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ある心の風景(あるこころのふうけい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-30 7:49:39 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     三

 喬はたびたびその不幸な夜のことを思い出した。――
 彼は酔っ払った嫖客ひょうきゃくや、嫖客を呼びとめる女の声の聞こえて来る、往来に面した部屋に一人坐っていた。勢いづいた三味線や太鼓の音が近所から、彼の一人の心に響いて来た。
「この空気!」とたかしは思い、耳をそばだてるのであった。ゾロゾロと履物はきものの音。間を縫って利休が鳴っている。――物音はみな、あるもののために鳴っているように思えた。アイスクリーム屋の声も、歌をうたう声も、なにからなにまで。
 小婢こおんなの利休の音も、すぐ表ての四条通ではこんなふうには響かなかった。
 喬は四条通を歩いていた何分か前の自分、――そこでは自由に物を考えていた自分、――と同じ自分をこの部屋のなかで感じていた。
「とうとうやって来た」と思った。
 小婢が上って来て、部屋には便利炭のろうが匂った。喬は満足に物が言えず、小婢の降りて行ったあとで、そんなすぐに手の裏返したようになれるかい、と思うのだった。
 女はなかなか来なかった。喬は屈託した気持で、思いついたまま、勝手を知ったこの家の火の見へ上って行こうと思った。
 朽ちかけた梯子はしごをあがろうとして、眼の前の小部屋の障子が開いていた。なかには蒲団が敷いてあり、人の眼がこちらをにらんでいた。知らぬふりであがって行きながら喬は、こんな場所での気強さ、と思った。
 火の見へあがると、この界隈かいわいを覆っているのは暗いいらかであった。そんな間から所どころ、電燈をつけた座敷がすだれ越しに見えていた。レストランの高い建物が、思わぬところから頭を出していた。四条通はあすこかと思った。八坂神社の赤い門。電燈の反射をうけてほのかに姿を見せている森。そんなものがいらか越しに見えた。夜の靄が遠くはぼかしていた。円山、それから東山ひがしやま。天の川がそのあたりから流れていた。
 たかしは自分が解放されるのを感じた。そして、
「いつもここへは登ることに極めよう」と思った。
 五位が鳴いて通った。すす黒い猫が屋根を歩いていた。喬は足もとにすがれた秋草の鉢を見た。
 女は博多から来たのだと言った。その京都言葉に変な訛りがあった。身嗜みだしなみが奇麗で、喬は女にそう言った。そんなことから、女の口はほぐれて、自分がまだ出て※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそうだのに、先月はお花を何千本売って、このくるわで四番目なのだと言った。またそれは一番から順に検番に張り出され、何番かまではお金が出る由言った。女の小ざっぱりしているのはそんな彼女におかあはんというのが気をつけてやるのであった。
「そんなわけやでうちも一生懸命にやってるの。こないだからもな、風邪ひいとるんやけど、しんどうてな、おかあはんは休めというけど、うちは休まんのや」
「薬は飲んでるのか」
「うちでくれたけど、一服五銭でな、……あんなものなんぼ飲んでもきかせん」
 喬はそんな話を聞きながら、頭ではS―という男の話にきいたある女の事をおもい浮かべていた。
 それは醜い女で、その女を呼んでくれと名を言うときは、いくら酔っていてもはずかしい思いがすると、S―は言っていた。そして着ている寝間着のきたないこと、それは話にならないよと言った。
 S―は最初、ふとした偶然からその女に当り、その時、よもやと思っていたような異様な経験をしたのであった。その後S―はひどく酔ったときなどは、気持にはどんな我慢をさせてもという気になってついその女を呼ぶ、心が荒くなってその女でないと満足できないようなものが、酒を飲むと起こるのだと言った。
 たかしはその話を聞いたとき、女自身に病的な嗜好しこうがあるのなればとにかくだがと思い、畢竟ひっきょう廓での生存競争が、醜いその女にそのような特殊なことをさせるのだと、考えは暗いそこへ落ちた。
 その女は※(「病」の「丙」に代えて「亞」、第3水準1-88-49)おしのように口をきかぬとS―は言った。もっとも話をする気にはならないよと、また言った。いったい、やはり※(「病」の「丙」に代えて「亞」、第3水準1-88-49)の、何人位の客をその女は持っているのだろうと、その時喬は思った。
 喬はその醜い女とこの女とを思い比べながら、耳は女のおしゃべりに任せていた。
「あんたは温柔おとなしいな」と女は言った。
 女の肌は熱かった。新しいところへ触れて行くたびに「これは熱い」と思われた。――
「またこれから行かんならん」と言って女は帰る仕度をはじめた。
「あんたも帰るのやろ」
「うむ」
 喬は寝ながら、女がこちらを向いて、着物を着ておるのを見ていた。見ながら彼は「さ、どうだ。これだ」と自分で確めていた。それはこんな気持であった。――平常自分が女、女、と想っている、そしてこのような場所へ来て女を買うが、女が部屋へ入って来る、それまではまだいい、女が着物を脱ぐ、それまでもまだいい、それからそれ以上は、何が平常から想っていた女だろう。「さ、これがの腕だ」と自分自身で確める。しかしそれはまさしく女の腕であって、それだけだ。そして女が帰り仕度をはじめた今頃、それはまたの姿をあらわして来るのだ。
「電車はまだあるか知らん」
「さあ、どうやろ」
 たかしは心の中でもう電車がなくなっていてくれればいいと思った。階下のおかみは
「帰るのがおいやどしたら、朝まで寝とおいやしても、うちはかましまへん」と言うかも知れない。それより「誰ぞをお呼びやおへんのどしたら、帰っとくれやす」と言われる方が、と喬は思うのだった。
「あんた一緒に帰らへんのか」
 女は身じまいはしたが、まだ愚図ついていた。「まあ」と思い、彼は汗づいた浴衣ゆかただけは脱ぎにかかった。
 女は帰って、すぐ彼は「ビール」と小婢こおんなに言いつけた。

 ジュ、ジュクと雀の啼声なきごえとゆにしていた。喬は朝靄あさもやのなかに明けて行く水みずしい外面を、半分覚めた頭に描いていた。頭を挙げると朝の空気のなかに光の薄れた電燈が、睡っている女の顔を照していた。
 花売りの声が戸口に聞こえたときも彼は眼を覚ました。新鮮な声、と思った。さかきの葉やいろいろの花にこぼれている朝陽の色が、見えるように思われた。
 やがて、家々の戸が勢いよく開いて、学校へ行く子供の声が路に聞こえはじめた。女はまだ深く睡っていた。
「帰って、風呂へ行って」と女は欠伸あくびまじりに言い、束髪の上へ載せる丸く編んだ毛を掌に載せ、「帰らしてもらいまっさ」と言って出て行った。たかしはそのまままた寝入った。

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