二
しかし吉田のそんな苦しみもだんだん耐えがたいようなものではなくなって来た。吉田は自分にやっと睡眠らしい睡眠ができるようになり、「今度はだいぶんひどい目に会った」ということを思うことができるようになると、やっと苦しかった二週間ほどのことが頭へのぼって来た。それは思想もなにもないただ荒々しい岩石の重畳する風景だった。しかしそのなかでも最もひどかった咳の苦しみの最中に、いつも自分の頭へ浮かんで来るわけのわからない言葉があったことを吉田は思い出した。それは「ヒルカニヤの虎」という言葉だった。それは咳の喉を鳴らす音とも連関があり、それを吉田が観念するのは「俺はヒルカニヤの虎だぞ」というようなことを念じるからなのだったが、いったいその「ヒルカニヤの虎」というものがどんなものであったか吉田はいつも咳のすんだあと妙な気持がするのだった。吉田は何かきっとそれは自分の寐つく前に読んだ小説かなにかのなかにあったことにちがいないと思うのだったがそれが思い出せなかった。また吉田は「自己の残像」というようなものがあるものなんだなというようなことを思ったりした。それは吉田がもうすっかり咳をするのに疲れてしまって頭を枕へ凭らせていると、それでもやはり小さい咳が出て来る、しかし吉田はもうそんなものにいちいち頸を固くして応じてはいられないと思ってそれを出るままにさせておくと、どうしてもやはり頭はそのたびに動かざるを得ない。するとその「自己の残像」というものがいくつもできるのである。 しかしそんなこともみな苦しかった二週間ほどの間の思い出であった。同じ寐られない晩にしても吉田の心にはもうなにかの快楽を求めるような気持の感じられるような晩もあった。 ある晩は吉田は煙草を眺めていた。床の脇にある火鉢の裾に刻煙草の袋と煙管とが見えている。それは見えているというよりも、吉田が無理をして見ているので、それを見ているということがなんとも言えない楽しい気持を自分に起こさせていることを吉田は感じていた。そして吉田の寐られないのはその気持のためで、言わばそれはやや楽しすぎる気持なのだった。そして吉田は自分の頬がそのために少しずつ火照ったようになって来ているということさえ知っていた。しかし吉田は決してほかを向いて寐ようという気はしなかった。そうするとせっかく自分の感じている春の夜のような気持が一時に病気病気した冬のような気持になってしまうのだった。しかし寐られないということも吉田にとっては苦痛であった。吉田はいつか不眠症ということについて、それの原因は結局患者が眠ることを欲しないのだという学説があることを人に聞かされていた。吉田はその話を聞いてから自分の睡むれないときには何か自分に睡むるのを欲しない気持がありはしないかと思って一夜それを検査してみるのだったが、今自分が寐られないということについては検査してみるまでもなく吉田にはそれがわかっていた。しかし自分がその隠れた欲望を実行に移すかどうかという段になると吉田は一も二もなく否定せざるを得ないのだった。煙草を喫うも喫わないも、その道具の手の届くところへ行きつくだけでも、自分の今のこの春の夜のような気持は一時に吹き消されてしまわなければならないということは吉田も知っていた。そしてもしそれを一服喫ったとする場合、この何日間か知らなかったどんな恐ろしい咳の苦しみが襲って来るかということも吉田はたいがい察していた。そして何よりもまず、少し自分がその人のせいで苦しい目をしたというような場合すぐに癇癪を立てておこりつける母親の寐ている隙に、それもその人の忘れて行った煙草を――と思うとやはり吉田は一も二もなくその欲望を否定せざるを得なかった。だから吉田は決してその欲望をあらわには意識しようとは思わない。そしていつまでもその方を眺めては寝られない春の夜のような心のときめきを感じているのだった。 ある日は吉田はまた鏡を持って来させてそれに枯れ枯れとした真冬の庭の風景を反射させては眺めたりした。そんな吉田にはいつも南天の赤い実が眼の覚めるような刺戟で眼についた。また鏡で反射させた風景へ望遠鏡を持って行って、望遠鏡の効果があるものかどうかということを、吉田はだいぶんながい間寝床のなかで考えたりした。大丈夫だと吉田は思ったので、望遠鏡を持って来させて鏡を重ねて覗いて見るとやはり大丈夫だった。 ある日は庭の隅に接した村の大きな櫟の木へたくさん渡り鳥がやって来ている声がした。 「あれはいったい何やろ」 吉田の母親はそれを見つけて硝子障子のところへ出て行きながら、そんな独り言のような吉田に聞かすようなことを言うのだったが、癇癪を起こすのに慣れ続けた吉田は、「勝手にしろ」というような気持でわざと黙り続けているのだった。しかし吉田がそう思って黙っているというのは吉田にしてみればいい方で、もしこれが気持のよくないときだったら自分のその沈黙が苦しくなって、(いったいそんなことを聞くような聞かないようなことを言って自分がそれを眺めることができると思っているのか)というようなことから始まって、母親が自分のそんな意志を否定すれば、(いくらそんなことを言ってもぼんやり自分がそう思って言ったということに自分が気がつかないだけの話で、いつもそんなぼんやりしたことを言ったりしたりするから無理にでも自分が鏡と望遠鏡とを持ってそれを眺めなければならないような義務を感じたりして苦しくなるのじゃないか)というふうに母親を攻めたてていくのだったが、吉田は自分の気持がそういう朝でさっぱりしているので、黙ってその声をきいていることができるのだった。すると母親は吉田がそんなことを考えているということには気がつかずにまたこんなことを言うのだった。 「なんやらヒヨヒヨした鳥やわ」 「そんなら鵯ですやろうかい」 吉田は母親がそれを鵯に極めたがってそんな形容詞を使うのだということがたいていわかるような気がするのでそんな返事をしたのだったが、しばらくすると母親はまた吉田がそんなことを思っているとは気がつかずに、 「なんやら毛がムクムクしているわ」 吉田はもう癇癪を起こすよりも母親の思っていることがいかにも滑稽になって来たので、 「そんなら椋鳥ですやろうかい」 と言って独りで笑いたくなって来るのだった。 そんなある日吉田は大阪でラジオ屋の店を開いている末の弟の見舞いをうけた。 その弟のいる家というのはその何か月か前まで吉田や吉田の母や弟やの一緒に住んでいた家であった。そしてそれはその五六年も前吉田の父がその学校へ行かない吉田の末の弟に何か手に合った商売をさせるために、そして自分達もその息子を仕上げながら老後の生活をしていくために買った小間物店で、吉田の弟はその店の半分を自分の商売にするつもりのラジオ屋に造り変え、小間物屋の方は吉田の母親が見ながらずっと暮らして来たのであった。それは大阪の市が南へ南へ伸びて行こうとして十何年か前までは草深い田舎であった土地をどんどん住宅や学校、病院などの地帯にしてしまい、その間へはまた多くはそこの地元の百姓であった地主たちの建てた小さな長屋がたくさんできて、野原の名残りが年ごとにその影を消していきつつあるというふうの町なのであった。吉田の弟の店のあるところはその間でも比較的早くからできていた通り筋で両側はそんな町らしい、いろんなものを商う店が立ち並んでいた。 吉田は東京から病気が悪くなってその家へ帰って来たのが二年あまり前であった。吉田の帰って来た翌年吉田の父はその家で死んで、しばらくして吉田の弟も兵隊に行っていたのから帰って来ていよいよ落ち着いて商売をやっていくことになり嫁をもらった。そしてそれを機会にひとまず吉田も吉田の母も弟も、それまで外で家を持っていた吉田の兄の家の世話になることになり、その兄がそれまで住んでいた町から少し離れた田舎に、病人を住ますに都合のいい離れ家のあるいい家が見つかったのでそこへ引っ越したのがまだ三ヶ月ほど前であった。 吉田の弟は病室で母親を相手にしばらく当り触りのない自分の家の話などをしていたがやがて帰って行った。しばらくしてそれを送って行った母が部屋へ帰って来て、またしばらくしてのあとで、母は突然、 「あの荒物屋の娘が死んだと」 と言って吉田に話しかけた。 「ふうむ」 吉田はそう言ったなり弟がその話をこの部屋ではしないで送って行った母と母屋の方でしたということを考えていたが、やはり弟の眼にはこの自分がそんな話もできない病人に見えたかと思うと、「そうかなあ」というふうにも考えて、 「なんであれもそんな話をあっちの部屋でしたりするんですやろなあ」 というふうなことを言っていたが、 「そりゃおまえがびっくりすると思うてさ」 そう言いながら母は自分がそれを言ったことは別に意に介してないらしいので吉田はすぐにも「それじゃあんたは?」と聞きかえしたくなるのだったが、今はそんなことを言う気にもならず吉田はじっとその娘の死んだということを考えていた。 吉田は以前からその娘が肺が悪くて寝ているということは聞いて知っていた。その荒物屋というのは吉田の弟の家から辻を一つ越した二三軒先のくすんだ感じの店だった。吉田はその店にそんな娘が坐っていたことはいくら言われても思い出せなかったが、その家のお婆さんというのはいつも近所へ出歩いているのでよく見て知っていた。吉田はそのお婆さんからはいつも少し人の好過ぎるやや腹立たしい印象をうけていたのであるが、それはそのお婆さんがまたしても変な笑い顔をしながら近所のおかみさんたちとお喋りをしに出て行っては、弄りものにされている――そんな場面をたびたび見たからだった。しかしそれは吉田の思い過ぎで、それはそのお婆さんが聾で人に手真似をしてもらわないと話が通じず、しかも自分は鼻のつぶれた声で物を言うのでいっそう人に軽蔑的な印象を与えるからで、それは多少人びとには軽蔑されてはいても、おもしろ半分にでも手真似で話してくれる人があり、鼻のつぶれた声でもその話を聞いてくれる人があってこそ、そのお婆さんも何の気兼もなしに近所仲間の仲間入りができるので、それが飾りもなにもないこうした町の生活の真実なんだということはいろいろなことを知ってみてはじめて吉田にも会得のゆくことなのだった。 そんなふうではじめ吉田にはその娘のことよりもお婆さんのことがその荒物屋についての知識を占めていたのであるが、だんだんその娘のことが自分のことにも関聯して注意されて来たのはだいぶんその娘の容態も悪くなって来てからであった。近所の人の話ではその荒物屋の親爺さんというのが非常に吝嗇で、その娘を医者にもかけてやらなければ薬も買ってやらないということであった。そしてただその娘の母親であるさっきのお婆さんだけがその娘の世話をしていて、娘は二階の一と間に寝たきり、その親爺さんも息子もそしてまだ来て間のないその息子の嫁も誰もその病人には寄りつかないようにしているということを言っていた。そして吉田はあるときその娘が毎日食後に目高を五匹宛嚥んでいるという話をきいたときは「どうしてまたそんなものを」という気持がしてにわかにその娘を心にとめるようになったのだが、しかしそれは吉田にとってまだまだ遠い他人事の気持なのであった。 ところがその後しばらくしてそこの嫁が吉田の家へ掛取りに来たとき、家の者と話をしているのを吉田がこちらの部屋のなかで聞いていると、その目高を嚥むようになってから病人が工合がいいと言っているということや、親爺さんが十日に一度ぐらいそれを野原の方へ取りに行くという話などをしてから最後に、 「うちの網はいつでも空いてますよって、お家の病人さんにもちっと取って来て飲ましてあげはったらどうです」 というような話になって来たので吉田は一時に狼狽してしまった。吉田は何よりも自分の病気がそんなにも大っぴらに話されるほど人々に知られているのかと思うと今更のように驚かないではいられないのだったが、しかし考えてみれば勿論それは無理のない話で、今更それに驚くというのはやはり自分が平常自分について虫のいい想像をしているんだということを吉田は思い知らなければならなかったのだった。だが吉田にとってまだ生々しかったのはその目高を自分にも飲ましたらと言われたことだった。あとでそれを家の者が笑って話したとき、吉田は家の者にもやはりそんな気があるのじゃないかと思って、もうちょっとその魚を大きくしてやる必要があると言って悪まれ口を叩いたのだが、吉田はそんなものを飲みながらだんだん死期に近づいてゆく娘のことを想像すると堪らないような憂鬱な気持になるのだった。そしてその娘のことについてはそれきりで吉田はこちらの田舎の住居の方へ来てしまったのだったが、それからしばらくして吉田の母が弟の家へ行って来たときの話に、吉田は突然その娘の母親が死んでしまったことを聞いた。それはそのお婆さんがある日上がり框から座敷の長火鉢の方へあがって行きかけたまま脳溢血かなにかで死んでしまったというので非常にあっけない話であったが、吉田の母親はあのお婆さんに死なれてはあの娘も一遍に気を落としてしまっただろうとそのことばかりを心配した。そしてそのお婆さんが平常あんなに見えていても、その娘を親爺さんには内証で市民病院へ連れて行ったり、また娘が寝たきりになってからは単に薬をもらいに行ってやったりしたことがあるということを、あるときそのお婆さんが愚痴話に吉田の母親をつかまえて話したことがあると言って、やはり母親は母親だということを言うのだった。吉田はその話には非常にしみじみとしたものを感じて平常のお婆さんに対する考えもすっかり変わってしまったのであるが、吉田の母親はまた近所の人の話だと言って、そのお婆さんの死んだあとは例の親爺さんがお婆さんに代わって娘の面倒をみてやっていること、それがどんな工合にいっているのか知らないが、その親爺さんが近所へ来ての話に「死んだ婆さんは何一つ役に立たん婆さんやったが、ようまああの二階のあがり下りを一日に三十何遍もやったもんやと思うてそれだけは感心する」と言っていたということを吉田に話して聞かせたのだった。 そしてそこまでが吉田が最近までに聞いていた娘の消息だったのだが、吉田はそんなことをみな思い出しながら、その娘の死んでいった淋しい気持などを思い遣っているうちに、不知不識の間にすっかり自分の気持が便りない変な気持になってしまっているのを感じた。吉田は自分が明るい病室のなかにい、そこには自分の母親もいながら、何故か自分だけが深いところへ落ち込んでしまって、そこへは出て行かれないような気持になってしまった。 「やはりびっくりしました」 それからしばらく経って吉田はやっと母親にそう言ったのであるが母親は、 「そうやろがな」 かえって吉田にそれを納得さすような口調でそう言ったなり、別に自分がそれを、言ったことについては何も感じないらしく、またいろいろその娘の話をしながら最後に、 「あの娘はやっぱりあのお婆さんが生きていてやらんことには、――あのお婆さんが死んでからまだ二た月にもならんでなあ」と嘆じて見せるのだった。
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