8
オトラが居なくなると、君枝はふたたびしょんぼりした娘になってしまった。 他吉の俥のあとに随いて走りながら、陰気な唇を噛み続け、笑い顔ひとつ見せなかった。 ところが、半年ほど経ったある日のことである。 〆団治は君枝と次郎を千日前へ遊びに連れて行った。 そして竹林寺の門前で鉄冷鉱泉(むねすかし)をのみ、焼餅を立ちぐいしていると、向い側の剃刀屋から、 「し、し、し、〆さんとち、ち、ちがうか」 と、言いながら出て来た男がある。 「なんや、維康さんかいな。えらいとこで会うたな」 いつか柳吉は蝶子といっしょに河童路地へ来たことがあり、その時の顔馴染みであった。 「――この頃どないしたはりまんねん?」 〆団治が言うと、柳吉は照れくさそうに、 「い、い、い、いま、この向いの、か、か、剃刀屋に働いてまんねん」 「さよか、そら宜しおまんな。蝶子はんも喜びはりまっしゃろ、あんたが働く気になって……。どないだ? 餅ひとつ」 「い、い、いや、もう、毎日向いでな、な、ながめてたら、食う気起りまへんさかい。た、た、た、種はんによろしゅう言うとくなはれ」 「よろしおま。ちとまたどうぞ路地へも遊びに来とくなはれ。蝶子はんによろしゅう」 柳吉と別れて、電気写真館の前まで来ると、〆団治は自分の宣伝写真でも出てないやろかと、ふと陳列窓を覗いてみて、急に大声だした。 「君ちゃん。見てみイ、お前のお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]とお母(か)んの写真が出てるぜ」 新太郎が町内のマラソン競争で優勝した時の十八年前の記念写真が、変装写真や俳優の写真にまじって、三枚四十銭の見本の札をつけて、陳列してあったのだ。 出張撮影らしく、決勝点になっている長願寺の境内で、優勝旗をもってランニングシャツ姿で立っているのを、ひきまわした幕のうしろから、君枝の母親の初枝が背のびしてふと覗いている顔が、半分だけ偶然レンズのなかにはいっている。 たしか、まだ結婚前だったらしく、そんなことから二人の仲がねんごろになったのだろうかと、〆団治はなつかしかった。 初枝は桃割れに結って、口から下は写っていなかった。 「お父ちゃん、いたはる、しやけど、髭生やしたはれへんな」 「当り前や。二十六やそこらで髭生やすのは東西屋だけや」 「あ、お父ちゃん、お父ちゃん」 君枝はおどりあがっていたが、急に、 「――お母ちゃん居たはれへんわ」 しょげた。すると、次郎が、 「居てる、居てる、これや、ここをよう見てみイ、ほら、この幕のうしろからちょびっと顔だしてるやろ? わい、君ちゃんとこのお母んよう知ってるぜ。これや、これや、なあ、〆さん」 「そや、そや」 君枝はじっとみつめていたが、 「ああ、居たはる、居たはる、お母ちゃん髪結うたはる。お父ちゃんもお母ちゃんも居たはる」 そして、きんきんした声で、 「――わて、もう親なし子やあれへんなア。もう、誰も親なし子や言うて虐めたら、あけへんし」 その日から、君枝はだんだん明るい子になり、間もなく行われた運動会の尋二徒歩競争では、眼をむき、顎をあげて、ぱっと駈けだし、わてのお父ちゃんはマラソンの選手やった、曲り角の弾みでみるみる抜いて一着になった。 他吉は父兄席で見ていて、顔じゅう皺だらけの上機嫌だった。けれど、ふと、 「あの娘はいつも人力車のうしろに随いて走ってるさかい、一等になるのん当りまえのこっちゃ」 という囁きが耳にはいると、他吉は、 「それもそや。どや、わいの仕込み方はちがうやろ」 と胸を張る前に、なにか遠い想いに胸があつく、鉛筆の賞品を貰ってにこにこしている君枝を、くしゃくしゃに揉んで骨の音がするくらい抱きしめてやりたいくらいの、愛しさにしびれた。 ところが、その他吉がその夜君枝に向っていうには、 「お前ももう走りごく[#「走りごく」に傍点]で一等をとるぐらいの元気があんネやさかい、明日(あした)から学校をひけて来たら、日の丸湯の下足番しなはれ。わいが日の丸湯の大将によう頼んどいて来たったさかい」 びっくりするような、きびしいいいつけで、聴きつけた〆団治が、 「他あやん、お前なんちゅうむごたらしいこと言うネや。眼に入れても痛いことないいうこの子を……お前、気でも狂たんとちがうか。何もこの子に下足番ささんでも、食べて行けるやろ」 と、言うと、他吉は、 「お前は黙っとりイ。お前は寄席で喋ってたらええのや。一文の金にもならんことを、そうぺらぺら喋んな、だいたいお前は昔からわいの言うこというたら、いちいち逆らうけど、ほんまに難儀な男やぜ。えらい奴の隣りに住んでしもたもんや」 と、言った。さすがに〆団治はむっとして、 「そら、こっちの言うこっちゃ、わいも永年お前の隣りに住んでるけど、お前がこんな訳のわからん男とは知らなんだ。ああ、黙ってたるとも。お前らのまえでこれから物言うかい、お前のまえで屁もこけへんぞ」 と、出て行ったが、すぐ戻って来ると、 「――他あやん、まあ考えてみイ。この子まだ十やぜ。こんな歳でお前、下足番が出来るかいな。わいが頼むさかい、堪忍したりイ」 「〆さん、言うとくけどな、わいはこの子が憎うて、下足番させるのんと違うぜ。この子が可愛いさかい、させるねんぜ。君枝、お前もようきいときや。人間はお前、らく[#「らく」に傍点]しよ思たらあかんねんぜ。子供の時からせえだい働いてこそ、大きなったら、それが皆自分のためになるねや。孔子さんかテそない言うたはる」 「ほんまかいな、他あやん、孔子さんがそんなこと言うたはるて、こら初耳や。おまはんえらい学者やねんな」 「言うたはれいでか。楽は苦の種、苦は楽の種いうて、言うたはる」 「阿呆かいな」 と、〆団治はあきれたが、〆団治も〆団治で、 「――そら、お前、大石内蔵之助[#「蔵之助」は底本では「藏之助」となっている]の言葉や」 「まあどっちでもええ、とにかく、人間はらくしたらあかん。らくさせる気イやったら、わいはとっくにこの子を笹原へ遣ったアる。しかし、〆さん、笹原の小倅みてみイ、やっぱり金持の家でえいよう[#「えいよう」に傍点]に育った子オはあかんな。十やそこらで、お前、日に二十銭も小遣い使いよる言うやないか、こないだ千日前へひとりで活動見に行って、冷やし飴五銭のみよって、種さんとこの天婦羅十三も食べよって、到頭下痢(はらく)になって、注射うつやら、竹の皮の黒焼きのますやら、えらい大騒動やったが、あんな子になってみイ、どないもこないも仕様ない。親も親や、ようそんだけ金持たしよるな」 それに比べると、うちの子はちがう、学校がひけてから三助が湯殿を洗う時分まで、下足をとって晩飯つきの月に八十銭だと、他吉の肚はもう動かず、翌日から君枝は日の丸湯へ通いで雇われた。 学校をひけて帰ると、ひとけのない家のなかでしょんぼり宿題をすませる。それから日の丸湯へ行き、腹の突きでた三助の女房に代って、下足の出し入れをするのだ。 履物を受け取って下足札を渡し、下足札を受け取って履物を渡す――これだけの芸は間誤つきもせずてきぱきとやれ、小柄ゆえ動作も敏捷に見えたが、しかし、できるだけ大きな声でといいつけられた――。 「おいでやす」 「毎度おおけに」 この二つはさすがにはじめのうちは、主人から苦情が出た。 夜、立て込む時間はまるで客の顔が見えず、血走った眼玉で、下足札の番号をにらみつけ、しきりに泡食っていた。 ことに雨降りの晩は傘の出し入れもしなければならず、濡れた傘のじっとりした手ざわりがたまらなかった。 冬がいちばん辛かった。手足の先がチリチリ痛むのだった。客がはいって来るたびに、さっと吹きこんで来る冷たい風だ。客は戸をしめるのを忘れた。いちいちそれを閉めに立った。その都度、鼻の先がチカチカ痛みをもった。 矢張り悲しかった。 けれど、他吉は夜おそく身をこごめて日の丸湯の暖簾をくぐる時、自身で草履をしまい、ろくろく君枝の顔をよう見なんだ。 君枝が渡す下足札を押しいただいて受けとり、その手は血の色もなく静脈が盛り上って、かさかさと土のようで、子供心に君枝は胸が痛み、ひとびとが言うほど自分が祖父から辛く扱われているとは、思えなんだ。 むしろ、このように働くのを自分の運命だと、君枝はなにか諦めていたようだったが、けれどただひとつ、昼間客のすくない時の退屈さは、なんとも覚えのない悲しさで、ガラス戸越しに表通りを見るともなく見て、無気力な欠伸をはきだしていると、泣きたくなった。 そうして、いつかしくしく泣きながら居眠ってしまうのだが、そんな時いつも起してくれるのは、ガラス戸の隙間にシュッと投げ込まれる夕刊の音だった。 「あ、次郎ぼん!」 外は寒かったが、表へ出て見ると、風が走り、次郎の姿はもう町角から消えていて、犬の鳴声が夕闇のなかにきこえた。 しかし、次郎はもう犬をこわがる歳でもなく、間もなく夕刊配達をよして、東京へ奉公に行った。
9
十姉妹が流行して、猫も杓子も十姉妹を飼うた。榎路地の歯ブラシの軸の職人は、逃げた十姉妹を追うて、けつまずいて、足を折り、一生跛になった。〆団治は二羽飼うて、すぐ死なし、二円五十銭の損であった。が、儲けた人も随分多く、谷町九丁目のメタル細工屋の丁稚は、純白の十姉妹を捕えて、一財産つくり、大島の対を着て、丹波へ帰って行ったと、大変な評判であった。 ある日、他吉が口繩坂の上を空の俥をひいて、通りかかると、坂の下から、 「十姉妹や」 「十姉妹や」 声をかさねて、ひとびとがまるでかさなりあいながら、駈けのぼって来た。 「――阿呆な奴らや。なにを大騒ぎさらしてけつかる」 他吉は綿を千切って捨てるように、呟いたが、途端に、他吉のふところへ、追われた十姉妹が飛び込んで来た。 真っ白だ。 咄嗟に手を伸ばしたが、十姉妹はすっと飛び去った。 「しもた!」 他吉は叫んで、俥をおっぽり出して、推寺町から大江神社の境内まで追うたが、ふところに君枝に買うてやった空気草履がはいっているのに気をとられて思うように走れず、到頭逃がしてしまった。 そして、もとの場所へ戻って来ると、俥が見えない。他吉は蒼くなった。 その夜、他吉は日の丸湯へ来なかった。朝出しなに、 「今日は空気草履買うて来たるぜ。日の丸湯へもって行ったるさかい、待ってや」 と、言った祖父の言葉をあてにして、君枝はいま来るか、いま来るかと日の丸湯の下足場でちいさな首をながくしていたが、来ず、空しく十二時をきいた。 「お祖父やんのけちんぼ」 君枝は給料のほか盆正月の祝儀など、収入(みい)りの金は一銭も手をつけず、そっくりそのまま他吉に渡していたが、他吉は黙って受けとり、腹巻きに入れてしまうと、そのうちの一銭、二銭を、玉焼きでも買いイなと出してくれた例しもなく他のことは知らず、金のことになるとまるで人が変ったようになる日頃の他吉の気性を子供心に知っていたから、日の丸湯の暖簾を入れて飛んで帰ると、思わずそんな言葉が出た。 「――嘘ついたら、エンマはんに舌抜かれるし」 そして、上ると、他吉はもう蒲団をかぶって寝ていて、枕元にコンニャクの形の空気草履が並べて置いてあった。 それでは、お祖父やんはびっくりさせようと思って、わざと日の丸湯へ来ず、枕元に置いて、自分は寝た振りしているのだろうと、君枝は思って、こっそり空気草履を足にひっかけ、部屋の中をあるきながら、 「ああ、良え音するわ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、この音寝てる人に聴えへんのやろか」 遠まわしに他吉を起すと他吉は、 「聴えることは聴えるけどな……」 精の抜けた寝がえりを打って、しょんぼりした顔をふわーっと、蒲団からだした。そして、言うことには、 「――君枝お前は感心な奴ちゃな。文句もいわんと毎日よう動(いの)いてくれる。それやのに、わいはなんちゅうど阿呆[#「ど阿呆」に傍点]やろ。ほんまに子供のお前に恥かしいわ」 「お祖父やん、どないかしたんか。草履買うて釣もらうのん忘れたんか」 「それどころの騒ぎやあるかい」 他吉は大人に物言うような口調になり、 「――阿呆の細工に、十姉妹追いかけてる隙に、俥盗られてしもてん。えらいことになってしもた。明日から商売でけん」 だから、日の丸湯へ顔出しする元気もなく、こうやって蒲団かぶって寝ていたのだと、ぶつぶつ言うと、君枝はぺたりと尻餅ついて、ああ、えらいことになってしもたと、子供心にこたえたようだった。 俥がなくては商売が出来ず、まる二日は魂が抜けたようになって、あちこち探しまわったり、 「ああ、もう焼糞や。焼の勘八、日焼けの茄子や」 と言いながら、畳の上に仰向けになってごろんごろんしていた。 が、三日目の黄昏前、君枝がさすがに浮かぬ顔をして下足の番をしていると、
「えーうどんの玉ア あつあつのお玉ちゃん 白い着物(べべ)きて朝から晩まで湯にはいり つるつるの肌した 別嬪ちゃんのお玉ちゃん 十オあって五銭」
と触れ歩いている声がきこえ、よく聴くと他吉の声だった。 もう腰の曲る歳で、荷が重いらしく、声もしわがれていた。 「まいどおおけに」 下足を渡して、客の出たあとより飛んで出ると、他吉はにこにこしながら、 「どや似合うか」 「よう似合(にお)てるわ」 君枝の声に合わせて、種吉も天婦羅あげながら、 「他あやん、おまはんその方がよう似合てるぜ。声もわるないな」 「そやろか」 他吉は嬉しそうに言って、 「――種さん、人間はお前、どないでもして食べて行けるもんやな。人間はへこたれたらあかんぜ」 これは半分君枝にもきかせ、そして、天びんを左肩へ置きかえると、 「えーうどんの玉ア……」 やがて、声も姿もちいさくなった。 風に吹かれて佇み、見送っていると、向うから東西屋が来て、河童路地の入口で停った。 そして、口上を述べだすと、種吉は路地の奥へ飛んで行き、直ぐお辰と一緒に出て来た。 柳吉と蝶子が高津神社坂下に間口一間、奥行三間半のちっぽけな店を借りうけてはじめた剃刀店の売り出しの東西屋らしいと、きいて君枝にもおぼろげに判った。 「ひとつうちのお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]の天婦羅の店の前で、景気ようやっとくれやす」 蝶子は東西屋に言ったのであろう、東西屋は今朝蝶子たちの店の前でやったのと同じくらい念入りに賑やかに口上を述べた。 朝日軒の敬吉が出て来て、 「種さん、おまはんもこいで一安心やな」 と、言うと、 「さいな。売れてくれると宜しおまっけど、さて開いて見たら、耳かきぐらいしか売れへんのとちがいまっか」 種吉はちょっと照れた。お辰はすかさず、 「敬さん、剃刀でもシャンプーでも用あったら、注文したっとくなはれや」 と、言った。 東西屋が天婦羅をふるまって貰って、行ってしまうと、にわかに黄昏れて来た。 日の丸湯へ戻り、ふと女湯の障子にはめられた赤、紫、黄、青の色硝子に湯槽の湯がゆらゆらと映って、霞んでいるのを、いつもとちがうしみじみとした美しさだと見上げていると、 「上り湯ぬるおまっせ」 羅宇しかえ屋のお内儀の声がし、暫らくすると、季節はずれの大正琴の音がきこえて来た。曲は数え歌の「一つとや」 朝日軒の義枝は去年なくなり、弾いているのは末の娘の持子で、二十二歳、もちろん姉たちと一緒に独身で、すぐ上の兄の敬助は郵船会社へ勤めているが毎日牛乳を三合のみ、肺がわるかった。 [#改頁]
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