日本の英雄伝説 |
講談社学術文庫、講談社 |
1983(昭和58)年6月10日 |
1983(昭和58)年6月10日第1刷 |
1983(昭和58)年6月10日第1刷 |
一
むかし日本の国に、はじめて仏さまのお教えが、外国から伝わって来た時分のお話でございます。 第三十一代の天子さまを用明天皇と申し上げました。この天皇がまだ皇太子でおいでになった時分、お妃の穴太部の真人の皇女という方が、ある晩御覧になったお夢に、体じゅうからきらきら金色の光を放って、なんともいえない貴い様子をした坊さんが現れて、お妃に向かい、 「わたしは人間の苦しみを救って、この世の中を善くしてやりたいと思って、はるばる西の方からやって来た者です。しばらくの間あなたのおなかを借りたいと思う。」 といいました。 お妃はびっくりなすって、 「そういう貴いお方が、どうしてわたくしのむさくるしいおなかの中などへお入りになれましょう。」 とおっしゃいますと、その坊さんは、 「いや、けっしてその気づかいには及ばない。」 と言うが早いか踊り上がって、お妃の思わず開けた口の中へぽんと跳び込んでしまったと思うとお夢はさめました。 目がさめて後お妃は、喉の中に何か固くしこるような、玉でもくくんでいるような、妙なお気持ちでしたが、やがてお身重におなりになりました。 さて翌年の正月元日の朝、お妃はいつものように御殿の中を歩きながら、お厩の戸口までいらっしゃいますと、にわかにお産気がついて、そこへ安々と美しい男の御子をお生みおとしになりました。召使いの女官たちは大さわぎをして、赤さんの皇子を抱いて御産屋へお連れしますと、御殿の中は急に金色の光でかっと明るくなりました。そして皇子のお体からは、それはそれは不思議なかんばしい香りがぷんぷん立ちました。 お厩の戸の前でお生まれになったというので、皇子のお名を厩戸皇子と申し上げました。後に皇太子にお立ちになって、聖徳太子と申し上げるのはこの皇子のことでございます。
二
さて太子はお生まれになって四月めには、もうずんずんお口をお利きになりました。明くる年の二月十五日は、お釈迦さまのお亡くなりになった御涅槃の日でしたが、二歳になったばかりの太子は、かわいらしい両手をお合わせになり、西の方の空に向かって、 「南無釈迦仏。」 とお唱えになったので、おつきの人たちはみんなびっくりしてしまいました。 太子が六歳の時でした。はじめて朝鮮の国から、仏さまのお経をたくさん献上してまいりました。するとある日太子は、天子さまのお前へ出て、 「外国からお経がまいったそうでございます。わたくしに読ませて頂きとうございます。」 とお申し上げになりました。 天皇はびっくりなすって、 「どうしてお前にお経が分かるだろう。」 とおっしゃいますと、太子は、 「わたくしはむかしシナの南岳という山に住んでいて、長年仏の道を修行いたしました。こんど日本の国に生まれて来ることになりましたから、むかしの通りまたお経を読んでみたいと思います。」 とお答えになりました。 天皇ははじめて、なるほど太子はそういう貴い人の生まれかわりであったのかとお悟りになって、お経を太子に下さいました。 太子が八歳の年でした。新羅の国から仏さまのお姿を刻んだ像を献上いたしました。その使者たちが旅館に泊っている様子を見ようとお思いになって、太子はわざと貧乏人の子供のようなぼろぼろなお姿で、町の子供たちの中に交じってお行きになりました。すると新羅の使者の中に日羅という貴い坊さんがおりましたが、きたない童たちの中に太子のおいでになるのを目ざとく見付けて、 「神の子がおいでになる。」 といって、太子に近づこうといたしました。太子はびっくりして逃げて行こうとなさいました。日羅はあわてて履もはかず駆け出してお後を追いかけました。そして太子の前の地びたにぺったりひざをついたままうやうやしく、 「敬礼救世観世音菩薩。妙教流通東方日本国。」 と申しますと、日羅の体から光明がかっと射しました。そして太子の額からは白い光がきらりと射しました。日羅の言った言葉は、人間の世の苦しみを救って下さる観世音菩薩に、そしてこの度東の果ての日本の国の王さまに生まれて、仏の教えをひろめて下さるお方に、つつしんでごあいさつを申し上げますという意味でございます。 大きくおなりになると、太子は日羅の申し上げたように、仏の教えを日本の国中におひろめになりました。はじめ外国の教えだといってきらっていた者も、太子がねっしんに因果応報ということのわけを説いて、 「人間のいのちは一代だけで終るものではない。前の世とこの世と後の世と、三代もつづいている。だから前の世で悪いことをすれば、この世でその報いがくる。けれどこの世でいいことをしてその罪を償えば、後の世にはきっと幸福が報ってくる。だからだれも仏さまを信じて、この世に生きている間たくさんいいことをしておかなければならない。」 こうおさとしになりますと、みんな涙をこぼして、太子とごいっしょに仏さまをおがみました。けれど中でわがままな、がんこな人たちがどうしても太子のお諭しに従おうとしないで、お寺を焼いたり、仏像をこわしたり、坊さんや尼さんをぶちたたいてひどいめにあわせたり、いろいろな乱暴をはたらきました。太子はその人たちのすることを見て、深いため息をおつきになりながら、 「しかたがない、悪魔を滅ぼす剣をつかう時が来た。」 とおっしゃって、弓矢と太刀をお取りになり、身方の軍勢のまっ先に立って勇ましく戦って、仏さまの敵を残らず攻め滅ぼしておしまいになりました。 こうしてこの太子のお力で、いろいろの邪魔を払って、仏さまのお教えがずんずんひろまるようになりました。摂津の大阪にある四天王寺、大和の奈良に近い法隆寺などは、みな太子のお建てになった古い古いお寺でございます。
三
太子のお徳がだんだん高くなるにつれて、いろいろ不思議な事がありました。ある時甲斐の国から四足の白い、真っ黒な小馬を一匹朝廷に献上いたしました。太子はこの馬を御覧になると、たいそうお喜びになって、 「この馬に乗って国中を一めぐりして来よう。」 とおっしゃって、調使丸という召使いの小舎人をくらの後ろに乗せたまま、馬の背に乗って、そのまますうっと空の上へ飛んでお行きになりました。下界では、 「あれ、あれ。」 といって騒いでいるうちに、太子はもう大和の国原をはるか後に残して、信濃の国から越の国へ、越の国からさらに東の国々をすっかりお回りになって、三日の後にまた大和へお帰りになりました。この時太子のお歩きになった馬の蹄の跡が、国々の高い山に今でも残っているのでございます。 またある時、太子は天子さまの御前で、勝鬘経というお経の講釈をおはじめになって、ちょうど三日めにお経がすむと、空の上から三尺も幅のあるきれいな蓮花が降って来て、やがて地の上に四尺も高く積りました。その蓮花を明くる朝天子さまが御覧になって、そこに橘寺というお寺をお立てになりました。 またある時、日本の国からシナの国へ、小野妹子という人をお使いにやることになりました。その時太子は妹子に向かい、 「シナの衡山という山の上のお寺は、むかしわたしが住んでいた所だ。その時分いっしょにいた僧たちはたいてい死んだが、まだ三人は残っているはずだから、そこへ行って、むかしわたしが始終つかっていた法華経の本をさがして持って来ておくれ。」 とおっしゃいました。 妹子はおいいつけの通り、シナへ渡るとさっそく、衡山という所へたずねて行きました。そしてその山の上のお寺へ行くと、門に一人の小坊主が立っていました。妹子がこうこういう者だといって案内をたのみますと、小坊主はもう前から知っているといったように、 「和尚さん、和尚さん、思禅法師のお使いがおいでになりましたよ。」 といいました。するとお寺の中から腰の曲がったおじいさんの坊さんが三人、ことこと杖をつきながら、さもうれしそうにやって来て、太子の御様子をたずねるやら、昔話をするやらしたあとで、妹子のいうままに、一巻の古い法華経を出して渡しました。妹子はそれを持って、日本へ帰ったということです。
[1] [2] 下一页 尾页
|