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夢殿(ゆめどの)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-2 6:01:01 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     四

 太子たいしのおまいになっていたおみや大和やまと斑鳩いかるがといって、いま法隆寺ほうりゅうじのあるところにありましたが、そこの母屋おもやのわきに、太子たいし夢殿ゆめどのというちいさいおどうをおこしらえになりました。そして一月ひとつきに三ずつ、おはいってからだきよめて、そこへおこもりになり、ほとけみち修行しゅぎょうをなさいました。
 あるとき太子たいしはこの夢殿ゆめどのにおこもりになって、七日七夜なのかななよもまるでそとへお出にならないことがありました。いつもは一晩ひとばんぐらいおこもりになっても、明日あすあさはきっとおましになって、みんなにいろいろととうといおはなしをなさるのに、今日きょうはどうしたものだろうとおもって、おきさきはじめおそばの人たちが心配しんぱいしますと、高麗こまくにから恵慈えじというぼうさんが、これは三昧さんまいじょうるといって、一心いっしんほとけいのっておいでになるのだろうから、おじゃまをしないほうがいいといってめました。
 するとちょうど八日ようかめのあさ太子たいし夢殿ゆめどのからおましになって、
せんだって小野妹子おののいもこっててくれた法華経ほけきょうは、衡山こうざんぼうさんがぼけていたとえて、わたしのっていたのでないのをまちがえてよこしたから、たましいをシナまでやってってたよ。」
 とおっしゃいました。
 そののちまた小野妹子おののいもこが二めにシナへわたったとき衡山こうざんのおてらたずねると、まえにいた三にんぼうさんの二人ふたりまではんでしまって、一人ひとりだけのこっておりましたが、そのぼうさんのはなしに、
先年せんねんあなたのおくに太子たいしあおりゅうくるまって、五百にん家来けらいしたがえて、はるばるひがしほうからくもの上をはしっておいでになって、ふる法華経ほけきょうの一かんっておいでになりました。」
 とったそうでございます。

     五

 太子たいしのおきさき膳臣かしわできみといって、それはたいそうかしこくておうつくしいかたでしたから、御夫婦ごふうふのおなかもおむつましゅうございました。あるときふと太子たいしはおきさきかって、
「おまえとは長年ながねんいっしょにくらしてたが、おまえはただの一言ひとこともわたしの言葉ことばそむかなかった。わたしたちはしあわせであったとおもう。きているうちそうであったから、んでからもおなじ日に、おなじおはかの中にほうむられたいものだ。」
 とおっしゃいました。おきさきなみだをおながしになりながら、
「どうしてそんなかなしいことをおっしゃるのでございますか。このさき百ねんも千ねんきていて、おそばにつかえたいと、わたくしはおもっているのでございますのに。」
 とおっしゃいました。けれども太子たいしくびをおふりになって、
「いやいや、はじめがあればおわりのあるものだ。まれたものはかならぬにまったものだ。これは人間にんげんさだまったみちでしかたがない。わたしもこれまでいろいろのものに姿すがたをかえ、度々たびたび人間にんげんまれわってて、ほとけみちをひろめた。とうとうおしまいにこの日本国にほんこく皇子おうじまれてて、ほとけみち跡方あとかたもないところ法華ほっけたねいた。わたしの仕事しごともこれで出来上できあがったのだから、この上ながく、むさくるしい人間にんげんの中にんでいようとはおもわない。」
 としみじみとおはなしをなさいました。おきさきはなおなおかなしくおなりになって、とめなくなみだがこぼれてました。
 ちょうどそのころでした。太子たいし摂津せっつくに難波なにわのおみやへおいでになって、それから大和やまときょうへおかえりになるので、黒馬くろうまって片岡山かたおかやまというところまでおいでになりますと、山のかげ一人ひとりものべないとみえて、るかげもなく、おとろえたこじきが、むしのようにていました。おともの人たちは、太子たいしのお馬先うまさき見苦みぐるしいとおもって、あわてていたてようとしますと、太子たいしはやさしくおめになって、ものをおやりになり、なさけぶかいお言葉ことばをおかけになりました。そしてかえりしなに、
さむいだろうから、これをお。」
 とおっしゃって、していた紫色むらさきいろ御袍おうわぎをぬいで、おずからこじきのからだにかけておやりになりました。そのとき

「しなてるや
片岡山かたおかやま
いいえて
せるたびびと
あわれ親無おやなし。」

 という和歌わかをおみになりました。
「しなてるや」というのは、片岡山かたおかやまという言葉ことばかぶせたかざりの枕言葉まくらことばで、うた意味いみは、片岡山かたおかやまの上に御飯ごはんべずにえてているたびおとこがあるが、かわいそうに、おや兄弟きょうだいもない、かなしいうえなのであろうかというのです。
 するとそのときていたこじきが、むくむくとあたまをあげて、

斑鳩いかるが
とみ小川おがわ
えばこそ
大君おおきみ
御名みなわすれめ。」

 と御返歌ごへんかもうげたといいます。
 うたの中にある「斑鳩いかるが」だの、「とみ小川おがわ」だのというのは、いずれも太子たいしのおまいになっていた大和やまとくに奈良ならちかところで、そのとみ小川おがわながれのえてしまうことはあろうとも、太子たいしさまの今日きょうのおなさけをけっしてわすれるときはございませんというのでございます。
 さて太子たいし奈良ならきょうへおかえりになりましたが、そのあと片岡山かたおかやまのこじきは、とうとうんでしまいました。太子たいしはそれをおきになって、たいそうおなげきになり、あつくほうむっておやりになりました。それをいた七にん大臣だいじんが、太子たいしさまともあるものがそんな軽々かるがるしいことをなさるとはといって、やかましく小言こごともうしました。太子たいしはそのはなしをおきになると、七にん大臣だいじんして、
「おまえたちはそんなむずかしいことをいっていないで、まあ片岡山かたおかやまへ行ってごらん。」
 とおっしゃいました。
 大臣だいじんたちはぶつぶついながら、ともかくも片岡山かたおかやまへ行ってみますと、どうでしょう、こじきのなきがらをおさめたひつぎの中は、いつかからになっていて、中からはぷんとかんばしいかおりがちました。大臣だいじんたちはみんなおどろいて、太子たいしも、このこじきも、みんなただの人ではない、慈悲じひ功徳くどくの中の人たちにあまねくらせるために、とうと菩薩ぼさつたちがかりにお姿すがたをあらわしたものだろうとおもうようになりました。

     六

 さてこのことがあってからのちもなく、太子たいしはあるきさきかい、
「いよいよ、いつぞやの約束やくそくたす日がた。わたしたちは今夜限こんやかぎりこのろうとおもう。」
 とおいになりました。
 そして太子たいしとおきさきとはその日おし、あたらしい白衣びゃくえにお着替きかえになって、お二人ふたり夢殿ゆめどのにおはいりになりました。
 くるあさ、いつまでもお二人ふたりともおざめにならないので、おそばの人たちが不思議ふしぎおもって、そっと御堂おどうなかはいってみますと、お二人ふたりはまくらをならべたまま、それはそれはやすらかに、まるでいつもすやすやおやすみになっているような御様子ごようすで、いきっておいでになりました。おからだからはぷんとたかく、かんばしいにおいがちました。太子たいしのおとしは、四十九さいでございました。
 太子たいしのおかくれになった日、シナの衡山こうざんからとっておいでになったふる法華経ほけきょうも、ふとえなくなりました。それもいっしょにっておいでになったのだろうということです。





底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:今井忠夫
2004年1月6日作成
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