日本の諸国物語 |
講談社学術文庫、講談社 |
1983(昭和58)年4月10日 |
1983(昭和58)年4月10日第1刷 |
1983(昭和58)年4月10日第1刷 |
一
むかし近江国の余呉湖という湖水に近い寂しい村に、伊香刀美というりょうしが住んでおりました。 ある晴れた春の朝でした。伊香刀美はいつものようにりょうの支度をして、湖水の方へ下りて行こうとしました。その途中、山の上にさしかかりますと、今までからりと晴れ上がって明るかった青空が、ふと曇って、そこらが薄ぼんやりしてきました。「おや、雲が出たのか。」と思って、あおむいて見ますと、ちょうど伊香刀美の頭の上の空に、白い雲のようなものがぽっつり見えて、それがだんだんとひろがって、大きくなって、今にも頭の上に落ちかかるほどになりました。 伊香刀美はふしぎに思って、 「何だろう、雲にしてはおかしいなあ。」 と独り言をいいながら、じっと白いものを見つめていますと、それは伊香刀美の頭の上をすうっと流れるように通りすぎて、だんだん下へ下へと、余呉湖の方へと下って行きます。やがてきらきらと、湖の上に輝きだした春の日をあびて、ふわりふわり落ちて行く白いものの姿がはっきりと見えました。それは八羽の白鳥が雪のように白い翼をそろえて、静かに舞い下りて行くのでありました。伊香刀美はびっくりして、 「ほう、えらい白鳥だ。」 といいながら、我を忘れてけわしい坂道を夢中で駆け下りて、白鳥を追い追い湖の方へ下りて行きました。やっと湖のそばまで来ましたが、もう白鳥はどこへ行ったか姿は見えませんでした。伊香刀美はすこし拍子抜けがして、そこらをぼんやり見回しました。すると水晶を溶かしたように澄みきった湖水の上に、いつどこから来たか、八人の少女がさも楽しそうに泳いで遊んでいました。 少女たちは世の中に何にもこわいことのないような、罪のない様子で、きれいな肌を水の中にひたしていました。伊香刀美は「あッ。」といったなり、見とれてそこに立っていました。するとどこからともなくいい香りが、すうすうと鼻の先へ流れてきました。そして静かな松風の音にまじって、さらさらと薄い絹のすれ合うような音が、耳のはたで聞こえました。 気が付いて伊香刀美が振り返ってみますと、すぐうしろの松の木の枝に、ついぞ見たこともないような、美しい真っ白な着物が掛けてありました。伊香刀美はふしぎに思って、そばへ寄ってみますと、美しい着物はみんなで八枚あって、それは鳥の翼をひろげたようでもあり、長い着物のすそをひいたようでもありました。それがかすかな風に吹かれては、音を立てたり、香りを送ったりしているのです。 伊香刀美はその着物がほしくなりました。 「これはめずらしいものだ。きっとさっきの白い鳥たちがぬいで行ったものに違いない。するとあの八人の少女たちは天女で、これこそ昔からいう天の羽衣というものに違いない。」 こう独り言をつぶやきながら、そっと羽衣を一枚取り下ろして、うちへ持って帰って、宝にしようと思いました。でも水の中に居る少女たちがどうするか、様子を見届けて行きたいと思って、羽衣をそっとかかえたまま、木の陰にかくれて見ていました。 八人の少女たちはややしばらく水の中で、のびのびとさも気持ちよさそうに、おさかなのように泳ぐ形をしたり、小鳥のように舞う形をしたりして、余念なく遊び戯れていましたが、やがて一人上がり、二人上がり、松の木の下まで来ると、てんでんに羽衣を取り下ろしては、体にまといました。そして一人一人、ぱあっと羽衣をひろげては、舞い上がっていきました。 とうとう七人まで、少女たちはみんな白鳥になって空の上に舞い上がりましたが、いちばんおしまいに上がって来た八人めの少女が、見ると自分の羽衣は影も形も見えません。松風ばかりがさびしそうな音を立てていました。少女はその時、 「まあ、わたしの羽衣が。」 といったなり、あわててそこらを探しはじめました。もうその時には、仲間の少女たちは、七人とも空の上に舞い上がって、見る間に、ずんずん、ずんずん、遠くなっていきました。 「まあ、どうしましょう。羽衣がなくなっては、天へは帰られない。」 と少女はくらい目をして、うらめしそうに空を見上げました。青々と晴れた大空の上に、ぽつん、ぽつんと、白い点々のように見えていた、仲間の少女たちの姿も、いつの間にか、その点々すら見えないほどの遠くにへだたって、間には春の霞が、いくえにもいくえにも立ち込めていました。 「天にも帰られない。地にも住めない。わたしはどうしたらいいのだろう。」 と、羽衣をなくした少女は、足ずりをして嘆いていました。さっきからその様子を陰でながめていた伊香刀美は、さすがに気の毒になって、のこのこはい出して来て、 「あなたの羽衣はここにありますよ。」 といいました。 だしぬけに声をかけられて、少女はびっくりしました。それから人間の姿を見ると、二度びっくりして、あわてて駆け出そうとしました。しかしふと伊香刀美の小わきにかかえている羽衣を見ると、急に生き返ったような笑顔になって、 「まあ、うれしい。よく返して下さいました。ありがとうございます。」 といいながら、手を出して羽衣をうけ取ろうとしました。けれど伊香刀美はふと羽衣をかかえていた手を、うしろに引っ込めてしまいました。 「お気の毒ですが、これは返すわけにはいきません。これはわたしの大事な宝です。」 といいました。 いったん気の毒になって、羽衣を返そうと思った伊香刀美は、急にまたこのきれいな少女が好きになって、このまま別れてしまうのが惜しくなったのでした。 「まあ、そんなことをおっしゃらずに、返して下さいまし。それが無いと、わたしは天へ帰ることができません。」 と少女はいって、はらはらと涙をながしました。 「でもわたしはあなたを天へ帰したくないのです。それよりもわたしの所へおいでなさい。いっしょに楽しく暮らしましょう。」 と伊香刀美はいいました。そしてずんずん羽衣をかかえたまま向こうへ歩いていきました。少女はしかたがないので、悲しそうな顔をして、後からついていきました。 少女は羽衣にひかれて、とうとう伊香刀美のうちまで行きました。そして伊香刀美といっしょに、そのおかあさんのそばで暮らすことになりました。でも始終どうかして天に帰りたいと思って、折があったら羽衣を取り返して、逃げよう逃げようとしました。伊香刀美も少女の心を知っているので、羽衣をどこかへしまったまま、少女の目にはふれさせませんでした。少女は毎日のように空をながめては、人しれず悲しそうなため息をついていました。
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