「あッ」 菊弥の身は蔵の中へ吸い込まれた。 壁の一所が切り抜かれてい、菊弥が身を寄せた時、切り抜かれた部分の壁が内側へ仆れ、連れて、菊弥の体が蔵の中へ転がり込んだのであった。 「あッ」 再度声をあげたのは、蔵の闇の中から手が延びて来て、菊弥の胸倉を掴んだからであった。 「何奴!」と叫ぼうとした口を、別の手が抑えた。 菊弥の体の上に馬乗りになった重い体の主は、切り抜かれた壁の口から、幽かに差し込んで来た外光に照らした顔を、菊弥の顔の上へ近づけた。 「あッ」と声は出なかったが、菊弥は、抑えられている口の中で叫んだ。その顔が、お綱の顔だったからである。峠で、昨日、自分をとらえて挑戯った、「醒ヶ井のお綱」の顔だったからである。 「うふ!」とお綱は、薄い、大形の唇から、前歯をほころばせて笑ったが、強い腕の力で、菊弥をズルズルと蔵の奥へ引き摺って行き、依然として馬乗りになったまま、今は、外光さえ届いて来ない闇の中で、囁くように云った。 「菊弥! ナーニ、本名を云やアお菊か菊女だろう! 手前、女だからなア! うふ、いかに男に姿やつしていようと、この綱五郎の眼から見りゃア――そういう俺らア男さ! ナニ『醒ヶ井のお綱』だって! 箆棒めえ、そいつア土蔵破としての肩書だア。……この綱五郎の眼から見りゃア、一目瞭然、娘っ子に違えねえ!」
人か幽鬼か 「ところで俺ら約束したっけなア、もう一度きっとお目にかかるって! さあお目にかかった。どうするか見やがれ! ……女に姿やつしてよ、中仙道から奥州街道、東海道まで土蔵を破らせりゃア、その昔の熊坂長範よりゃア凄いといわれた綱五郎、聞きゃア草深え川路の山奥に納谷という旧家があって、鸚鵡蔵という怪体な土蔵があるとのこと、しめた! そういう土蔵の胎内にこそ、とんだ値打のある財宝があるってものさ、こいつア割かずにゃアいられねえと、十日あまりこの辺りをウロツキ廻り、今夜念願遂げて肚ア立ち割り調べたところ、有った有った凄いような孕子があった。現在の小判から見りゃア、十層倍もする甲州大判の、一度の改鋳もしねえ奴がザクと有った。有難え頂戴と、北叟笑いをしているところへ、割いた口から今度は娘っ子が転がり込んで来た! 黄金に女、盆歳暮一緒! この夏ア景気がいいぞ!」 グーッと綱五郎は抑え込んだ。 (無念!)と菊弥は、抑え付けられた下から刎返そう刎返そうときながら、 (烈士、別木荘左衛門の一味、梶内蔵丞の娘の自分が、こんな盗賊に!) 抑えられている口からは声が出ない! 足で床を蹴り、手を突張り、刎返そう刎返そうと反抗った。 そう、菊弥は娘なのであった。父は梶内蔵丞と云い、承応元年九月、徳川の天下を覆そうとした烈士、別木荘左衛門の同志であった。事あらわれて、一味徒党ことごとく捕えられた中に、内蔵丞一人だけは遁れ終わせ、姓名を筧求馬と改め、江戸に侘住居をした。しかし大事をとって、当歳であった娘のお菊を、男子として育てた。というのは、幕府において、梶内蔵丞には娘二人ありと知っていたからであった。その菊弥も、官吏や世間の目を眩ますことは出来たが、土蔵破の綱五郎の目は欺むけず…… だんだん抵抗力が弱って来た。 (何人か……来て! 助けてエーッ) そういう声も口からは出ない。 と、この時蔵の中が、仄かな光に照らされて来た。光は、次第に強くなって来た。蔵の奥に、二階へ通っている階段があり、その階段から光は下りて来た。段の一つ一つが、上の方から明るくなって来た。と、白布で包んだ人の足が、段の一つにあらわれた。つづいて、もう一方の足が、その次の段を踏んだ。これも白布につつまれている。 黒羽二重の着物を着、手も足も白布で包み、口にお篠の生首を銜え、片手に手燭を持った男が、燠のように赤い眼、ふくれ上った唇、額に瘤を持ち、頤に腐爛を持った獅子顔を正面に向け、階段を下り切ったのは、それから間もなくのことであった。髪を銜えられて、男の胸の辺りに揺れているお篠の首は、手燭の光を受けて、閉じた両眼の縁が、涙で潤っているように光っていた。その顔の左右へは、男の、髻の解けた長髪が振りかかり、女の首を抱いているように見えた。 「わッ」という怯えた声が響いた時には、綱五郎は躍り上っていた。刹那、匕首が閃めいた。綱五郎が抜刀て飛びかかったのである。再度悲鳴が聞こえた時には、生首を銜えた男の手に、血まみれの匕首が持たれ、その足許に綱五郎が斃れていた。その咽喉から迸っている血に浸り、床の上に散乱しているのは、昨日、お篠が主屋の奥座敷で洗っていた、十個の代首と、その首の切口の蓋が外れ、そこから流れ出たらしい無数の甲州大判であった。 恐怖から恐怖! ……賊に襲われる恐怖からは危うく助けられたが、殺人の悪鬼の出現に、戦慄のどん底へ落とされた菊弥は、床の上へ坐ったまま、悪鬼の姿を、両手を合わせてただ拝んだ。そういう菊弥を認めたのか認めないのか、仮面のような獅子顔を持った男は、胸の上の女の生首を揺りながら、よろめきよろめき、切り抜かれた壁の方へ歩いて行った。そうして、その男が落とし、落ちた床の上で、なお燃えている手燭の燈に、ぼんのくぼを照らし、壁の穴から出て行った。 手燭はまだ燃えていた。代首を利用し、その中へ、先祖より伝わる、幾万両とも知れない大判を隠し入れ、首を洗うに藉口て、毎年一度ずつ大判を洗い、錆を落とすところから、鋳立てのように新しい甲州大判! それが、手燭の光に燦然と輝いていた。
答えない鸚鵡蔵 悲劇は、蔵の中ばかりにあるのではなかった。大竹藪の中、飯食い地蔵の祠の前にもあった。 いわば後家のようになったお篠を手に入れ、二つには納谷家の大財産を自分のものにしようと、以前から機会を窺っていた番頭の嘉十郎が、お篠をここへおびき出し――先刻菊弥が蔵の裏手で耳にした足音は、その二人の足音なのであったが、今、くどいていた。 「かりにも主人の妾へ、理不尽な! 無礼な! ……汝が汝が!」 大竹藪は、この不都合な光景を他人に見せまいとするかのように、葉を茂らせ、幹を寄り合わせ、厚く囲っていた。 「……飯食い地蔵に捧げるといって、世間の眼を眩ませ、こっそり私が持って行く食物を食べ、蔵の中で、生甲斐もなく生きている、あの化物のような旦那様より、まだまだわたしの方がどんなにか人間らしいじゃアありませんか。そう嫌わずに、わたしの云うとおりに。……あんまり強情お張りなさると、わたしは世間へ、納谷家の主人雄之進様が、長旅へ出たとは偽り、実は業病になり、蔵の中に隠れ住んでおりますと云いふらしますぞ。するとどうなります、数百年伝わった旧家も、一ぺんに血筋の悪い家ということになって、世間から爪はじきされるじゃアございませんか」 こういう光景を見ているものは、ささやかな家根の下、三方板囲いされた中に、赤い涎れ懸けをかけ、杖を持った、等身大の石地蔵、飯食い地蔵尊ばかりであり、それを照らしているものは、その地蔵尊にささげられてある、お燈明の光ばかりであった。 「痛! 畜生! 指を噛んだな!」と突然嘉十郎は咆哮した。 「ええこうなりゃア、いっそ気を失わせておいて!」と大きな手を、お篠の咽喉へかけた。 「わッ」 瞬間、嘉十郎はお篠を放し、両手を宙へ延ばした。咽喉に匕首が突立っている。 「う、う、う、う!」 のめって、地蔵尊へ縋りついた。飯食い地蔵は仆れ、根元から首を折ったが、胴体では、嘉十郎を地へ抑え付けていた。 お篠はベタベタと地べたへ坐った。 (助かった! 助かった!) その時、祠の陰から、お篠の代首を、今は口には銜えず、可憐しそうに両袖に抱いた、仮面のような獅子顔の男が妖怪のように現われ、お篠の横へ立った。 「雄之進殿オーッ」 それと見てとったお篠は、縋り付こうとした。 しかし、納谷雄之進は、自分の悪疾を、愛する妻へ移すまいとしてか、そろりと外して、じっとお篠を見下ろした。盲いかけている眼から流れる涙! 血涙であった! 「旦那様アーッ」 なおお篠は、雄之進の足へ縋り付こうとした。 しかしもうその時には、――蔵の中に隠れ住むことにさえ責任を感じ、家の名誉と、愛する妻の幸福のために、今度こそ本当に、帰らぬ旅へ出て行こうと決心し、愛し愛し愛し抜いている妻の、俤を備えている代首、それだけを持った雄之進は、竹藪を分けて歩み出していた。 「妾もご一緒に! 雄之進殿オーッ」とお篠は後を追った。竹の根につまずいて転んだ。起き上って後を追った。またつまずいて仆れた。起き上って後を追った。いつか竹藪の外へ出た。茫々と蒼い月光ばかりが、眼路の限りに漲ってい、すぐ眼の前に、鸚鵡蔵が、白と黒との裾模様を着て立っていたが、雄之進の姿は見えなかった。絶望と悲哀とでお篠は地へ仆れた。そこで又愛し憐れみ尊敬している良人の名を、声限りに呼んだ。 「雄之進殿オーッ」 声は鸚鵡蔵へ届いた。 鸚鵡蔵は、「雄之進殿オーッ」と木精を返したか? いや、鸚鵡蔵は沈黙していた。 しかしどこからともなく、哀切な、優しい声が、 「お篠オーッ」と呼び返すのが聞こえた。 「あ、あ、あ!」とお篠は喘いだ。 「ご病気でお声さえ出なくなった旦那様が、妾の名を、妾の名を、お篠オーッと……」 嬉しさ! 恋しさ! お篠は又も声限りに呼んだ。 「雄之進殿オーッ」 「お篠オーッ」
手燭の燈も消えた暗い蔵の中では、菊弥が恐怖で足も立たず、床を這い廻っていた。と、戸外から聞き覚えのある姉の声で、人を呼んでいるのが聞こえた。菊弥は嬉しさに声限り、 「お篠お姉様アーッ」と呼んだ。 壁を切り抜かれて、鸚鵡蔵の機能を失った蔵は、お篠の呼び声に答えはしなかったが、そう呼んだ菊弥の声を、切り抜かれた穴から戸外へは伝えた。しかし菊弥は心身ともに弱り切っていたので、語尾の「お姉様アーッ」というのが切れ、戸外へは――お篠の耳へは、 「お篠オーッ」としか聞こえなかった。 しかしお篠には、その声が、蔵の中で菊弥が呼んでいる声などとは思われなかった。良人が呼び返す声だと思った。 幾度も幾度も呼んで、そのつど答える良人の声に耳を澄ました。 「雄之進殿オーッ」 「お篠オーッ」 竹藪の中では、首を折って、飯食い地蔵の名に背くようになった石の地蔵尊が、嘉十郎の死骸を、なおその胴体で抑えていた。
その後の納谷家には、明るい生活がつづいた。先ず菊弥は女として育てられることになり、鸚鵡蔵と飯食い地蔵とは、その名に背くようになったところから、二つながら取り毀され、代首も真の秘密とその効用とが他人に知られた以上――知った綱五郎は殺されたにしても――保存する必要がないというので、これも取り捨られ、甲州大判は尋常の金箱の中に秘蔵されることになった。つまり、古い伝統を持った旧家の納谷家から、三種の悪質い伝統の遺物が取り去られたのであった。 雄之進は永久納谷家へは帰らなかったそうな。しかし伝うるところによれば、この人の病気は、天刑病ではなく、やや悪質の脱疽に過ぎなかったということであり、そうしてこの人は、やはり、別木荘左衛門一味の同伴者であり、お篠を娶ったのも、お篠が、別木党の、梶内蔵丞の娘であることを知っていたからだということである。そういう烈士であったればこそ、家のため妻のために、自分の生涯を犠牲にして、行衛不明になるというような、男らしい行為を執ったのであろう。お篠は勿論後半生を未亡人として送った。 そうしてお篠は、死ぬ迄、「いいえ、あの時、妾の名を、『お篠オーッ』と呼んで下されたのは、蔵の中の菊弥ではなくて、良人、雄之進様でございますとも」と云い張ったということである。
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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