偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道(ぐうじんしんこうのみんぞくかならびにでんせつかせるみち)
一一 箱の中の人形雛祭りに関聯して、是非考へて置きたいものは、ちぎびつである。今でも雛壇には、此が持ち出されるが、昔は、此に雛祭りの調理を詰めて、育てゝくれた乳母などへ、くばりものをした。何故此が、雛祭りに持ち出されるのか、其には理由があると思ふ。一つの想像は、此ちぎびつと、雛の正体との関係で、其はよほど、密接だつたらうと言ふ事である。私をして言はしめれば、ひなは、ちぎびつからは離す事の出来なかつたものである。雛祭りには、此が出なければならなかつたのである。元来は、ちぎびつの中にひなが入れられて居たのだ、と考へてよい。其には、段々証拠がある。譬へば、くゞつの道具を見ても訣る。或器物の中に、神霊が入れられてあつて、呪術の必要から、其がとり出される。かう言ふ事は、何事にも類例はあると思ふ。此霊物は、出さないで神力あるものと、取り出して、神秘な動作をする事によつて、其が現れるものと、二様に見られる訣だが、或旅行用具、或は其が変つて来た神聖な箱の中に、神霊を入れた例は、幾つかある。此の更に進化したものが、傀儡子の胸にかけた箱である。要するに、海の神人の持つたくゞつ・山の神人の持つたほかゐなども、同じ性質のものと見られる。沖縄本島首里の石嶺に、行者(アンニヤ)村と言ふ部落があつて、其所に念仏者(ニンブチヤ)と称する者が居るが、此家には、内地の後世の人形遣ひ・傀儡子の歴史を考へる上に、非常に暗示を含んだ遺物を存して居る。大正十年に、私が此村を訪ねた翌年、宮良当壮君が、又訪ねた。此話は、炉辺叢書に譲つていゝ程、詳しい記録をとつて来てくれた。たゞ私が、初めて此部落を、訪れた時の実感を申すと、沖縄には、石嶺の外にも、地方に分散してゐる念仏者があつた様だが、此村の念仏者は、毎年春になると、沖縄中を廻つたものらしい。彼等は、前面の開いた箱を首にかけて、其中で、小さな人形を踊らせる。注意すべき事は、其箱をば、てらと言うてゐる。沖縄では、普通日本の神をかんげんとして祀つた社の外は、ほこら・祀堂に通じて、すべて、てらと称して居るので、行者村の入り口にある阿弥陀堂を、やはりてらと称して居る。だから、行者の首にかけてゐる箱は、つまり社であり、堂である訣だ。其中で、人形を踊らせるのだから、此には芸能以上の意味を以つて、考へられたものがあつた、と見なければならない。併し、我々に訣つてゐるところでは、彼等の行うた人形芝居は、宗教劇には関係がない様である。主として京太郎(チヨンダラ)と言ふ日本(ヤマト)の若衆をば、主人公にしたものである。沖縄では、此京太郎と言ふ人形と、其を舞はす人とを一つにして、考へてゐる形跡が、明らかである。京太郎とは、継母・継子で内地から流れて来た者だ、と言うて居るが、其には、一種の政治上の目的を持つて居た――薩摩が攻めて来る前に、沖縄の土地へ探索に来た――と考へて居る。行者村を、特殊部落扱ひにして居るのは、此国を売つた恨み・憎しみだとしてゐる。 一二 念仏聖と人形舞はしと京太郎(チヨンダラ)と言ふ戯曲は、元、内地のお伽仮名草紙にあつたものに相違ない。しらゝ・おちくぼ・京太郎と並び称せられて居た位だから、いづれ、継母・継子の話だつたのだらう。継母・継子の話は、平安朝頃からあるが、男の子を苛める話は、鎌倉時代からゝしい。此話を、かなり早い時代――薩摩の琉球攻め以前――に、念仏聖(ネンブツヒジリ)の徒が、人形を舞はしながら、持つて行つた。それが人気を集めたので、後々までも、人形舞はしの事を京太郎、と言ふ様になつたのであらう。彼等が持つて居る歌を見ると、念仏系統の歌――寧、口説(クドキ)風の歌――が多い。外には、万歳の様なことほぎの歌、それから、万歳のくづれの様なものもある。どうしても、念仏聖の持つて行つたものと言ふことが考へられるのである。念仏聖の事は言ひ尽し難いが、此から喜劇的のものが生れて来た事だけは考へてよい。壬生狂言の如き黙劇も、此から生れて居る。又、親友さへも認めてくれないで居るけれども、此が田楽に融合して居るのは事実が証明して居る。その外、木遣り・伊勢音頭の類を見ても、念仏の影響してゐる事は容易に考へられる。又、万作踊りを見ても、四竹(ヨツダケ)踊りを見ても、念仏の末流と言ふ事を考へないでは訣らないと思ふ。とにかく、近世の芸能の上に、どの位念仏が影響して居るかは、想像に能はない位である。沖縄の念仏者はたゞ人形芝居を持つて居るだけだから、此二つには関係がないとは言へまいと思ふ。此念仏者の歌を見ると、京太郎の外にも尚継母(マヽウヤ)系統のものが若干ある。継母に苦しめられた、苦しい悲惨な子供の事を説いて、仏道に帰依させようとした形跡が十分考へられる。さうした人形の遣はれる箱が堂であり、宮である意味のてらである。私は、此事実から、我国に於ても、宮・寺の奴隷など、各種の宗教家が、各地に自分々々の宗教を宣伝して歩いたと同時に、小さな人形を箱の中に入れて踊らしたと言ふ事を考へて見る。問題は、箱の中から手を出したか、箱の中で踊らしたかである。書物の上では、箱の中から手を出して、其が発達した様に見えて居るけれども、此行者(アンニヤ)の持つて居るものを見ても想像出来る様に、箱の中が、即宗教の世界であつたのだから、其中で踊らした、と言ふ事だつてなかつた、とは言はれまいと思ふ。昔の浄瑠璃説教の人形芝居でも、手摺(テスリ)を主として居るばかりではない。水ひき幕が其上にある。この水ひき幕と手摺(テスリ)との空間が、人形の世界で、即、箱の面影を止めたものなのであらう。水ひき幕の書いてないものもあるが、其は、本式ではない様である。かうした人形遣ひが、国中を廻つて、宗教味の浅い、教訓味を持つた歌を歌ひながら、人形を舞はしたものらしい。何と言つても、文献だけでは、頼みにならない。我々が、民間伝承の採訪に努力する所以である。 一三 おひら様と熊野神明の巫女人形を神霊として運ぶ箱の話では、更にもう一つのものに就いて、述べて置きたい。恐らく本論文集では、皆さんの興味の中心になつて居ると思ふが、それは奥州のおしら神である。金田一京助先生の論文で拝見すると、おしらはおひらと言ふのが正しい。おしらと言ふのは、方言を其まゝ写したのだ、と説かれてゐる。この所謂おひら様は、いつ奥州へ行つたものか、此は恐らく、誰れにも断言の出来る事ではないと思ふが、少くとも、此だけの事は言へさうだ。元来、東国にかう言ふ形式のものがあつたか、其とも古い時代に、上方地方から行つた旧信仰が止まつたか、或は其二つの融合したものか、結局此だけに落ちつく様である。私は、其考へのどれにでも、多少の返答を持つてゐる。先、誰にでも這入り易いと思ふ事から言うて見ると、おひら様と言ふ物は、熊野神明の巫女(ミコ)が持つて歩いた一種の、神体であつたらうと思ふ。熊野神明と言ふのは、伊勢皇大神宮でない、紀州に於ける一種の日の神である。即、宣伝者が、神明以外に、他の眷属を持つて歩いた。的確な例は、浅草の三社権現である。三社とは、浅草観音の本地たる熊野神明に、其眷属とも言ふべき三つの神が附属した事で、日前(ヒノクマ)神宮と関係のある、三体の神だつたのである。其が後には、浅草観音を探り出した三人の兄弟と言ふ風に、説話化されたのである。おひら様なるものも、熊野神明其ものではなく、神明の一つの眷属で、神明信仰を宣伝して歩く巫女に、直接関係を持つた精霊――神明側から言うて――であつたと思はれる。神明の外に、神明のつかはしめとも言ふべきものがあつた。それがおひら神であつたのだ。おひら様と言ふ言葉については、古くから、私はひなの音韻変化だと考へて居た。たゞ、何故かうした桑の木でこしらへた人形にまで、ひなと言ふ名を負はせたか。その点になると、ひなの語原について、訣つて居ない我々には、説明のしようがない。併し、尠くとも、この人形には、足は勿論手もないが、其を巫女が遊ばせる――舞はせる――ことが、一つの条件であつたとだけは、考へる事が出来る。この点からならば、尠くも、一つの論が、進められない事もない。にこらい・ねふすきい氏が、磐城平で採集して来られたおひら様の祭文と称するものを見ると、此は或時代に、上方地方で、やゝ完全な形に成立した、簡単な戯曲が、人形の遊びの条件として行はれて居た事が察せられる。即、これはおひら様の前世の物語で、本地物語とも言ふべきものが、随伴して居つた訣である。
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