二
もう日がとっぷり暮れて、夜になりました。暗い樹の間から、吹けば飛びそうに薄い三日月がきらきらと光って見えていました。保名はいつの間にか狐の行方を見失ってしまって、心細く思いながら、森の中の道をとぼとぼと歩いて行きました。しばらく行くと、やがて森が尽きて、山と山との間の、谷あいのような所へ出ました。体中にうけた傷がずきんずきん痛みますし、もう疲れきってのどが渇いてたまりませんので、水があるかと思って谷へずんずん下りていきますと、はるかの谷底に一すじ、白い布をのべたような清水が流れていて、月の光がほのかに当たっていました。その光の中にかすかに人らしい姿が見えたので、保名はほっとして、痛む足をひきずりひきずり、岩角をたどって下りて行きますと、それはこんな寂しい谷あいに似もつかない十六七のかわいらしい少女が、谷川で着物を洗っているのでした。少女は保名の姿を見るとびっくりして、危うく踏まえていた岩を踏みはずしそうにしました。それから保名の血だらけになった手足と、ぼろぼろに裂けた着物と、それに何よりも死人のように青ざめた顔を見ると、思わずあっとさけび声をたてました。保名は気の毒そうに、 「驚いてはいけません。わたしはけっして怪しいものではありません。大ぜいの悪者に追われて、こんなにけがをしたのです。どうぞ水を一杯飲ませて下さい。のどが渇いて、苦しくってたまりません。」 といいました。 娘はそう聞くと大そう気の毒がって、谷川の水をしゃくって、保名に飲ませてやりました。そしてそのみじめらしい様子をつくづくとながめながら、 「まあ、そんな痛々しい御様子では、これからどこへいらっしゃろうといっても、途中で歩けなくなるにきまっています。むさくるしい家で、おいやでしょうけれど、ともかくわたくしのうちへいらしって、傷のお手当をなさいまし。」 といいました。 保名は大そうよろこんで、娘の後についてその家へ行きました。それは山の陰になった寂しい所で、うちには娘のほかにだれも人はおりませんでした。この娘は親も兄弟もない、ほんとうの一人ぼっちで、この寂しい森の奥に住んでいるのでした。 その明くる日保名は目が覚めてみると、昨日うけた体の傷が一晩のうちにひどい熱をもって、はれ上がっていました。体中、もうそれは搾木にかけられたようにぎりぎり痛んで、立つことも座ることもできません。そこで保名は心のうちには気の毒に思いながら、毎日あおむけになって寝たまま、親切な娘の世話に体をまかしておくほかはありませんでした。 保名の体が元どおりになるにはなかなか手間がかかりました。娘はそれでも、毎日ちっとも飽きずに、親身の兄弟の世話をするように親切に世話をしました。保名の体がすっかりよくなって、立って外へ出歩くことができるようになった時分には、もうとうに秋は過ぎて、冬の半ばになりました。森の奥の住まいには、毎日木枯らしが吹いて、木の葉も落ちつくすと、やがて深い雪が森をも谷をもうずめつくすようになりました。保名はそのままいっしょに雪の中にうずめられて、森を出ることができないでいました。そのうち雪がそろそろ解けはじめて、時々は森の中に小鳥の声が聞こえるようになって、春が近づいてきました。保名は毎日親切な娘の世話になっているうち、だんだんうちのことを忘れるようになりました。それからまた一年たって、二度めの春が訪れてくる時分には、保名と娘の間にかわいらしい男の子が一人生まれていました。このごろでは保名はすっかりもとの侍の身分を忘れて、朝早くから日の暮れるまで、家のうしろの小さな畑へ出てはお百姓の仕事をしていました。お上さんの葛の葉は、子供の世話をする合間には、機に向かって、夫や子供の着物を織っていました。夕方になると、保名が畑から抜いて来た新しい野菜や、仕事の合間に森で取った小鳥をぶら下げて帰って来ますと、葛の葉は子供を抱いてにっこり笑いながら出て来て、夫を迎えました。 こういう楽しい、平和な月日を送り迎えするうちに、今年は子供がもう七つになりました。それはやはり野面にはぎやすすきの咲き乱れた秋の半ばのことでした。ある日いつものとおり保名は畑に出て、葛の葉は一人寂しく留守居をしていました。お天気がいいので子供も野へとんぼを取りに行ったまま、遊びほおけていつまでも帰って来ませんでした。葛の葉はいつものとおり機に向かって、とんからりこ、とんからりこ、機を織りながら、少し疲れたので、手を休めて、うっとり庭をながめました。もう薄れかけた秋の夕日の中に、白い菊の花がほのかな香りをたてていました。葛の葉は何となくうるんだ寂しい気持ちになって、我を忘れてうっかりと魂が抜け出したようになっていました。その時外から、 「かあちゃん、かあちゃん。」 と呼びながら、遊び疲れた子供が駆けて帰って来ました。うっとりしていて、その声にも気がつかなかったとみえて、葛の葉が返事をしないので、不思議に思って子供はそっと庭に入ってみますと、いつものように機に向かっている母親の姿は見えましたが、機を織る手は休めて、機の上につっぷしたまま、うとうとうたた寝をしていました。ふと見るとその顔は、人間ではなくって、たしかに狐の顔でした。子供はびっくりして、もう一度見直しましたが、やはりまぎれもない狐の顔でした。子供は「きゃっ。」と、思わずけたたましいさけび声を上げたなり、あとをも見ずに外へ駆け出しました。 子供のさけび声に、はっとして葛の葉は目を覚ましました。そしてちょいとうたた寝をした間に、どういうことが起こったか、残らず知ってしまいました。ほんとうにこの葛の葉は人間の女ではなくって、あの時保名に助けられた若い牝狐だったのです。狐は今日までかくしていた自分の醜い、ほんとうの姿を子供に見られたことを、死ぬほどはずかしくも、悲しくも思いました。 「もうどうしても、このままこうしていることはできない。」 こう葛の葉はいって、はらはらと涙をこぼしました。 そういいながら、八年の間なれ親しんだ保名にも、子供にも、この住いにも、別れるのがこの上なくつらいことに思われました。さんざん泣いたあとで、葛の葉は立ち上がって、そこの障子の上に、
「恋しくば たずね来てみよ、 和泉なる しのだの森の うらみ葛の葉。」
とこう書いて、またしばらく泣きくずれました。そしてやっと思いきって立ち上がると、またなごり惜しそうに振り返り、振り返り、さんざん手間をとった後で、ふいとどこかへ出ていってしまいました。 もう日が暮れかけていました。保名は子供を連れて畑から帰って来ました。母親の変わった姿を見てびっくりした子供は、泣きながら方々父親のいる所を探し歩いて、やっと見つけると、今し方見たふしぎを父親に話したのです。保名は驚いて、子供を連れて、あわてて帰って来てみると、とんからりこ、とんからりこ、いつもの機の音が聞こえないで、うちの中はひっそりと、静まり返っていました。うち中たずね回っても、裏から表へと探し回っても、もうどこにも葛の葉の姿は見えませんでした。そしてもう暮れ方の薄明りの中に、くっきり白く浮き出している障子の上に、よく見ると、字が書いてありました。
「恋しくば たずね来てみよ、 和泉なる しのだの森の うらみ葛の葉。」
母親がほんとうにいなくなったことを知って、子供はどんなに悲しんだでしょう。 「かあちゃん、かあちゃん、どこへ行ったの。もうけっして悪いことはしませんから、早く帰って来て下さい。」 こういいながら、子供はいつまでもやみの中を探し回っていました。さっき顔の変わったのに驚いて声を立てたので、母親がおこって行ってしまったのだと思って、よけい悲しくなりました。狐のかあさんでも、化け物のかあさんでもかまわない、どうしてもかあさんに会いたいといって、子供はききませんでした。 あんまり子供が泣くので、保名は困って、子供の手を引いて、当てどもなく真っ暗やみの森の中を探して歩きました。とうとう信田の森まで来ると、とうに夜中を過ぎていました。けっして二度と姿を見せまいと心に誓っていた葛の葉も、子供の泣き声にひかれて、もう一度草むらの中に姿を現しました。子供はよろこんで、あわてて取りすがろうとしましたが、いったん元の狐に返った葛の葉は、もう元の人間の女ではありませんでした。 「わたしの体にさわってはいけません。いったん元の住みかに帰っては、人間との縁は切れてしまったのです。」 と葛の葉狐はいいました。 「お前が狐であろうと何であろうと、子供のためにも、せめてこの子が十になるまででも、元のようにいっしょにいてくれないか。」 と保名はいいました。 「十まではおろか一生でも、この子のそばにいたいのですけれど、わたしはもう二度と人間の世界に帰ることのできない身になりました。これを形見に残しておきますから、いつまでもわたしを忘れずにいて下さい。」 こういって葛の葉狐は一寸四方ぐらいの金の箱と、水晶のような透き通った白い玉を保名に渡しました。 「この箱の中に入っているのは、竜宮のふしぎな護符です。これを持っていれば、天地のことも人間界のことも残らず目に見るように知ることができます。それからこの玉を耳に当てれば、鳥獣の言葉でも、草木や石ころの言葉でも、手に取るように分かります。この二つの宝物を子供にやって、日本一の賢い人にして下さい。」 といって、二つの品物を保名に渡しますと、そのまますうっと狐の姿はやみの中に消えてしまいました。
上一页 [1] [2] [3] 下一页 尾页
|