勇の説得
この離座敷へも、午後の春陽は射して来ていて、柱の影を、畳へ長く引いていた。 「板垣退助が参謀となり、岩倉具定を総督とし、土州、因州、薩州の兵三千、大砲二十門を引いて、東山道軍と称し、木曾路から諏訪へ這入り、甲府を襲い、甲府城代佐藤駿河守殿を征め、甲府城を乗取ろうとしているのじゃ。そこで我々新選組が、甲州鎮撫隊と名を改め、正式に幕府から任命され、駿河守殿を援け、甲府城を守る事になり、不日出発する事になったのじゃが……」 と、色浅黒く、眼小さく鋭く、口一倍大きく、少い髪を総髪に結んでいる勇は、部屋の半分以上も射込んでいる陽に、白袴、黒紋付羽織の姿を焙らせながら、一息に云って来たが、俄に口を噤んで、当惑したように総司を見た。 総司は、背後に積重ねてある夜具へ体をもたせかけ、焦心っている眼で、お力が持って来て、まだ瓶にも挿さず、縁側に置いてある椿の花を見たり、舞込んで来た蝶が、欄間の扁額の縁へ止まったのを見たりしていたが、 「先生、勿論、私も従軍するのでしょうな。何時出発なさるのです」 「君も行きたいだろうが、その体ではのう。……それで今度は辛抱して貰うことになっていて、それでわしが説得に来たという次第なのだが……ナニ、戦は今度ばかりでなく、これからもいくらもあるのだし、まして今度は戦は、味方が勝つにきまっておることではあり、だから君のような素晴らしい、剣道の天才の力を藉りずとも……尤、我々の力で、甲府城を守り通すことが出来たら、莫大な恩賞にあずかるという、有難い将軍家のご内意はあった。私や土方は、大名に取立てられることになっている。だから君も従軍したいだろうがいや……従軍しなくとも、従来の君の功績からすれば、矢張り一万石や二万石の大名には確になれるし、私からも推薦して、決して功を没するようなことはしない。 ……だから今度だけは断念してくれ。……それに、従軍しなくとも、君の名は、鎮撫隊の中へ加えておくのだから」 「いえ、先生、私は体は大丈夫なのです。……いえ、私は、決して、大名になりたいの、恩賞にあずかりたいのというのではありません。……私は、ただ、腕を揮ってみたいのです。……ですから何うぞ是非従軍を。……それに今度の相手は、随分手答えのある連中だと思いますので。……それに新選組の人数は尠し……そうです、先生、新選組は小人数の筈です。京都にいた頃は二百人以上もありました。それが鳥羽伏見二日の戦で、四十五人となり、江戸へ帰って来た現在では、僅か十九人……」 「いやいや」 と勇は忙しく手を振った。 「それがの、今度、松本先生のお骨折りで、隊土を募ったところ、二百人も集まって来た。いずれも誠忠な、剣道の達人ばかりだ。……それに、勝安房守様より下渡された五千両の軍用金で、銃器商大島屋善十郎から、鉄砲、大砲を買取り、鎮撫隊の隊士一同、一人のこらず所持しておる、大丈夫じゃ。……そればかりでなく、駿河守殿は、生粋の佐幕派、それに、城兵も多数居る。……人数にも兵器にも事欠かぬ。……だから君は充分ここで静養して……」 「先生、私の病気など何んでもないのです」 「それが然うでない。松本先生も仰せられた……」 「良順先生が……」 「そうだ、松本良順先生が仰せられたのだ。沖田だけは、従軍させては不可ないと」 「…………」 「松本先生には、君は、一方ならないお世話になった筈だ」 「現在もお世話になっております」 「柳営の御殿医として、一代の名医であるばかりでなく、豪傑で、大親分の資を備えられた松本先生が、然う仰せられるのだ。君も、これには反対することは出来まい」 「はい」 総司は黙って俯向いて了った。
思出の人
総司は、良順の介抱によって、今日生存えているといってもよいのであった。はじめ総司は、他の新選組の、負傷した隊士と一緒に、横浜の、ドイツ人経営の病院に入れられて、治療させられたのであったが、良順は 「沖田は、怪我ではなくて病気なのだから」 と云って、浅草今戸の、自分の邸へ連れて来て療治したが 「この病気(肺病)は、こんな空気の悪い、陽のあたらない下町の病室などで療治していたでは治らない」 と云い、この千駄ヶ谷の植甚の離れへ移し、薬は、自分の所から持たせてやり、時には、良順自身診察に来たりして、親切に手を尽くしているのであった。この良順に 「甲府への従軍は不可い」 と云われては、総司としては、義理としても人情としても、それに反くことは出来なかった。 総司が、従軍を断念したのを見ると、勇は流石に気毒そうに云った。 「その代り、わしが君の分まで、この刀で、土州の奴等や薩州の奴等を叩斬るよ」 と云い、刀屋から、虎徹だと云って買わせられた、その実、宗貞の刀の柄を叩いてみせた。すると総司は却って不安そうに云った。 「しかし先生、これからの戦いは、刀では駄目でございます。火器、飛道具でなければ。……先生は、負傷しておられて、鳥羽、伏見の戦いにお出にならなかったから、お解りにならないことと思いますが、官軍の……いいえ、薩長の奴等の精鋭な大砲や小銃に撃捲られ、募兵は……新選組の私たちは散々な目に……」
この夜、燈火の下で、総司とお力とは、しめやかに話していた。従軍を断念したからか、総司の態度は却って沈着き、容貌なども穏やかになっていた。 「妾、あなた様から、お隠匿していただきました晩、あなた様、眠りながら、お千代、たっしゃかえ、たっしゃでいておくれと仰有いましたが、お千代様とおっしゃるお方は?」 と、お力は何気無さそうに訊いた。 「そんな寝言、云いましたかな」 と総司は俄に赧い顔をしたが、 「京都にいた頃、懇意にした娘だが……町医者の娘で……」 「ただご懇意に?」 とお力は、揶揄するような口調でいい、その癖、色気を含んだ眼で、怨ずるように総司を見た。 総司は当惑したような、狼狽したような表情をしたが、 「ただ懇意にとは?……勿論……いや、併し、どう云ったらよいか……どっちみち、私は、これ迄に、一人の女しか知らないので」 お力は思わず吹出して了った。 「まあまあそのお若さで、一人しか女を。……でもお噂によれば、新選組の方々は、壬生におられた頃は、ずいぶんその方でも……」 「いや、それは、他の諸君は……わけても隊長の近藤殿などは……土方殿などになると、近藤殿以上で。……ただ私だけが、臆病だったので……」 「これ迄に、二百人もお斬りになったというお噂のある貴郎様が臆病……」 「いや、女にかけてはじゃ。人を斬る段になると私は強い!」 と、総司は、グッと肩を聳かした。痩せている肩ではあったが、聳かすと、さすがに殺気が迸った。 お力はヒヤリとしたようであったが、 「お千代さんという娘さんが、その一人の女の方なのでしょうね」 「左様」 と迂闊り云ったが、総司は、周章てて 「いや……」 「いや?」 「矢っ張り左様じゃ」 「よっぽど可い娘さんだったんでございましょうね」 「うん」 と、ここでも迂闊り正直に云い、又、周章てて取消そうとしたが、自棄のように大胆になり、 「初心で、情が濃やかで……」 「神様のようで……」 「うん。……いや……それ程でもないが……親切で……」 「そのお方、只今は?」 「切れて了った!」 こう云った総司の声は、本当に咽んでいた。 「切れて……まあ……でも……」 「近藤殿の命でのう」 「何時?」 「江戸への帰途。……紀州沖で……富士山艦で、書面に認め……」 「左様ならって……」 「うん」 「可哀そうに」 「大丈夫たる者が、一婦人の色香に迷ったでは、将来、大事を誤ると、近藤殿に云われたので」 「お千代様、さぞ泣いたでございましょうねえ。……いずれ、返書で、怨言を……」 「返書は無い」 「まあ、……何んとも?……それでは、女の方では、あなた様が想っている程には……」 「莫迦申せ!」 と、総司は、眼を怒らせて呶鳴った。 「お千代はそんな女ではない! お千代は、失望して、恋いこがれて、病気になっているのじゃ!……と、わしは思う。……病気になってのう」 総司は膝へ眼を落とし、しばらくは顔を上げなかった。部屋の中は静かで、何時の間に舞込んで来たものか、母指ほどの蛾が行燈の周囲を飛巡り、時々紙へあたる音が、音といえば音であった。総司は、まだ顔を上げなかった。お力は、その様子を見守りながら、(何んて初心な、何んて生一本な、それにしても、こんな人に、そう迄想われているお千代という娘は、どんな女であろう?……幸福な!)と思った。と共に、自分の心の奥へ、嫉妬の情の起こるのを、何うすることも出来なかった。
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