偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道(ぐうじんしんこうのみんぞくかならびにでんせつかせるみち)
三 才の男・細男・青農才の男は、せいのうとも発音したらしい。青農と書いたものがある。又、細男と書いて、せいのうと訓ませても居る。共に、此場合は、多く人形(ニンギヤウ)の事の様であるが、才の男の方は、人である事もあつた。平安朝の文献に、宮廷の御神楽(ミカグラ)に、人長(ニンヂヤウ)の舞ひの後、酒一巡して、才の男の態がある、と次第書きがある。此は一種の猿楽で、滑稽な物まねであつたと思はれる。「態」とあるによつて、わざ・しぐさを、身ぶりで演じた事が示されて居る。この「態」の略字が「能」である。田楽能・猿楽能など言ふ、身ぶり狂言の能は、此から来た。併し、宮廷の御神楽に出る、才の男が人間であるのは、元偶人が演じた態を、人間がまねたのだと考へられる。一体、今日伝はる神楽歌は、石清水(イハシミヅ)系統のものである。此派の神楽では、才の男同時に青農で、人形に猿楽を演ぜしめたのであらう。だから才の男は、人形であるのが本態で、宮廷の御神楽に出る才の男が人間であるのは、其変化である、と見る考へはなり立つと思ふ。神楽に出る才の男が、猿楽風に物まねをするのは、神の暗示を具体化する、副演出と見る事が出来る。此は元来、才の男が精霊役で、別に、此に対する神があり、神がして、才の男がわきと言ふ風に、対立して演じた事から生じた、と解すればよい。併し、神・精霊の考へは、常に変化転換して居る。譬へば、宇佐八幡と関係の深い、筑前志賀(シカ)ノ島(シマ)の祭りに、人形を船に乗せて、沖に漕ぎ出で、船の上から、海底を(ノゾ)かせる式がある。海の精霊を、祭りに参与せしめる為の、お迎へ人形であるから、元来は海底の神が精霊である訣だが、この場合には、お迎へ人形の方が、精霊の位置に変る。併し、更に考へて見ると、海底の精霊と言ふのが、実は、嘗ては、他界から来る権威ある神であつたのだ。又、さうした事は、逆にも行はれて居る。宇佐八幡に対すると、志賀ノ島の海底神は、精霊の大なるもの、と言ふ事になるのである。此から、阿度目(アドメ)ノ磯良(イソラ)――後に人と考へる様になつて、磯良丸とも言ふ――を考へる様になつた。磯良は、海底を支配する海人の神だ、と言はれて居る。此名に関係のあるものでは、神楽歌に磯良前(イソラガサキ)がある。「いせじまやあまのとねらがたくほのけいそらがさきに云々」と言ふので、此歌だけで見ると、阿度目ノ磯良と、別に関係はない様であるが、元はあつたに相違ない。神楽の最初に「阿知女々々々於々々(アヂメアヂメオヽヽ)」とある阿知女作法と言ふのは、太平記が伝へる名高い伝説でも、想像が出来る様に、「阿知女々々々」は磯良を呼ぶので、「於々々」は磯良の返答である。或は、人長と才の男と言うた様な対立で、演じたものであつたかも知れない。とにかく、磯良の出現によつて、此儀式の始まつた元の記憶だけは、止めて居たと見られる。原意は、既に忘却を重ねた後にまでも、尚、此を繰り返して居たのである。阿知女を鈿女(うずめ)だとする説もあるが、阿知女・阿度女は、海人(アマ)の宰領である、安曇(アヅミ)氏の事でなければならない。磯良が、海底を支配する海人(アマ)の神だ、と言ふ伝説の意味も、それで訣る。私の考へ方としては、海の神の信仰が山の神の信仰に移つたとするのであるから、譬ひ磯良の信仰には、更に、山の大人(オホビト)の考へをば、反映して居るとしても、根本的には、古いものと見られる。 四 くゞつと人形との関係民間信仰・民俗芸術の上の諸相は、単純化の容易に行はれるものではない。けれども、仮りに、簡単な形を考へて見るとしたら、才(サイ)の男(ヲ)は、海系統のもの、大人(オホビト)は山系統のものと見てよいであらう。でも、此二つは、元はやはり、一つ考へのものでなければならない。この才の男の末が、二つに分れて、一つは、傀儡子の手に移つて、てくゞつから、次第々々に、木偶(デク)人形となつた。てくゞつ人形の略語が、でく人形となつたのであらう。今一流は、早く大人(オホビト)と融合して、大社々々の細男・青農となつた。細男側の才の男は、離宮(リキウ)八幡のものゝ様に、手の動くものもあるが、多くは、単なる偶像となつて、形の上から見ると、恰も、一つものゝ人形と同じ様に、祭りの行列の最初に練(ネ)つて行く。一つものにも、人形と人間との二通りがある。従来の考へ方では、此は尸童(ヨリマシ)系統のものであるから、人間を本態とする事になつて居るが、併し、人形を以つてする形式も多い事だし、旁(かたがた)、どちらを先ともきめられない様である。志賀(シカ)ノ島(シマ)の祭りに、お迎へ人形の出ることは、海部(アマベ)の民と、八幡神の信仰とが結びついて居る、一つの記念と見られる。海部の民も、人形(ニンギヤウ)を重んじた。これが、くゞつの人形舞はし・ゑびすかきにまで、続くのである。くゞつと人形との関係は、平安朝中期以後の材料と、遥かに時代の離れた戦国以後の材料とをつき合せて、其間の連絡をつけるより為方がないほど、中間が空白になつて居る。だが、旧来の考への様に、人形芝居は、西の宮・淡路の芸能人によつて始まつた、などゝは言へない事である。其間のつなぎには、百太夫――漢文式に表現して百神とも――と称するものが実在する。此民の持つて歩いた人形と言ふのは、恐らく、もと小さなものであつて、旅行用具の中に納めて、携帯する事が出来たのだと思ふ。さうした霊物を入れる神聖な容器が、所謂、莎草(クヾ)で編んだくゞつこであつたのだらう。さう考へて見ると、此言葉の語原にも、見当がつく。くゞつは、くゞつこ・くゞつとの語尾脱略ではないだらうか。恰も、山の神人の後と考へてよいほかひゞとの持つ行器が、神聖なほかゐである様に、海の神人の持つ神聖な袋が、くゞつこであり、其に納まるものが、霊なるくゞつ人形(ヒトガタ)であつたのだらう。でく、或はでこの元の形であるてくゞつ人形(ニンギヤウ)は、手をもて遣ふ義か、それとも、手のある人形の義であつたか、此は日本の人形史を研究する上では、注意すべき大切な事だと思ふ。いはゞ、一つ事ではあるけれども。
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