「納谷家は、いまも云ったように、古い古い名家なのだよ。それで代々、親戚の者とばかり、婿取り嫁取りをしていたのだそうな。身分や財産が釣り合うように、親戚をたくさん増やさないようにとねえ。……そのあげくが血を濃くし、濁らせて、とうとう雄之進様に恐ろしい病気を。……それでご養生に、つい最近、遠い旅へねえ。……お優しかった雄之進様! どんなに妾を可愛がって下されたことか! お前さんは知らないでしょうが、お前さんがまだ誕生にもならない頃、でも妾が十七の時、雄之進様には江戸へおいでになられ、浅草寺へ参詣に行った妾を見染められ……笑っておくれでない、本当のことなのだからねえ。……財産も身分も違う、浪人者の娘の妾を、是非に嫁にと懇望され、それで妾は嫁入って来たのだよ。その妾を雄之進様には、どんなに可愛がって下されたことか! 恐ろしいご病気になられてからも、どんなに妾を可愛がって下されたことか! でもご病気になられてからの可愛がり方は、手荒くおなりなさいましたけれど。……そう、こう髪を銜えてお振りなどしてねえ」 云い云いお篠は、代首の髻を口に銜え、左右へ揺すった。鉄漿をつけた歯に代首を銜えたお篠の顔は、――髪の加減で額は三角形に見え、削けた頬は溝を作り、見開らかれた両眼は炭のように黒く、眉蓬々として鼻尖り、妖怪のようでもあれば狂女のようでもあり、その顔の下に垂れている男の首は、代首などとは思われず、妖怪によって食い千切られた、本当の男の生首のようであった。 「お姉様! 恐うございます恐うございます!」 「いいえ」と云った時には、もう首は盥の中に置かれ、お篠は俯向いて、鬱金の巾を使っていた。
襖の間に立った男 「菊弥や」とやがてお篠は云った。 「とうとうお母様もお逝去りなされたってねえ」 「はい」と菊弥は眼をしばたたいた。 「先々月おなくなりなさいましてございます」 「妾はお葬式にも行けなかったが。……それもこれも婚家の事情で。……旦那様のご病気のために。……それで菊弥や、妾の所へ来たのだねえ」 「はい、お姉様、そうなのでございます。……お母様が臨終に仰せられました。『お父様は三年前に逝去り、その後ずっと、お篠からの貢ぎで、人並に生活て来たわたし達ではあるが、妾が、この世を去っては、年齢はゆかず、手頼りになる親戚のないお前、江戸住居はむずかしかろう。だからお姉様の許へ行って……』と。……」 「よくおいでだった。そういう書信が、お前のところから来て以来、どんなに妾は、お前のおいでるのを待っていたことか。……安心おし、安心して何時までもここにお居で。この姉さんが世話てあげます。子供のない妾、お前さんを養子にして、納谷の跡目を継いで貰いましょうよ」 「お姉様、ありがとうございます。万事よろしくお願い申します」 菊弥は、はじめてホッとした。 彼は、この部屋へ入って来るや、代首にしろ、首級を洗っている、妖怪じみた姉を見て、まず胆を潰し、ついで、納谷家の古事や、当代の主人の不幸の話や、そのようなことばかりを云って、こちらの身の上のことなど、一向に訊いてもくれない姉の様子に接し、うすら寂しく、悲しく思っていたのであったが、ようやく姉らしい優しい言葉や、親切の態度に触れたので、ホッとしたのであった。 犬ともつかず、何の獣の啼声とも知れない啼声が、戸外から鋭く聞こえてきた。昼でもこの辺りでは啼くという、の声であった。 部屋の中は、寒い迄に静かであった。首を洗うお篠の手に弾かれて、盥の中の水が、幽かに音を立てている。音はといえばそればかりであった。 「お前もほんとうに可哀そうだったねえ」としみじみとした声でお篠は云った。 「お父様やお母様の書信で聞いたのだが、いわばお前は、不具者のようにされて育てられて来たのだってねえ。……でもここへ来たからには大丈夫だよ。もうそのような固苦しいみなりなどしていなくてもよいのだよ」 「はいお姉様、ありがとう存じます」 「おや」と不意にお篠は左右を見廻した。 「首がない! 妾の首が!」 「お姉様」と菊弥は驚き、 「いいえ首は……お姉様の首は……ちゃんとお姉様の肩の上に……」 「首がない! 妾の首がない! 男ばかりの首の中に、たった一つだけある女の代首! それが妾に似ているところから、旦那様が、お篠、これはお前の首じゃと云われ、日頃いっそう大切にお扱い下された首! その首がないのじゃ!」 なお左右を見廻したが、 「お蔵へ残して来た覚えはなし……何としたことだろう?」 じっと眼を据えた。 「奥様」とこの時、菊弥の背後から、濁みた、底力のある声が聞こえてきた。 菊弥は振り返って見た。彼がこの部屋へ入って来た時、引き開け、そのまま閉じるのを忘れていた襖の間に、身丈の高い、肩巾の広い、五十近い男が、太い眉、厚い唇の、精力的の顔を、お篠の方へ向けて立っていた。 「お仕事は、まだお済みではございませんかな」 「チェ」とお篠は舌打ちをした。 「まだ済まぬよ。……向こうへ行っておいで。……お前などの来るところではないよ」 「へい。ちょっとお話を……」 「また! いやらしい話かえ! ……くどい」 「いいえ……よく聞いていただきまして……」 「お黙り!」
飯食い地蔵 翌日菊弥は庭へ出て陽を浴びていた。 寛文四年五月中旬のさわやかな日光は、この山国の旧家の庭いっぱいにあたっていた。広い縁側を持った、宏壮な主屋を背後にし、実ばかりとなった藤棚を右手にし、青い庭石に腰をかけ、絶えず四辺から聞こえてくる、老鶯や杜鵑の声に耳を藉し、幸福を感じながら彼は呆然していた。納屋の方からは、大勢の作男たちの濁声が聞こえ、厩舎の方からは、幾頭かの馬の嘶く声が聞こえた。時々、下婢や下男が彼の前を通ったが、彼の姿を眼に入れると、いずれも慇懃に会釈をした。彼を、この家の主婦の弟と知って、鄭重に扱うのであった。 (いいなあ)と菊弥は思った。 (これからわしはずっとここで生長なるのだ。そうしてここの家督を継ぐのだ。これ迄は、父親のない、貧しい浪人者の小倅として、どこへ行っても、肩身が狭かったが、もうこれからはそんなことはないのだ) こんなことを思った。 と、この時、昨日、主屋の奥の部屋で、姉が代首を洗っていた時、襖の間に立って、姉に話しかけた男が――後から姉から聞いたところによれば、嘉十郎と云って、この納谷家を束ねている、大番頭とのことであるが、――その嘉十郎が片手に、皿や小鉢を載せた黒塗の食膳を持ち、別の手に、飯櫃を持って、厨屋の方から、物々しい様子で歩いて来た。 「嘉十郎や、そんなもの、どこへ持って行くのだえ?」と菊弥は、嘉十郎が自分の前へ来た時声をかけた。 少年の好奇心からでもあったが、下婢ならともかく大番頭ともある嘉十郎が、そんな物を持って、昼日中物々しく、庭など通って行くので、何とも不思議に堪えられなかったからでもあった。 嘉十郎は足を止めたが、 「へい、これは菊弥お坊ちゃまで。……これでございますか、これは『飯食い地蔵様』へお供えする昼のお斎でございますよ」 「飯食い地蔵? 飯食い地蔵って何だい?」 「お坊ちゃまは、江戸から参られたばかりで、何もご存知ないでしょうが、飯食い地蔵と申しますのは、大昔から、この納谷家に祭られておる地蔵様のことでございましてな、お蔵の裏手……」 「お蔵って、鸚鵡蔵のことかい」 「ご存知で。これはこれは。へい、さようでございます、その鸚鵡蔵の、裏の竹藪の中に、安置されてあるのでございますがな、朝、昼、晩と、三度々々お斎を供えなければなりませんので。それが納谷家に伝わる、長い間の習慣で」 「地蔵様がお斎を食べるのかい?」 「さようでございます」 「嘘お云いな」 「あッハッハッハッ。……いずれは野良犬か、狐か狸か、乞食などが食べてしまうのでございましょうが、とにかくお斎は毎日綺麗になくなります」 「飯食い地蔵。……見たいな」 「およしなさいまし。あの方角へは、まずまずおいでにならない方がよろしゅうございます」 「お姉様も、昨日、そんなことを云ったよ。鸚鵡蔵の方へは行かない方がいいって」 「さようでございますとも、魔がさしますで」 行過ぎる嘉十郎のうしろ姿を見送りながら、菊弥は、鸚鵡蔵の由縁を、一番最初に自分へ話してくれた、お綱という女のことを思い出した。その女は、彼が目差す川路の郷を、目の下に見ることの出来る峠まで辿りついたので、安心し、疲労た足を休めているところへ、突然、樺の林の中から出て来て、からかった女であった。 (あの女何者だろう?) (鸚鵡蔵だけは是非見たいものだ)
鸚鵡蔵 その夜のことであった。菊弥は、鸚鵡蔵の前に立っていた。 月のある夜だったので、巾の広い、身長の高い――普通の蔵の倍もありそうな鸚鵡蔵は、何かこう「蔵のお化」かのように、朦朧と照っている月光の中に、その甍を光らせ、白壁を明るめて立っていた。白壁づくりではあったが、その裾廻りだけが、海鼠形になっていて、離れて望めば、蔵が裾模様でも着ているように見えた。正面に二段の石の階段があり、それを上ると扉であった。扉は頑丈の桧の一枚板でつくられてあり、鉄の鋲が打ってあり、一所に、巾着大の下錠が垂らしてあった。納谷家にとって一方ならぬ由緒のある蔵なので、日頃から手入れをすると見え、古くから伝わっている建物にも似合わず、壁の面には一筋の亀裂さえなく、家根瓦にも一枚の破損さえもなさそうであった。 菊弥は、扉の前にしばらく佇んでいたが(声をかけてみようかな?)と思った。でも、姉の眼や家人の眼を盗んで、こっそり見に来たことを思い出し、止めた。知れたら大変だと思ったからである。 (手ぐらい拍ってもいいだろう) そこで彼は手を拍った。少年の鳴らす可愛らしい拍手の音が、二つ三つ、静かな夜の空気の中を渡った。と、すぐに全く同じ音が、蔵の面から返って来た。 (あ、ほんとうに、お蔵が返辞をしたよ。まったく鸚鵡蔵だ) 日光の薬師堂の天井に、狩野某の描いた龍があり、その下に立って手を拍つと、龍が、鈴のような声を立てて啼いた。啼龍といって有名である。 が、要するにそれは、天井の構造から来ていることで、幽かな音に対しても木精を返すに過ぎないのであって、そうしてこの鸚鵡蔵も、それと同一なのであったが、無智の山国の人達には、怪異な存在に思われているのであった。 菊弥は鸚鵡蔵が鸚鵡蔵の証拠を見せてくれたので、すっかり満足したが、すぐに、少年の好奇心から、昼間嘉十郎の話した「飯食い地蔵」のことを思い出した。 (どんな地蔵かしら、見たいものだ。嘉十郎の持って行った飯をほんとうに食べたかしら?) そこで菊弥は、蔵を巡って、その裏手の方へ歩いて行った。蔵の裏手は、蓬々と草の茂った荒地で、遥か離れたところに、孟宗竹の林が立ってい、無数の巨大な帚でも並べたようなその竹林は、梢だけを月光に薄明るく色づけ、微風に靡いていた。そうして暗い林の奥から、赤黄色い、燈明の火が、朱で打ったように見えて来ていた。 (あそこに地蔵様の祠があるんだな) そこで菊弥はその方へ足を向けた。と、その時、蔵の右手から人の足音が聞こえてきた。 (しまった)と菊弥は思った。 (手を拍ったのを聞き付けて、誰か調べに来たのだ) 目つかっては大変と、菊弥は左手の方へ逃げかけた。するとその方からも人の足音が聞こえてきた。 (どうしよう) 眼を躍らせて四方を見廻した菊弥の眼に入ったのは、蔵の壁に沿って、こんもりと茂っている漆らしい藪であった。 (あそこへ一時身をかくして……) そこで菊弥は藪の陰へ走り込み、ピッタリと壁の面へ身を寄せた。
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