足掛四年前の天正十五年正月に戦場となった処で、其戦は伊達政宗の方の大敗となって、大崎の隣大名たる葛西左京太夫晴信が使を遣わして慰問したのはまだしも、越後の上杉景勝からさえ使者をよこして特に慰問されたほど諸方に響き渡り、又反覆常無き大内定綱は一度政宗に降参した阿子島民部を誘って自分に就かせたほど、伊達の威を落したものだった。それは大崎の大崎義隆の臣の里見隆景から事起って、隆景が義隆をして同じ大崎の巨族たる岩出山の城主氏家弾正を殺させんとしたので、弾正が片倉小十郎に因って政宗に援を請うたところから紛糾した大崎家の内訌ないこうが、伊達対大崎の戦となり、伊達が勝てば氏家弾正を手蔓てづるにして大崎を呑んでしまおうということになったのである。ところが氏家をたすけに出た伊達軍の総大将の小山田筑前は三千余騎を率いて、金の采配さいはいを許されて勇み進んだに関らず、岩出山の氏家弾正を援けようとして一本槍に前進して中新田城を攻めたため、大崎から救援の敵将等と戦って居る中に、中新田城よりはあとに当って居る下新田城や師山もろやま城や桑折くわおり城やの敵城に策応されて、袋のねずみの如くに環攻され、総大将たる小山田筑前は悪戦して死し、全軍殆んど覆没し、陣代の高森上野こうつけ婿むこしゅうとよしみを以てあわれみを敵の桑折(福島附近の桑折こおりにあらず、志田郡鳴瀬川附近)の城将黒川月舟に請うて僅に帰るを得た程である。今氏郷は南から来て四竈を過ぎて其の中新田城に陣取ったが、大崎家の余り強くも無い鉾先ほこさきですら、中新田の北に当って同盟者をさえ有した伊達家の兵に大打撃を与え得た地勢である。氏郷の立場は危いところである。政宗の兵が万一敵意をあらわして、氏郷勢の南へ廻って立切った日には、西には小野田の城が有って、それから向うは出羽奥羽の脊梁せきりょう山脉に限られ、北には岩出山の城、東北には新田の城、宮沢の城、高清水の城、其奥に弱い味方の木村父子が居るがそれは一揆いっきが囲んでいる、東には古川城、東々南には鳴瀬川の股に師山城、松山城、新沼城、下新田城、川南には山に依って桑折城、東の一方を除いては三方皆山であるから、四方策応して取って掛られたが最期、城に拠って固守すれば少しは支え得ようが、動こうとすれば四年前の小山田筑前の覆轍ふくてつむほかは無い。氏郷が十二分の注意を以て、政宗の陣の傍へ先手さきての四将を置いたのは、仮想敵にせよ、敵の襟元に蜂を止まらせて置いたようなものである。動静監視のみでは無い、し我に不利なるべく動いたら直にさせよう、螫させて彼が騒いだら力足を踏ませぬ間に直に斬立きりたてよう、というのである。七八町の距離というのは当時の戦には天秤てんびんのカネアイというところである。
 小山田筑前が口措くも大失敗を演じた原因は、中新田の城を乗取ろうとして掛ったところ、城将葛岡監物くずおかけんもつが案外に固く防ぎこらえて、そこより一里内外の新田に居た主人義隆に援を請い、義隆が直ちに諸将を遣わしたのに本づくので、中新田の城の外郭そとぐるわまではったが、其間に各処の城々より敵兵が切って出たからである。たとえば一箇のけもの相搏あいうって之を獲ようとして居る間に、四方から出て来た獣に脚をまれ腹を咬まれ肩をつかみ裂かれ背を攫み裂かれて倒れたようなものである。氏郷は今それと同じ運命に臨まんとしている。何故といえば氏郷は中新田城に拠って居るとは云え、中新田をること幾許いくばくも無いところに、名生めふの城というのがあって、一揆が籠っている。小さい城では有るが可なり堅固の城である。氏郷が高清水の方へ進軍して行けば、戦術の定則上、是非其の途中の敵城は落さねばならぬ。其名生の城にして防ぎ堪えれば、氏郷に於ける名生の城はあたかも小山田筑前に於ける中新田の城と同じわけになるのである。しかも政宗は高清水の城まで敵の城は無いと云ったのであるから、蒲生軍は名生の城というのが有って一揆が籠って居ることを知らぬのである。されば氏郷は明日名生の城に引かかったが最期である、よしんば政宗が氏郷に斬って掛らずとも、傍観の態度を取るだけとしても、一揆いっき方の諸城よりって出たならば、蒲生勢は千手観音せんじゅかんのんでも働ききれぬ場合に陥るのである。
 明日は愈々いよいよ一揆勢との初手合せである。高清水へは田舎道六十里あるというのであるが、早朝に出立して攻掛かろう。し途中の様子、敵の仕業しわざに因って、高清水に着くのが日暮に及んだなら、明後日は是非攻め破る、という軍令で、十八日の中新田の夜は静かに更けた。無論政宗勢は氏郷勢の前へ立たせられる任務を負わせられていたのである。然るに其朝は前野の茶室で元気好く氏郷に会った政宗が、其夜の、しかもの刻、即ち十二時頃になって氏郷陣へ使者をよこした。其の言には、政宗今日夕刻よりにわか虫気むしけまかり在り、何とも迷惑いたし居り候、明日の御働き相延ばされたく、御先鋒さきつかまつり候事成り難く候、とあるのであった。金剛の身には金剛の病、巌石も凍融いてとけの春の風にはくずるる習いだから、政宗だとて病気にはなろう。虫気というは当時の語で腹痛苦悩の事である。氏郷及び氏郷の諸将は之を聞いて、ソリャコソ政宗めが陰謀は露顕したぞ、と思って眼の底に冷然たるえみたたえて点頭うなずき合ったに違いあるまい。けれども氏郷の答は鷹揚おうようなものであった。おおせの趣は承り候、さりながら敵地に入り、敵を目近に置きながら留まるべくも候わねば、明日は我が人数を先へ通し候べし、御養生候て後より御出候え、と穏やかな挨拶だ。此の返答を聞いて政宗は政宗で、ニッタリと笑ったか何様どうだか、それは想像されるばかりで、何の証も無い。ただ若し政宗に陰険な計略が有ったとすれば、思う壼に氏郷をめて先へ遣ることになったのである。
 十九日の早朝に氏郷は中新田を立った。伊達勢は主将が病気となってヒッソリと静かにして居る。氏郷は潮合を計って政宗のかたへ使者を出した。それがしは只今打立ち候、油断無くゆるゆる御養生の上、後より御出候え、というのであった。そして氏郷は諸軍へ令した。政宗を後へ置く上は常体の陣組には似る可からず、というのであったろう、五手与いつてぐみ、六手与、七手与、此三与みくみ後備あとぞなえと定め、十番手後備の関勝蔵を三与の後へ入替えた。前にも見えた五手与、六手与などというのは、此頃の言葉で五隊で一集団を成すのを五手与、六隊で一集団を成すのを六手与というのであった。さて此の三与は勿論政宗の押えであるから、十分に戦を持って、皆後へ向って逆歩しりあしに歩み、政宗打って掛らば直にも斬捲きりまくらん勢を含んで居た。逆歩に歩むとは記してあるが、それは言葉通りに身構は南へ向いあしは北へ向って行くことであるか、それとも別に間隔交替か何かの隊法があって、後を向きながら前へ進む行進の仕方が有ったか何様かくわしく知らない。但し飯田忠彦の野史やしに、行布常蛇陣とあるのは全く書き損いの漢文で、常山蛇勢の陣というのは、これとは異なるものである。何はあれ関勝蔵の一隊を境にして、前の諸隊は一揆勢に向い、後の三与は政宗に備えながら、そして全軍が木村父子救援の為に佐沼の城を志して、差当りは高清水の敵城をほふらんと進行したのは稀有けうな陣法で、氏郷雄毅ゆうき深沈とは云え、十死一生、危きこと一髪を以て千鈞せんきんつなぐものである。既に急使は家康にも秀吉にも発してあるし、又政宗が露骨に打って掛るのは、少くとも自分等全軍を鏖殺みなごろしにすることの出来るく能く十二分の見込が立た無くては敢てせぬことであると多寡をくくって、其の政宗の見込を十二分には立たせなくするだけの備えを仕て居れば恐るるところは無い、と測量の意味であるところの当時の言葉の「下墨さげすみ」を仕切って居り、一揆征服木村救援の任を果そうとして居るところは、其の魂の張り切りたぎり切って居るところ、実に懦夫だふ怯夫きょうふをしてだに感じて而して奮い立たしむるに足るものがある。
 高清水まで敵城は無いと云う事であったが、それは真赤な嘘であった。中新田を出て僅の里数を行くと、そこに名生の城というが有って一揆の兵がこもって居り、蒲生軍に抵抗した。先隊の四将、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近等、何躊躇ちゅうちょすべき、しおらしい田舎武士めが弓箭ゆみやだて、我等が手並を見せてくれん、ただ一もみぞと揉立てた。池野作右衛門という者一番首を取る、面々励み勇みおめき叫んで攻立った。作右衛門素捷すばやく走り戻って本陣に入り、首を大将の見参げんざんに備え、ここに名生の城と申す敵城有って、先手の四人合戦仕った、と述べた。サアここである。氏郷がここで名生の城に取掛けて手間取って居れば、四年前の小山田筑前と同じ事になって、それよりもなお甚だしい不利の場合に身を置くことになるのである。鏖殺おうさつさるべき運命を享受する位置に立つのである。
 氏郷は真に名生の城が前途に在ったことを知らなかったろうか。種々の書には全く之を知らずに政宗に欺かれたように記してある。成程氏郷の兵卒等は知らなかったろうが、氏郷が知らなかったろうとは思えぬ。縮みかえって居た小田原を天下の軍勢と共に攻めた時にさえ、忍びの者を出して置いて、五月三日の夜の城中からの夜討を知って、使番を以て陣中へ夜討が来るぞと触れ知らせた程に用意を怠らぬ氏郷である。まして未だかつて知らぬ敵地へ踏込む戦、ことに腹の中の黒白こくびゃく不明な政宗を後へ置いて、三里五里の間も知らぬ如き不詮議の事で真黒闇まっくらやみの中へ盲目探りで進んで行かれるものでは無い。小田原の敵の夜討を知ったのは、氏郷の伊賀衆のかしら、忍びの上手じょうずと聞えし町野輪之丞という者で、毎夜毎夜忍びて敵城をうかがったとある。伊賀衆というのは伊賀侍、もしくは伊賀侍から出た忍びの術を習得した者共という義で、甲賀衆と云うのは江州甲賀の侍に本づく同様の義の語、そして転じては伊賀衆甲賀衆といえば忍びの術を知って偵察の任を帯びて居る者という意味に用いられたのである。日本語も満足に使えぬ者等が言葉の妄解妄用をはばからぬので、今では忍術は妖術ようじゅつのように思われているが、忍術は妖術では無い、潜行偵察の術である。戦乱の世に於て偵察は大必要であるから、伊賀衆甲賀衆が中々用いられ、伊賀流甲賀流などと武術の技としての名目も後には立つに至った。石川五右衛門は伊賀河内の間の石川村から出た忍術者だったまでだ。町野輪之丞は伊賀衆の頭とある、頭が有れば手足は無論有る。不知案内の地へ臨んで戦い、料簡りょうけん不明の政宗とともにするに、氏郷が此の輪之丞以下の伊賀衆をポカリと遊ばせて置いたりいたずらに卒伍そつごの間に編入して居ることの有り得る訳は無い。輪之丞以下は氏郷出発以前から秘命を受けて、妄談者流の口吻こうふんに従えばそれこそねずみになってあなからもぐり込んだり、蛇になって樹登りをしたりして、或者は政宗の営を窺い或者は一揆方の様子を探り、必死の大活躍をしたろうことは推察に余り有ることである。そして此等の者の報告によって、至って危い中から至って安らかな道を発見して、精神気魄きはくの充ち満ちた力足を踏みながら、忠三郎氏郷はかぶとの銀のなまずを悠然とおよがせたのだろう。それで無くて何で中新田城から幾里もへだたらぬところに在った名生の敵城を知らずに、十九日の朝に政宗を後にして出立しよう。城は騎馬武者の一隊では無い、突然に湧いて出るものでも何でもない。まして名生の城は木村の家来の川村隠岐守おきのかみが守って居たのを旧柳沢の城主柳沢隆綱が攻取って拠って居たのである。それだけの事実が氏郷の耳に入らぬ訳はない。
 氏郷は前隊からの名生攻の報を得ると、其の雄偉豪傑の本領を現わして、よし、分際知れた敵ぞ、瞬く間に其城乗取れ、気息いきかすな、と猛烈果決の命令を下した。そして一方五手組、六手組、七手組の後備にむかっては、おもしろいぞ、おもしろいぞ、名生の城攻むると聞かば必定政宗めが寄せて来うぞ、三段に陣を立てて静まりかえって待掛けよ、比類無き手柄する時は汝等に来たぞ、と励まし立てる。後備あとぞなえの三隊は手薬錬てぐすねひいて粛として、政宗来れかし、眼に物見せて呉れんと意気込む。先手は先手で、分際知れた敵ぞや、瞬く間に乗取れという猛烈の命令に、勇気既に小敵を一呑みにして、心頭の火は燃えてのぼる三千丈、迅雷の落掛るが如くに憤怒の勢すさまじく取って掛った。敵も流石さすがに土民ではない、柳沢隆綱等は、此処をこらえでは、と熱湯の玉の汗になって防ぎ戦った。然し蒲生勢の恐ろしい勢は敵のきもを奪った。外郭そとぐるわは既に乗取った。二の丸も乗取った。見る見る本丸へ攻め詰めた。上坂源之丞、西村左馬允、北川久八、三騎並んで大手口へ寄せたが、久八今年十七八歳、上坂西村を抜いて進む。さはせぬ者ぞと云う間もあらせず、敵を切伏せ首を取る。先んぜられたり、心外、と二人も駈入りて手痛く戦う。氏郷本陣の小姓馬廻りまで、ただ瞬く間におとせ、と手柄を競って揉立もみたつる。中にも氏郷が小小姓名古屋山三郎、生年十五歳、天下に名を得た若者だったが、白綾しらあや紅裏もみうら打ったる鎧下よろいした色々糸縅いろいろおどしの鎧、小梨打こなしうちかぶと猩々緋しょうじょうひの陣羽織して、手鑓てやりひっさげ、城内に駈入り鑓を合せ、目覚ましく働きて好き首を取ったのは、たけきばかりが生命いのちの武者共にも嘆賞の眼を見張らさせた。名古屋は尾州の出で、家の規模として振袖ふりそでの間に一高名してから袖をふさぐことに定まって居たとか云う。当時此戦の功を讃えて、鎗仕やりし鎗仕は多けれど名古屋山三は一の鎗、と世に謡われたということだが、まさこれ火裏かり蓮華れんげ、人のまなこを快うしたものであったろう。或は山三の先登は此の翌年、天正十九年九戸政実を攻めた時だともいうが、其時は氏郷のみでは無く、秀次、徳川、堀尾、浅野、伊達、井伊等大軍で攻めたのだから、何も氏郷が小小姓まで駈出させることは無かったろう。此の戦は瞬間に攻落すことを欲したから、北村、名古屋の輩までに力を出させたのである。それは兎もあれ角もあれ、敵も一生懸命に戦ったから、蒲生勢にも道家孫一、粟井六右衛門、町野新兵衛、田付理介等の勇士も戦死し、兵卒の討死手負も少くなかったが、遂に全く息もつかせず瞬く間に攻落してしまって、討取る首数六百八十余だったと云うから、城攻としては非常に短い時間の、随分激烈苛辣からつの戦であったに疑無い。
 政宗は謀った通りに氏郷を遣り過して先へ立たせて仕舞った。氏郷は名生の城へ引掛るに相違無い、と思った。そこで、いざ急ぎ打立てや者共と、同苗藤五郎成実、片倉小十郎景綱を先手にして、みに揉んで押寄せた。ところが氏郷の手配てくばりは行届いて居て、の三隊の後備は三段に備を立てて、静かなること林の如く、厳然として待設けて居た。すわや政宗寄するぞ、心得たり、手を出さば許すまじ、弾丸たま振舞わん、と鉄砲の火縄の火を吹いて居る勢だ。名生の城は既に落されてけむりが揚り、氏郷勢は皆城を後にして、政宗如何と観て居るのである。これを看て取った政宗は案に相違して、何様どうにも乗ろう潮が無い。仕方が無いから名生の左の野へ引取って、そこへ陣を取った。
 氏郷は名生の城へ入って之に拠った。政宗が来ぬ間に城を落して終ったから、小田山筑前と同じようにはならなかった。氏郷が名生の城を攻めるに手間取って居たならば、名生の城で相図の火を挙げる、其時宮沢、岩手山、古川、松山四ヶ処の城々より一揆いっき勢は繰出し、政宗と策応して氏郷勢を鏖殺おうさつし、氏郷武略つたなくて一揆の手にたおれたとすれば、木村父子は元来論ずるにも足らず、其後一揆共を剛、柔、水、火の手段にあしらえば、奥州は次第にたなごころの大きい者の手へ転げ込むのであった。然し名生の城は気息いきも吐けぬ間に落されて終って、相図の火を挙げるいとまなぞも無く、宮沢、岩手山等四ヶ処の城々の者共は、策応するも糸瓜へちまも無く、かえって氏郷の雄威に腰を抜かされて終った。
 政宗は氏郷へ使を立てた。名生を攻められ候わばそれがしへも一方仰付けられたく候いしに、かくては京都への聞えも如何と残念に候、と云うのであった。氏郷の返辞はアッサリとして妙を極めたものであった。此の敵城あることをばそれがしも存ぜず候間に、先手の者ども、はや攻落して候、と空嘯そらうそぶいて片付けて置いて、さてそれからが反対に政宗の言葉に棒を刺してこじって居る。京都への聞え、御心づかいにも及び申すまじく候、此の向うに宮沢とやらん申す敵城の候、それを攻められ候え、然るべく聞え候わむ、というのであった。政宗は違儀も出来ない。宮沢の城へ寄せたが、もとより政宗の兵力宮沢の城の攻潰せめつぶせぬことは無いに関らず、人目ばかりに鉄砲を打つ位の事しか為無しなかった。宮沢の城将岩崎隠岐は後に政宗に降った。
 明日は高清水をほふって終おうと氏郷は意をらした。名生の一戦は四方を震駭しんがいして、氏郷の頼むに足り又おそるるに足る雄将である事を誰にも思わせたろう。ことに政宗方に在って、一揆の方の様子をも知り、政宗の画策をも知っていた者に取っては、驚くべき人だと思わずには居られなかったろう。そこで政宗に心服して居る者はとに角、政宗に対してかねてからイヤ気を持って居た者は、政宗に付いて居るよりも氏郷に随身した方がが行末も頼もしい、と思うに至るのも不思議では無い。ここに政宗に取っては厄介の者が出て来た。それは政宗の臣の須田伯耆ほうきという者で、伯耆の父の大膳という者は政宗の父輝宗の臣であった。輝宗が二本松義継に殺された時、後藤基信が殉死しようとしたのを政宗は制した位で、政宗は殉死を忌嫌ったけれど、其基信も須田大膳も、馬場右衛門という人も遂に殉死して終った。殉死の是非は別として、不忠の心から追腹は切られぬ。大膳の殉死は輝宗に対する忠誠に出でたのだ。ところが殉死を忌嫌う政宗の意は非とすべきでは無いが、殉死を忌む余りに殉死した者をもにくんだ。で、大膳は狂者のようにわれ、大膳の子たる伯耆まで冷遇さるるに至った。父が忠誠で殉死したのである、其子は優遇されなくても普通には取扱われても然るべきだが、主人の意にそむいたと云うかどであろう、伯耆は自ら不遇であることを感じたから、何につけにつけ、日頃不快に思っていた。これも亦凡人である以上は人情のまさに然るべきところだ。氏郷の大将振り、政宗の処置ぶり、自分が到底政宗に容れられないで行末の頼もしからぬことなどを思うと、今にして政宗を去って氏郷に附いた方が賢いと思った。丁度其家を思わぬでは無い良妻も、夫の愛を到底得ぬと思うと、誘う水に引かれて横にそれたりなぞするのと同じことである。人情といい世態という者は扨々なさけ無いものだ。大忠臣の子は不忠者になって政宗に負いたのである。
 そこで其十九日の夜深よふかに須田伯耆は他の一人と共に逃げ込んで来て、蒲生源左衛門を頼んだ。ただ来たところで容れられる訳は無いから、飛んでもない手土産を持って来た。それは政宗と一揆方との通謀の証拠になる数通の文書であった。逃げて来た二人の名は蒲生方の記には山戸田八兵衛、牛越宗兵衛とある。須田は政宗が米沢を去った後に氏郷の方へ来て、政宗の秘をあばいた者となって居る。
 蒲生源左衛門は須田等をきゅうした。二人は証拠文書をって来たのだから、それに合せて逐一に述立てた。大崎と伊達との関係、大崎義隆の家は最上義光を宗家としていること、最上家は政宗の母の家であること、母と政宗とは不和の事、政宗が大崎を図った事、そんな事をも語ったろうが、それよりは先ず差当って、一揆を勧めたこと、黒川に於ての企の事、中新田にて虚病の事、名生の城へ氏郷を釣寄せる事、四城とはかりごとを合せて氏郷を殺し、一揆の手に打死を遂げたることにせんとしたる事、政宗方に名生の城の落武者来りて、余りに厳しく攻められて相図合期ごうごせざりしと語れる事等を訐き立てた。そして其上に、高清水に籠城ろうじょうして居る者も、亦佐沼の城を囲んで居る者も、皆政宗の指図に因って実は働いて居る者であることを語り、く政宗が様子を御見留めなされて後に御働きなさるべしと云った。
 二人が言は悉皆しっかい信ずべきか何様どうかは疑わしかったろう。然し氏郷は証拠とすべきところの物を取って、且二人を収容して生証拠とした。もうなまじいに働き出すことは敵に乗ずべきの機を与えるに過ぎぬ。木村父子を一揆いっきが殺す必要も無く政宗が殺す必要も無いことは明らかだから、焦慮する要は無い。かえって此城に動かずに居れば政宗も手を出しようは無い、と高清水攻を敢てせずに政宗の様子のみに注意した。伊賀衆はしきりに働いたことだろう。
 氏郷は兵粮ひょうろうを徴発し、武具を補足して名生に拠るの道を講じた。急使は会津へせ、会津からは弾薬を送って来た。政宗は氏郷が動かぬのを見て何とも仕難かった。自分に有理有利な口実があって、そして必勝鏖殺おうさつが期せるので無ければ、氏郷に対して公然と手を出すのは、勝っても負けても吾身わがみの破滅であるから為すすべは無かった。須田伯耆が駈込んだことは分って居るが、氏郷の方からは知らぬ顔でいる。そこで十二月二日まで居たが、氏郷は微動だに為さぬので、事皆成らずと見切って、引取って帰ってしまった。勿論氏郷の居る名生の城の前は通らず、断りもしなかったが、氏郷が此を知って黙して居たのであることも勿論である。もう氏郷は秀吉に対して尽すべき任務を予期以上の立派さを以て遂げているのである。佐々成政にはならなかったのである。一揆等は氏郷に対して十分おそれ縮んで居り、一揆の一雄将たる黒沢豊前守という者は、吾子を名生の城へ人質に取られて居るのを悲んで、佐沼の城から木村父子を名生に送り届けるから交換して欲しいと請求めたので、之を諾して其翌月二十六日、其交換を了したのである。豊前守の子は後に黒沢六蔵と云って氏郷の臣となった。

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