二
圧搾空気の鉄管にくゝりつけた電球が薄ぼんやりと漆黒の坑内を照している。 地下八百尺の坑道を占領している湿っぽい闇は、あらゆる光を吸い尽した。電燈から五六歩離れると、もう、全く、何物も見分けられない。土と、かびの臭いに満ちた空気の流動がかすかに分る。鉱車は、地底に這っている二本のレールを伝って、きし/\軋りながら移動した。 窮屈な坑道の荒い岩の肌から水滴がしたゝり落ちている。市三は、刀で斬られるように頸すじを脅かされつゝ奥へ進んだ。彼は親爺に代って運搬夫になった。そして、細い、たゆむような腕で鉱車を押した。 八番坑のその奥には、土鼠のように、地底をなお奥深く掘進んでいる井村がいた。圧搾空気で廻転する鑿岩機のブルブルッという爆音が遠くからかすかにひゞいて来る。その手前には、モンペイをはき、髪をくる/\巻きにした女達が掘りおこされた鉱石を合品で、片口へかきこみ、両脚を踏ンばって、鉱車へ投げこんでいた。乳のあたり、腰から太股のあたりが、カンテラの魔のような仄かな光に揺れて闇の中に浮び上っている。 そこには、女房や、娘や、婆さんがいた。市三より、三ツ年上のタエという娘もいた。 タエは、鉱車が軽いように、わざと少ししか鉱石を入れなかった。 「もっと入れても大丈夫だ。」 「そんな、やせがまんは張らんもんよ。」 「それ/\動かんじゃないの。」 そして、鉱車を脇から突っぱって手ごをした。 鉱車は百三十貫ばかりの重量がある。手のさきや、肩で一寸押したぐらいではびくともしない。全身の力をこめて、うんと枕木を踏んばり、それで前へ押さなきゃならない。しかも力をゆるめるとすぐ止る。で、端から端まで、――女達のいるところから、ケージのおりて来るところまで、――枕木を踏んばり通さなきゃならなかった。 彼は、まだ十五歳だった。時々、こんな、子供のなりをして働いている自分をいとおしく思った。涙ぐんだ。親爺は六番坑で竪坑から落ちて来た坑木に脚をやられた。そして、三本脚の松ツァンと呼ばれる不具者になってしまった。 「俺ら、トロ押せねえだ。」市三は、坑内へおりて来るまで、自分の細い腕を危ぶんだ。 「……。」親爺は、燻った四畳半で、足のない脚だけ布団にかくして、悲しげな顔をしていた。 「トロ、なか/\重いだろう。」 「誰れも働く者がなきゃ、お芳さんのようにこの長屋を追い出されるんだ。追い出されたら、ドコへ行くべ。」 息子は、親爺の眼に光ったものを見た。 ――米も安いし、雑用もかゝらねえし、それに家賃は只だから、これで東京あたりの一円五十銭も二円もにかけ合うべ。―― 僅か七十銭の賃銀を、親じはこんな考え方で慰めていた。その只の長屋も、家に働く者がなくなれば追い立てをくうのだ。 市三は、どれだけ、うら/\と太陽が照っている坑外で寝ころんだり、はねまわったりしたいと思ったかしれない。金を出さずに只でいくらでも得られる太陽の光さえ、彼は、滅多に見たことがなかった。太陽の値打は、坑内へ這入って、始めて、それにどれだけの値打があるか分ってきた。今は、蟻のような孔だらけの巨大な山の底にいる。昇降機がおりて来る竪坑を中心にして、地下百尺ごとに、横坑を穿ち、四百尺から五百尺、六百尺、七百尺とだん/\下へ下へ鉱脈を掘りつくし、現在、八百尺の地底で作業をつゞけている。坑外へ出るだけでも、八百尺をケージで昇り、――それは三越の六倍半だ――それから一町の広い横坑を歩かねばならない。 井村は女達の奥で鑿岩機を操っていた。タガネが、岩の肌にめりこんで孔を穿って行くに従って、石の粉末が、空気に吹き出されて、そこら中いっぱいにほこりが立った。井村は鼻から口を手拭いでしばり、眼鏡をかけていた。黄色ッぽい長い湿った石のほこりは、長くのばした髪や、眉、まつげにいっぱいまぶれついていた。 汚れた一枚のシャツの背には、地図のように汗がにじんでいた。そして、その地図の区域は次第に拡大した。 「さ、這入ったよ。」 タエは、鉱車を押し出す手ごをした。 それは六分目ほどしか這入っていなかった。市三は、枕木を踏んばりだした。背後には、井村が、薄暗いカンテラの光の中に鑿岩機をはずし、ハッパ袋をあけていた。 井村は、飴ン棒のようなハッパを横にくわえ、ミチビを雷管にさしこむと、それをくわえているハッパにさしこんだ。 「おい、おい、女ゴ衆、ドンと行くぞ。」 「タエの尻さ、大穴もう一ツあけるべ。」 婆さんがうしろで冷かしていた。 市三は、岩の破れ目から水滴が雨だれのようにしたゝっているところを全力で通りぬけた。 あとから女達が闇の中を早足に追いついて来た。暫らく、市三の脇から鉱車を押す手ごをしたが、やがて、左側の支坑へそれてしまった。 竪坑の電球が、茶色に薄ぼんやりと、向うに見えた。そして、四五人の人声が伝って来た。 「誰れだい、たったこれっぽちしか入れてねえんは。」市三が、さきに押して来てあった鉱車を指さして、役員の阿見が、まつ毛の濃い奥目で、そこら中を睨めまわしていた。「いくら少ないとてケージは、やっぱし一ツ分占領するんだぞ。」 ほかの者は、互いに顔を見合っていた。市三は、さきの鉱車よりも、もっと這入り方が少ない今度のやつを役員の眼前にさらすのは、罪をあばかれるように辛かった。鉱車ごと、あとへ引っかえしたかった。しかし、うしろからは、導火線に点火し終った井村がカンテラをさげ、早足に、しかもゆったりとやって来た。――そのカンテラがチラ/\見えた。それは、途中で、支坑へそれた。 市三は、ケージから四五間も手前で鉱車を止めた。そして、きまり悪るげにおど/\していた。 「あンちき生、課長や、山長さんにゃおべっかばっかしこけやがって!」 阿見がケージをたゞ一人で占領して上へあがると、びっこの爺さんが笑い出した。 市三は、罪人のようにいつまでも暗いところで小さく悄げこんでいた。 「何だい、おじ/\すんなよ。」 「うむ。」 「あいつはえらばってみたいんだ。何だい、あんな奴が。」 髪がのびると特別じゝむさく見える柴田が、弟をすかすように、市三の肩に手を持って来た。 「あン畜生、一つ斜坑にでも叩きこんでやるか!」十番坑の入口の暗いところから、たび/\の憤怒を押えつけて来たらしい声がした。 「そうだ、そうだ、やれ/\。」 その時、奥の方で、ハッパが連続的に爆発する物凄い音響が轟いた。砕かれた岩が、ついそこらへまで飛んで来るけはいがした。押し出される空気が、サッと速力のある風になって流れ出た。つゞいて、煙硝くさい、煙のたまが、渦を捲いて濛々と湧き出て来た。
三
井村は、タエに、眼で合図をして、何気ない風に九番坑に這入った。 「いイ、いイ。」 彼女の黒い眼は答えていた。 ハッパが爆発したあと、彼等は、煙が大方出てしまうまで一時間ほど、ほかで待たなければならない。九番坑の途中に、斜坑が上に這い上って七百尺の横坑に通じている。彼は、突き出た岩で頭を打たないように用心しながら、その斜坑を這い上った。はげしい湿気とかびの臭いが一層強く鼻を刺した。所々、岩に緑青がふいている。そして、岩は、手を触れると、もろく、ポロ/\ところげ落ちた。三十度以上の急な斜坑を、落ちた岩は、左右にぶつかりながら、下へころころころげて行った。 七百尺に上ると、それから、一寸竪坑の方によって、又、上に行く斜坑がある。井村は又、それを這い上った。蜘蛛の糸が、髪をのばした頭にからみついた。汚れた作業衣は、岩の肌にじく/\湿った汚物でなお汚れた。彼は、こんな狭い坑道を這いまわっている時、自分が、本当に、土鼠の雄であると感じた。タエは、土鼠の雌だ。彼等は土の中で密会する土鼠の雄と雌だった。 彼は、社会でうろ/\した末、やっぱし俺等のような士鼠が食って行けるのはこの鉱山だけだ、どこをほっついたっていゝこたない、と思って帰って来た。 だが土鼠には、誰れの私有財産でもない太陽と澄んだ空気さえ皆目得られなかった。坑外では、製煉所の銅の煙が、一分間も絶えることなく、昼夜ぶっつゞけに谷間の空気を有毒瓦斯でかきまぜていた。坑内には、湿気とかびと、石の塵埃が渦を巻いていた。彼は、空気も、太陽も金だと思わずにはいられなかった。彼は、汽車の窓から見た湘南のうらゝかな別荘地を思い浮べた。金がない者は、きら/\した太陽も、清澄な空気も、それをむさぼり取ることが出来ない。彼は、これからさき、幾年、こんなところで土を掘りつゞけなけりゃならんか分らない。それを思うとうんざりした。しまいには、落盤にへしゃがれるか、蝕ばまれた樹が倒れるように坑夫病で倒れるか、でなければ、親爺のように、ダイナマイトで粉みじんにくだかれてしまうかだ。 彼等は、恋まで土鼠のような恋をした。土の中で雄が雌を追っかけた。土の中で雄と雌とがちゝくり合った。タエは、石をいじる仕事にも割合荒れない滑かな肌を持っていた。その肌の下にクリ/\張りきった肉があった。彼女は、かびくさい坑道を別な道から足音かるくやって来た。井村は、斜坑を上り切ったところに待っていた。彼は、タエが、そこへやって来るのを知っていた。その淀んだ空気は腐っていた。湿気とかびの臭いは、肺が腐りそうにひどかった。しかし、彼は、それを辛抱した。 彼女はやって来ると、彼の××××、尻尾を掴まれて、さかさまにブラさげられた鼠のようにはねまわった。なま樹の切り口のような彼女の匂いは、かびも湿気も、腐った空気をも消してしまった。彼は、そんな気がした。唇までまッ白い、不健康な娘が多い鉱山で、彼女は、全然、鉱毒の及ばない山の、みず/\しい青い樹のようだった。いつか、前に、鑿岩機をあてがっている時、井村は、坑内を見まわりに来た技師の眼が、貪慾げにこの若い力のはりきった娘の上に注がれているのを発見した。 技師は、ひげもじゃの大きな顎を持っていた。そして学校に上る子供があった。しかし、その眼は、鉱脈よりも、娘々したタエに喰い入るように注がれていた。ひげもじゃの顎と、上唇をあつかましい笑いにほころばせながら。 「これゃ、この娘も、すぐ、あのひげの顎に喰われるぞ。」 井村は、何故となく考えた。それから、彼のむほん気が、むら/\と動いて来た。それまでは、彼はたゞ一本のみずみずしい青葉をつけた樹を見るように彼女を見ていたゞけだった。まもなく彼は、話があるから廃坑へ行かないかと、彼女に切出した。 「なアに?」 彼女は、あどけない顔をしていた。 「話だよ。お前をかっさらって、又、夜ぬけをしようってんだ。」 ほかの者の手前彼は、冗談化した。 「いやだよ。つまんない。」 スボ/\していた。 しかし、昼食の後、タエは、女達の休んでいるカタマリの中にいなかった。彼は、それを見つけた。急に心臓がドキドキ鳴りだした。彼は、それを押えながら、石がボロボロころげて来る斜坑を這い上った。 六百尺の、エジプトのスフィンクスの洞窟のような廃坑に、彼女は幽霊のように白い顔で立っていた。 彼は、差し出したカンテラが、彼女にぶつかりそうになって、始めてそれに気がついた。水のしずくが、足もとにポツ/\落ちていた。カンテラの火がハタ/\ゆれた。 彼は、恋のへちまのと、べちゃくちゃ喋るのが面倒だった。カンテラを突き出た岩に引っかけると、いきなり無言で、彼女をたくましい腕×××××。 「話ってなアに?」 「これがあの、ひげのあいつに喰われようとしとった、その女だ!」 カンテラに薄く照し出された女の顔をま近に見ながら彼は考えた。そして腕に力を入れた。女のあつい息が、顔にかゝった。 「つまんない!」彼女はそんな眼をした。 しかし、敏捷に、割に小さい、土のついた両手を拡げると、彼の頸×××××いた。 「タエ!」 彼は、たゞ一言云ったゞけだ。つる/\した、卵のぬき身のような肌を、井村は自分の皮膚に感じた。 それから、彼等は、たび/\別々な道から六百尺へ這い上って行きだした。ある時は、井村がケージの脇の梯子を伝って這い上った。ある時は、五百尺の暗い、冷々とする坑道を示し合して丸太の柵をくゞりぬけた。 彼は、彼女をねらっているのが、技師の石川だけじゃないのに気がついた。監督の阿見も、坂田も、遠藤も彼女をねらっていた。 「石川さん、お前におかしいだろう。」 井村は、口と口とを一寸位いの近くに合わしながら、そんなことを云ったりした。 「それはよく分っている。」 「阿見だって、遠藤だってそうだぞ。」 彼女は、平気に肯いた。 「もし追いつめられたらどうするんだい。」 「なんでもない。」タエは笑った。「そんなことしたら、あの奥さんとこへ行って、何もかも喋くりちらしてやるから。」
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