三
――汽車を待っている間に、屋島が云った。 「君等は結局馬鹿なんだよ。――早く帰ろうと思えや、俺のようにやれ。誰だって、自分の下に使うのに、おとなしい羊のような人間を置いときたいのはあたりまえじゃないか――だが、一年や二年、シベリアにいたっていなくったって、長い一生から見りゃ同じこった。ま、気をつけてやれい。」 それをきいていた吉田も、小村も元気がなかった。 同年兵達は、既に内地へ帰ってから、何をするか、入営前にいた娘は今頃どうしているだろう? 誰れが出迎えに来ているだろう? ついさき頃まで熱心に通っていた女郎のことなど、けろりと忘れてしまって、そんなことを頻りに話していた。 「俺れゃ、家へ帰ったら、早速、嚊を貰うんだ。」シベリアへ志願をして来た福田も、今は内地へ帰るのを急いでいた。 「露西亜語なんか分らなくったっていゝや、――親爺のあとを継いで行きゃ、食いっぱぐれはないんだ、いつなんどきパルチザンにやられるかも知れないシベリアなんぞ、もうあき/\しちゃった。」 二人だけは帰って行く者の仲間から除外されて、待合室の隅の方で小さくなっていた。二人は、もと/\よく気が合ってる同志ではなかった。小村は内気で、他人から云われたことは、きっとするが、物事を積極的にやって行くたちではなかった。吉田は出しゃばりだった。だが人がよかったので、自分が出しゃばって物事に容喙して、結局は、自分がそれを引き受けてせねばならぬことになってしまっていた。二人が一緒にいると、いつも吉田が、自分の思うように事をきめた。彼が大人顔をしていた。それが小村には内心、気に喰わなかった。しかし、今では、お互いに、二人だけは仲よくして行かなければならないことを感じていた。気に入らないことがあっても、それを怺えなければならないと思っていた。同年兵は二人だけであった。これからさき、一年間、お互いに助け合って生きて行かなければならなかった。 「じゃ、わざ/\見送ってくれて、有がとう。」 汽車が来ると、帰る者たちは、珍らしい土産ものをつめこんだ背嚢を手にさげて、われさきに列車の中へ割込んで行った。そこで彼等は自分の座席を取って、防寒帽を脱ぎ、硝子窓の中から顔を見せた。 そこには、線路から一段高くなったプラットフォームはなかった。二人は、線路の間に立って、大きな列車を見上げた。窓の中から、帰る者がそれ/″\笑って何か云っていた。だが、二人は、それに答えて笑おうとすると、何故か頬がヒン曲って泣けそうになって来た。 二人は、そういう顔を見られたくなかったので、黙ってむっつりしていた。 ……汽車が動き出した。 窓からのぞいていた顔はすぐ引っ込んでしまった。 二人は、今まで押し怺えていた泣けそうなものが、一時に顔面に溢れて来るのをどうすることも出来なかった。…… 「おい、病院へ帰ろう。」 吉田が云った。 「うむ。」 小村の声はめそ/\していた。それに反撥するように、吉田は、 「あの橋のところまで馳せっくらべしよう。」 「うむ。」小村は相変らずの声を出した。 「さあ、一、二、三ン!」 吉田がさきになって、二人は、一町ほど走ったが、橋にまで、まだ半分も行かないうちに、気ぬけがしてやめてしまった。 二人は重い足を引きずって病院へ帰った。 五六日間、すべての勤務を二年兵にまかせきって、兵舎でぐう/\寝ていた。
四
「おい、兎狩りに行こうか。」 こう云ったのは吉田であった。 「このあたりに、一体、兎がいるんかい。」 小村は鼻の上まで毛布をかぶって寝ていた。 「居るんだ。……そら、つい、そこにちょか/\してるんだ。」 吉田は窓の外を指さした。彼は、さっきから、腹這いになって、二重硝子の窓から、向うの丘の方を見ていたのであった。丘は起伏して、ずっと彼方の山にまで連なっていた。丘には処々草叢があり、灌木の群があり、小石を一箇所へ寄せ集めた堆があった。それらは、今、雪に蔽われて、一面に白く見境いがつかなくなっていた。 なんでも兎は、草叢があったあたりからちょか/\走り出して来ては、雪の中へ消え、暫らくすると、また、他の場所からちょか/\と出て来た。その大きな耳がまず第一に眼についた。でも、よほど気をつけていないと雪のようで見分けがつかなかった。 「そら、出て来た。」吉田が小声で叫んだ。「ぴん/\はねてるんだ。」 「どれ?……」小村は、のっそり起上って窓のところに来た。「見えやしないじゃないか。」 「よく見ろ、はねてるんだ。……そら、あの石を積み重ねてある方へ走ってるんだ。長い耳が見えるだろう。」 二人とも、寝ることにはあきていた。とは云え、勤務は阿呆らしくって、真面目にやる気になれなかった。帰還した同年兵は、今頃、敦賀へついているだろうか。すぐ満期になって家へ帰れるのだ! 二人はそんなことばかりを思っていた。シベリアへ来るため、乗船した前夜、敦賀で一泊した。その晩のことを思い出したりした。その港町がなつかしく如何にもかゞやかしく思い出された。何年間、海を見ないことか! 二人は、シベリアへ来てから、もう三年以上、いや五年にもなるような気がしていた。どうしてシベリアへ兵隊をよこして頑張ったりする必要があるのだろう。兵卒は、露西亜人を殺したり、露西亜人に殺されたりしているのである。シベリアへ兵隊を出すことさえ始めなければ、自分達だって、三年兵にもなって、こんなところに引き止められていやしないのだ。 二人は、これまで、あまりに真面目で、おとなしかった自分達のことを悔いていた。出たらめに、勝手気まゝに振るまってやらなければ損だ。これからさき、一年間を、自分の好きなようにして暮してやろう。そう考えていた。 ――吉田は、防寒服を着け、弾丸を込めた銃を握って兵舎から走り出た。 「おい、兎をうつのに実弾を使ってもいゝのかい。」 小村も、吉田がするように、防寒具を着けながら、危ぶんだ。 「かまうもんか!」 「ブ(上等看護長のこと)が怒りゃせんかしら……」 銃と実弾とは病院にも配給されていたが、それは、非常時以外には使うことを禁ぜられていた。非常時というのは、つまり、敵の襲撃を受けたような場合を指すのであった。 吉田はかまわず出て行った。小村も、あとでなんとかなる、――そんな気がして、同様に銃を持って吉田のあとからついて行った。 吉田は院庭の柵をとび越して二三十歩行くなり、立止まって引金を引いた。 彼は内地でたび/\鹿狩に行ったことがあった。猟銃をうつことにはなれていた。歩兵銃で射的をうつには、落ちついて、ゆっくりねらいをきめてから発射するのだが、猟にはそういう暇がなかった。相手が命がけで逃走している動物である。突差にねらいをきめて、うたなければならない。彼は、銃を掌の上にのせるとすぐ発射することになれていた――それで十分的中していた。 戦闘の時と同じような銃声がしたかと思うと、兎は一間ほどの高さに、空に弧を描いて向うへとんだ。たしかに手ごたえがあった。 「やった! やった!」 吉田は、銃をさげ、うしろの小村に一寸目くばせして、前へ馳せて行った。 そこには、兎が臓腑を出し、雪を血に紅く染めて小児のように横たわっていた。 「俺だってうてるよ。どっか、もう一つ出て来ないかな。」 小村が負けぬ気を出した。 「居るよ、二三匹も見えていたんだ。」 二人は、丘を登り、谷へ下り、それから次の丘へ登って行った。途中の土地が少し窪んだところに灌木の群があった。二人がバリ/\雪を踏んでそこへかかるなり、すぐそのさきの根本から耳の長いやつがとび出した。さきにそれを見つけたのは吉田であった。 「おい、俺にうたせよ――おい!……」 小村は友の持ち上げた銃を制した。 「うまくやれるかい。」 「やるとも。」 小村は、ねらいをきめるのに、吉田より手間どった。でも弾丸は誤たなかった。 兎は、また二三間、宙をとんで倒れてしまった。
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