担架
防空訓練が始まつた。 筒井莞爾君は生来の病身で、会社勤めも早くから罷め、現在は、細君の稼ぎで生計を立てゝゐる有様である。細君は、それゆゑ、結婚後歯科医の免状を取つたほどの夫想ひであつた。 「ご近所ではあなたのことはみんな知つてらつしやるんだから、家にじつとしてらつしやい」 夫の古ズボンをどうやらモンペ風に直して、それをキリヽとバンドで締めたのが、女群長さんの健気ないでたちであつた。 「しかし、寝てるわけぢやないから、さうはいかんよ。監視係ぐらゐは勤まるだらう」 「いゝえ、また熱が出るから駄目……」 いつも同じことである。細君が、最後の患者に含嗽をさせ、手術着を脱いで出て行くと、その後から、きまつて、筒井莞爾君は、国民服に脚絆を巻いて、見学に出掛けて行く。 訓練はだん/\激しくなり、本格的になつて来た。女軍の奮闘は特に目覚しかつた。濡れ筵を盾にして燃えさかる焼夷弾に突進するお向ひの奥さんは、薄化粧の頬に決死の色をみせてゐた。 いよ/\、負傷者を救護所へ運ぶことになつた。急造の担架が用意され、腕つ節の強さうな二人が選ばれた。強さうなといつても、女は女である。腰を屈める形もまことに優美である。 負傷者が指名される段になつてみんなが今度は、尻ごみをした。手を放されたらおしまひといふ危険がある。 「僕ぢやどうです」 と、この時、筒井莞爾君は、意気揚々と名乗つて出た。 女たちは、互に顔を見合はせた。 「なんにもお役に立たないから、それくらゐのことでもさせて下さい」 彼はもう、担架の上に長々と寝そべつた。 一、二、三で、担架は宙に浮き、弾力ある繊手を背中に感じながら、筒井莞爾君の両眼は晴れた青空の下を滑つた。 街筋は、ものみなが動いてゐた。警防団の制服が右往左往し、ホースが水を吐き、屋根が揺れ、梢は踊つてゐた。 筒井莞爾君は、これが若し、演習でなく、ほんたうであつたらと思つた。 遠く、飛行機の爆音が聞えた。 重傷者の役は、これは訓練にははいらぬと、彼は、はじめて気がついた。 さうでなくても、病弱の悩みは、筒井莞爾君の朝夕の悩みであつた。その悩みが、この訓練の担架の上にもあつた。 雲ひとつない空の一角に、キラリと銀翼が光つた。蜻蛉のやうな三機編隊の、まつしぐらに帝都を襲ふすがたと見えた。 筒井莞爾君は、右手を縮め、左手を差出し、肩に銃を当てゝ狙ふ真似をした。先頭の一機にぴたりと照準をつけた。そして、口の中で、ズドン、ズドンと敵機撃墜の「役目」を引受けた。筒井莞爾君の眼は怒りに燃えてゐた。
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