黒島傳治全集 第一巻 |
筑摩書房 |
1970(昭和45)年4月30日 |
1970(昭和45)年4月30日第1刷 |
一
為吉とおしかとが待ちに待っていた四カ年がたった。それで、一人息子の清三は高等商業を卒業する筈だった。両人は息子の学資に、僅かばかりの財産をいれあげ、苦労のあるだけを尽していた。ところが、卒業まぎわになって、清三は高商が大学に昇格したのでもう一年在学して学士になりたいと手紙で云ってきた。またしても、おしかの愚痴が繰り返された。 「うらア始めから、尋常を上ったら、もうそれより上へはやらん云うのに、お前が無理にやるせにこんなことになったんじゃ。どうもこうもならん!」 それは二月の半ば頃だった。谷間を吹きおろしてくる嵐は寒かった。薪を節約して、囲爐裏も焚かずに夜なべをしながら、おしかは夫の為吉をなじった。 おしかは、人間は学問をすると健康を害するというような固陋な考えを持っていた。清三が小学を卒業した時、身体が第一だから中学へなどやらずに、百姓をさして一家を立てさせようと主張した。しかし為吉は、これからさき、五六反の田畑を持った百姓では到底食って行けないのを見てとっていた。二十年ばかり前にはそうでもなかったが、近年になるに従って百姓の暮しは苦るしくなっていた。諸物価は益々騰貴するにもかゝわらず、農作物はその割に上らなかった。出来ることならば息子に百姓などさせたくなかった。ちっと学問をさせてもいゝと思っていた。 清三は頻りに中学へ行きたがった。そして、ついにおしかには無断で、二里ばかり向うの町へ入学試験を受けに行った。合格すると無理やりに通学しだした。彼は、成績がよかった。 中学を出ると、再び殆んど無断で、高商へ学校からの推薦で入学してしまった。おしかは愚痴をこぼしたが、親の云いつけに従わぬからと云って、息子を放って置く訳にも行かなかった。他にかけかえのない息子である。何れ老後の厄介を見て貰わねばならない一人息子である。 ところが、またまた、一年よけいに在学しようと云ってきているのだった。預金はとっくの昔に使いつくし、田畑は殆ど借金の抵当に入っていた。こんなことになったのも、結局、為吉がはじめ息子を学校へやりたいような口吻をもらしたせいであるように、おしかは云い立てゝ夫をなじった。 「まあそんなに云うない。今にあれが銭を儲けるようになったら、借金を返えしてくれるし、うら等も楽が出来るわい。」為吉はそう云って縄を綯いつゞけた。 「そんなことがあてになるもんか!」 「健やんが云よったが、今日び景気がえいせに高等商業を出たらえらい銭がとれるんじゃとい。」 彼等は、ランプの芯を下げて、灯を小さくやっとあたりが見分けられる位いにして仕事をした。それでも一升買ってきた石油はすぐなくなった。夜なべ最中に、よくランプがジジジジと音たて、やがて消えて行った。 「えゝいくそ! 消えやがった。」おしかはランプにまで腹立てゝいるようにそう云った。 「もう石油はないんか!」 「あるもんら! 貧乏したら石油まで早よ無うなる。」おしかはごつ/\云った。 「そんなか、カワラケを持って来い。」 「ヘイ、ヘイ。」おしかは神棚から土器をおろして、種油を注ぎ燈心に火をともした。 両人はその灯を頼りに、またしばらく夜なべをつゞけた。 と、台所の方で何かごと/\いわす音がした。 「こりゃ、くそッ!」おしかはうしろへ振り向いた。暗闇の中に、黄色の玉が二つ光っていた。猫が見つけられて当惑そうにないた。それは、鼻先きで飯櫃の蓋を突き落しかけていた家無し猫だった。寒さに、おしかが大儀がって追いに行かずにいると猫は再び蓋をごとごと動かした。 「くそっ! 飯を喰いに来やがった!」おしかは云って追っかけた。猫は人が来るのを見ると、急に土間にとびおりて床の下に這いこんだ。そして、何か求めるようにないた。 おしかは、お櫃の蓋に重しの石を置いて、つゞくった薄い坐蒲団の上に戻った。やがて、猫は床の下から這い出て、台所をうろ/\ほっつきまわった。食い物がないのを知ると、竈の傍へ行って、ペチャ/\やりだした。 「くそッ!」おしかはまた立って行った。「おどれが味噌汁が鍋に茶碗一杯ほど残っとったんをなめよりくさる!」 「味噌汁一杯位いやれい。」 「癖になる! この頃は屋根がめげたって、壁が落ちたって放うたらかしじゃせに、壁の穴から猫が這い入って来るんじゃ。」 こんなことを云うにつけても、おしかは、清三に学資がいるがために、家の修繕も出来ないのだということを腹に持っていた。 「もう今日きりやめさせて了えやえい」と彼女は同じことを繰り返した。「うらが始めからやらん云うのに、お前が何んにも考えなしにやりかけるせに、こんなことになるんじゃ。また、えいことにして一年せんど行くやこし云い出して……親の苦労はこっちから先も思いやせんとから!」 「うっかり途中でやめさしたら、どっちつかずの生れ半着で、これまで折角銭を入れたんが何んにもなるまい。」 「そんじゃ、お前一人で働いてやんなされ! うらあもう五十すぎにもなって、夜も昼も働くんはご免じゃ。」 「お、うら独りで夜なべするがな。われゃ、眠むたけれゃ寝イ。」為吉はどこまでも落ちついて忍耐強かった。朝早くから、晩におそくまで田畑で働き、夜は、欠かさず夜なべをした。一銭でも借金を少くしたかったのである。 おしかはぶつ/\云い乍らも、為吉が夜なべをつゞけていると、それを放っておいて寝るようなこともしなかった。 戸外には、谷間の嵐が団栗の落葉を吹き散らしていた。戸や壁の隙間から冷い風が吹きこんできた。両人は十二時近くになって、やっと仕事をよした。 猫は、彼等が寝た後まで土間や、床の下やでうろ/\していた。追っても追っても外へ出て行かなかった。これでも屋内の方が暖いらしい。……大方眠りつこうとしていると、不意に土間の隅に設けてある鶏舎のミノルカがコツコツコと騒ぎだした。 「おどれが、鶏をねらいよるんじゃ。」おしかは寝衣のまま起きてマッチをすった。「壁が落ちたんを直さんせにどうならん!」
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