24[#「24」は縦中横]
その夜の明け方小堀義哉は、自分の屋敷へ帰って来た。そこで盗難の話を聞いた。これという物も盗まれなかったが、お錦から預かった不思議な手箱を、一つだけ盗まれたということを、小間使のお花から耳にした。 「ふうむそうか、ちょっと不思議だな」 義哉は小首を傾けた。「金も取らず衣類も盗まず、手箱を奪ったというのには、何か理由がなければならない」 しかし彼には解らなかった。 「お錦殿には気の毒だが、打ち明けるより仕方あるまい」 で、お錦の来るのを待った。しかし翌日も翌々日も、お錦の姿は見えなかった。 「ああいう事件があった後だ、多少体を痛めたのかもしれない」 無理もないことだと思うのであった。 その翌日のことであったが、一日暇を戴きたいと、小間使いのお花が云い出した。 「ああいいとも、暇を上げよう。親元へでも帰るのかな」 「はい、あの神田の兄の許へ」 「おおその神田の兄さんとやらは、お上のご用を聞いているそうだな」 「はい、さようでございます」 「ゆっくり遊んで来るがよい」 「はい、それでは夕景まで」 小さい風呂敷の包を抱き、小間使のお花は屋敷を出た。 神田小川町の奥まった露路に、岡引の友蔵の住居があった。荒い格子には春昼の陽が、鮮に黄色くあたっていた。 「嫂さんこんにちわ」と云いながら、お花は門の格子をあけた。 「おやお花さん、よく来たね」声と一緒にあらわれたのは、友蔵の家内のお巻であった。三十前後の仇っぽい女で、茶屋上りとは一眼で知れた。 「これはお土産、つまらない物よ」 「よせばよいのに、お気の毒ねえ」 「それはそうと兄さんはいて。妾ちょっと用があるのよ」 「おお、お花か、何だ何だ」 これは友蔵の声であった。 友蔵は茶の間の長火鉢の前で、湯呑で昼酒を飲んでいた。四十がらみの大男で、凶悪の人相の持主であった。下っ引の手合も今日はいず、一人いい気持に酔っていた。 朝風呂丹前長火鉢、これがこの手合の理想である。しかし岡っ引の手あてといえば、一月一分か一分二朱であった。それでは小使にも足りなかった。その上岡っ引は部下として、下っ引を使わなければならなかった。その手あてはどこからも出ない。自分が出さなければならなかった。そこで勢い岡っ引は他に副業を求めるか、ないしは地道の町人をいたぶり、賄賂を取らなければ食って行けなかった。 ところで友蔵には副業がなかった。そこで町人を嚇しては、収賄をして生活ていた。 「兄さん」とお花は茶の間へ入ると、風呂敷包をサラリと解いた。「見て貰いたいものがありますのよ。この手箱なの、どう思って?」 伊丹屋のお錦が「爺つあん」から貰い、小堀義哉に預けた所の、例の手箱を取り上げた。 「変哲もねえ杉の箱じゃあねえか、これが一体どうしたんだい?」友蔵は手箱を取り上げた。 「何でもないのよ、見掛けはね。でもちょっと変なのよ」 お花はそこで説明した。 先夜小堀義哉の家へ、変な泥棒が入ったこと、金も衣類も持って行かずに、この箱ばかり狙ったこと、そこで策略を巡らして、泥棒に贋物を握らせた事、そうして本物は窃りと、自分が隠して置いた事、義哉へ箱を預けたのが、日本橋の大老舗、伊丹屋の娘だということなどを、細々と説明したのであった。 「ふうむ、そうかい、なるほどなあ。そう聞くとちょっと不思議だなあ。とんだ手蔓にぶつかるかもしれねえ。だが何にしても蓋をあけて、中味を拝見しなけりゃあ」 そこで錠前をコヂ開けようとした。しかし錠は開かなかった。 「こいつアいけねえ、千枚錠だ。どんなことをしても開くものじゃあねえ。千枚錠ときたひにゃあ、合鍵だって役に立たねえ。箱を潰すのはワケはねえが、中味が何だか解らねえからな、そいつもちょっと手控えだ。……ところで鍵はなかったのかい?」
25[#「25」は縦中横]
「ええ、それがなかったんですよ」 「探したらどこかにあるだろう。帰って窃り探して見な」 「そうねえ、それじゃ探してみよう」 永い春の日の暮れかかった頃、お花は屋敷へ帰って行った。
数日経ったある日のこと、駕籠に乗った伊丹屋のお錦が、義哉の屋敷へ訪れて来た。 その後やはり気分が悪く、今迄寝ていたということであった。 「これでございますの、手箱の鍵は」 お錦はこう云って鍵を出した。 義哉はそこで事情を話した。 「おや、マアさようでございましたか」お錦は意には介しなかった。元々気味の悪い老人から、偶然貰った手箱なのである。たいして惜しくも思わないのであった。それより彼女には義哉その人が、このもしくも愛しくも思われるのであった。 二人は尽きず話をした。 伊丹屋の養女だということや、許嫁が生地なしだということや、生活が退屈だということや、 ――お錦はそんなことを問わず語りに話した。 「妾、近々伊丹屋の家を、出てしまうかもしれませんの」 「あなたが伊丹屋のお家を出て、一人住みでもなされたら、江戸中の若い男達は、相場を狂わせるでございましょうよ。……そうして貴女は江戸中の女から、妬まれることでございましょうよ」 「お口の悪い何を仰有るやら。……でもきっと貴郎様は、おさげすみなさるでございましょうね。そうしてもうもうお屋敷へなど、お寄せ付けなされはしますまいね」 「どう致しまして私など、こっちから日参いたします」 「まあ嬉しゅうございますこと、嘘にもそう云っていただけると、どんなに心強いことでしょう」 塀外を金魚売が通って行った。そのふれ声が聞えてきた。それは初夏の訪れであった。 後庭には藤が咲きかけてい、池の畔の燕子花も、紫の蕾を破ろうとしていた。 すると、その時縁側の方から、微な衣擦れの音がした。 「お花か 」と義哉は気不味そうに云った。 「はい、お呼びかと存じまして」 「呼びはしない。向うへ行っておいで」 お花の立去る気勢がした。 鍵を義哉へ預けたまま、お錦も間もなく帰って行った。 その翌日の夕方であった。 神田小川町の友蔵の家へ、お花はとつかわと入って行った。 「兄さんこれなのよ[#「兄さんこれなのよ」は底本では「兄さんれこれなのよ」]、手箱の鍵は」こう云ってお花は鍵を出した。 お錦が義哉へ預けて行った、例の手箱の鍵であった。ちょっとの隙を窺って、それをお花が盗み出したのである。 「どれ」と云うと友蔵はお花の手から鍵を取った。それから立ち上って隣部屋へ行き、地袋から手箱を取り出して来た。 固唾を呑まざるを得なかった。何が箱から出るだろう? 高価な品物であろうかも知れぬ。それとも恐ろしい秘密だろうか? 友蔵は鍵を錠へかった。と、カチリと音がして、箱の蓋がポンと開いた。 一葉の地図が入れてあって、そうしてその他には何にも無かった。 「地図じゃないの、つまらない」 お花はガッカリして声を上げた。
26[#「26」は縦中横]
「そうでねえ」と友蔵は云った。彼は岡っ引という商売柄、こういうものには興味があった。そうして恐らくこの地図には、秘密があろうと考えた。 「うむ、こいつあ甲州の地図だ。……ははあ、こいつが釜無川だな。……おおここに記号がある」 釜無川の川岸に朱で二重丸が入れてあった。 で、友蔵は腕を組み、じっと何かを考え込んだ。
さてその翌日の早朝であったが、甲州街道を足早に、甲府の方へ下る者があった。他ならぬ岡っ引の友蔵で、厳重に旅の装いをしていた。 すると、その後から見え隠れに、一人の旅人が尾行けて行った。それを友蔵は知らないらしい。 道中三日を費やして、友蔵は甲府の城下へ着いた。 旅籠へ泊った友蔵は、両掛からこっそり地図を出し、あらためて仔細に調べ出した。 すると、隣室の間の襖が、あるかなしかに細目に開き、そこから鋭い眼が見覗いた。様子を窺っているのであった。 翌日早朝友蔵は、釜無の方へ出かけて行った。忍野郷を出外れるともう釜無の岸であった。土手に腰かけて一吹した。それから四辺を見廻したが、人の居るらしい気勢もなかった。用意して来た鍬を提げ地図を見い見い歩いて行ったのは、川の岸寄りの中洲であった。 彼は熱心に掘り出した。やがて何か鍬の先に、カチリとあたる音がした。どうやら小石ではないらしい。手を差入れて引き出して見た。土にまみれた小さい壺が、その指先につつまれていた。 「なんだえこれは壺じゃアねえか。呆れもしねえ莫迦にしていやがる。小判の箱かと思ったに。天道様も聞こえませぬ。一体どおしてくれるんだい。旅費を使って江戸くんだりから、わざわざ甲府へ来たんじゃアねえか。巫山戯ているなあ、え、本当に。……だが待てよ、そうも云えねえ。これに秘密があるのかもしれねえ。形は小さい壺ながら、忽然化けて千両箱となる。なあんて奇蹟が行なわれるかもしれねえ。よしよしともかく宿へ帰り、仔細に調べることにしよう」 で、鍬を川へ投げ捨て、壺に着いている土を払うと、懐中へ納めて歩き出した。 夕飯を食べ風呂へ入り、床を取らせると女中を退けた。 それから壺を取り出した。ためつすがめつ調べたが、何の変った所もなかった。丈三寸、周囲三寸、掌に載る小壺であった。焼にも変った所がない。ただし厳重に蓋が冠せてあって、取ろうとしてもなかなか取れない。 「つまらねえなあ。虻蜂とらずだ」 小言を云いながら振って見たが、中には何にも入っていないと見え、コトリとも音はしなかった。 「一世一代の失敗かな。友蔵親分丸損かな。ほんとにほんとに莫迦にしていやがら」 しかしどんなに悪口を云っても、それに答えるものさえない。自分自身が悪口を云い、自分自身が聞くばかりであった。 夜は次第に更けまさり、家の内外ひっそりとした。 「考えていたって仕様がねえ。こんな晩は寝た方がいい。明日は早速ご出立だ。お花の畜生め覚えていやがれ。彼奴さえあんな物を持って来なけれりゃあ、こんなへマは見ねえんだ。江戸へ帰ったらあいつを呼び付け、みっしり叱ってやらなけりゃならねえ」 夜具を冠って寝てしまった。 いわゆる丑満の時刻になった。 と、間の襖が開き、何かチロチロと入って来た。それは一匹の大鼬であって、颯と床間へ駈け上ると、壺と地図とを両手で抱え、それから後足で立ち上り、静かに隣部屋へ引返した。 友蔵は勿論知らなかった。しかし翌日発見した。発見はしたが驚かなかった。「へん、間抜けな泥棒め、盗むものに事をかき、あんなつまらねえ物を盗みやがった」 それで、却ってサバサバして、江戸をさして引返して行った。
27[#「27」は縦中横]
ここは深川の木賃宿である。香具師の親方の「釜無の文」は、手下の銅助を向うに廻し、いい気持に喋舌っていた。傍に檻が置いてあり、中に大鼬が眠っていた。 二人の前には壺と地図とが、大切そうに置いてあった。 窓から夏の陽が射していて、喚気法の悪い部屋の中は、汗ばむ程に熱かった。 「……と、つまり、云うわけさ。ナーニ、ちょろりと横取りしたのさ。へん、えて物さえ使ったらどんな宝物だって盗まれるんだからな」 得意そうに文は話し出した。 「ところで親方、その壺には、何が入っているんですえ?」こう不思議そうに銅助は訊いた。姦悪の相の持主で、文に負けない悪党らしかった。 「そいつア俺にも解らねえ」文は渋面を作ったが、「福の神だということだ。とにかくこいつを持っていると、いい目が出るということだ……これはな、伝説による時は、支那から渡ったものだそうな。甲府のお城にあったものさ。元禄時代の将軍家、館林の綱吉様が、ある時お手に入れられた所、間もなく江戸城お乗込み、将軍職に就かれたそうだ。そのお気に入りの柳沢侯[#「侯」は底本では「候」]、最初は微祿であられた所が、この壺を借りたその日から、トントン拍子に出世されたそうだ。……で、この壺はそれ以来、甲府勤番御支配頭の、保管に嘱していたものだそうな。そうして甲府城の土蔵の奥に大切に仕舞って置かれたんだそうな。……そいつを「爺つあん」が盗み出したのよ」 「へえ「爺つあん」? 葉村のかえ?」 「うん、そうさ、あの葉村のな。……今こそ玉乗の親方か何かで、真面目に暮らしているけれど、昔はどうして大悪党よ、俺ら以上の悪党だったのさ」 「だがおかしいね、その「爺つあん」が、どうして手に入れた宝壺を、釜無の岸へなんか埋めたんだろう?」 「そいつア俺にも解らねえ」 「それに本当にその壺が、そんなに大した福の神なら、あの葉村の「爺つあん」も、もっと出世していいはずだが、たいして出世もしねえようだね」 「うん、そう云やアその通りだが、そこには曰があるんだろう。豚に真珠という格言もあらあ、せっかくの宝も持手が悪いと、ねっから役に立たねえものさ」 「今度は親方が手に入れたんだ、どうかマア旨く役立つといいが」 「役立つとも役立つとも。俺らきっと役立たせてみせる。伝説によるとこの壺は夜な夜な不思議をするそうだ」 「へえ、不思議をね? どんな不思議だろうな」銅助は怪訝な顔をした。 「そいつも今の所わからねえ。この福の神を手に入れてから、まだ一晩も寝て見ねえんだからな」 「そうすると今夜が楽しみですね。小判の雨でも降るかもしれねえ」 宝壺! 宝壺! ほんとに怪異など起きだすだろうか? 果然怪異は起こったのであった。 深夜、壺は音楽を奏した。 非常に微妙な音楽であった。 同時に人々は亢奮した。鼬が檻を食い破り、主人の喉笛へ喰らい付いた。 それは決して福の神ではなく、むしろ災難の神であった。 「釜無の文」は喰い殺された。 次にこの壺を手に入れたのは、文の手下の銅助であった。 「うん、俺は大丈夫だ。きっと福の神にして見せる」 で、それを枕元へ置き、安らかに眠ったことである。 すると、音楽が聞こえてきた。彼はにわかに胸苦しくなり、無宙で飛び起きて駈け廻った。 そうして柱へ頭を打ちつけ、血を吐いて死んでしまった。 損をしたのは木賃宿の亭主で、その月の宿賃をフイにした。そこで銅助の持物を一切バッタに売ることにした。 そこで、その壺と付属地図とはある古道具屋の手に渡った。
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