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「……そないして苦労して来やはったところが、渡る世間に鬼はないとはよう言うてまんなあ――蝶子はんの昔のお友達でえらい出世したはる金八さんという方が十年振りで、ぱったり蝶子はんに会いはって、いまどないしたはる言うところからこないやこないやと蝶子はんが言やはると、そらお気の毒や言うてお金貸したげはって、それを資本に、蝶子はんは下寺町にサロン「蝶柳」いう喫茶酒場をひらきはって、今でも盛大にやったはる……」 君枝はそう語った。 「ほう……? それはよかった。種さんも喜んだはるやろ? そいで、維康さんのお父さんは……?」 次郎がきくと、君枝は、 「さあ、それですがな……」 と、力を入れて、 「――お父さんの生きてるうちに天下晴れてと思てはったのに、到頭一昨年(おとどし)の暮に死んでしまいはって……。蝶子はんは葬式にだけは出られるつもりで、喪服をこしらえたりしたはったのに、葬式に出る資格ない言われて、そんなむごい仕方があるかいうて蝶子はんは泣きはって、えらい騒動だした。そらまあ無理もおまへんわ。なんせ蝶子はんは一生日蔭者で終りとうない思て、一所懸命苦労して来やはったのに、いざその苦労が報いられるいう矢先きになって、維康さんのお家の方からそんな扱いされはったんでっさかい……。しかし今ではもうそんな騒動もなし、それに維康さんの御両親とも死んでしまいはったし、誰も二人のことに反対する権利のある人はないし、なんでもつい此間(こないだ)籍を入れはって、仲良うやったはる言うことです。この春にも、二ツ井戸の天牛の二階で維康さんが浄瑠璃語りはって、うち招待券もろて見に行たら、蝶子はんがその三味線を弾かはって、仲の良えとこおましたわ」 君枝はちょっと赧くなった。 「しかし、維康[#「維康」は底本では「推康」と誤記]さんにはお子さんがあるやろ? その子ひきとったはんの?」 「さあ、それは……」 君枝はもうそれ以上蝶子のことに触れたくないという顔をした。 実は、柳吉の子供はもう女学校を卒業する年頃だが、死んだ母親から、父親は悪い女に奪われたと言いきかせられていた言葉が耳に残って、蝶子を良くは思わず、どうしても柳吉の妹の傍をはなれようとしないのだった。ひとつには蝶子や柳吉の商売をきらっているせいもあった。 それが柳吉の頭痛の種だった。養子に取られてしまった財産にはもう未練がないとしても、さすがに娘のことは忘れかねて、浄瑠璃の稽古もそんな心のふさぎを忘れるためであるかも知れなかった。してみれば、蝶子も今は何ひとつ遠慮気兼ねや生活の心配はないとはいうものの、心はからりと晴れ切っているわけでもないだろうと、君枝は蝶子が日頃陽気な明るい気性であるだけに、一層蝶子の淋しさが同情されるのだった。 文楽座の前まで来たのでもう蝶子の話を打ち切った。 ところが、文楽座は人形芝居はかかっていず、古い映画を上映しているらしく、映画のスティールが陳列されていた。人形芝居は夏場の巡業で東京へ行っているとのことだった。 「なんのこっちゃ。折角大阪へ来て文楽でも見よういう気になったのに、これやったら、わざわざ大阪で見なくても、東京に居れば結構見られた勘定やな」 次郎はちょっとがっかりした。 「――活動でも見る」 「今日は紋日で満員でしょう?」 君枝は見る気がないらしかった。 なんだかこのまま別れて帰ってしまいたいように思っているらしく見えて、次郎はますますがっかりしたが、ふと想いだして、眼を輝かした。 「そや、良いものがある。あんたの喜ぶもん見せたげよ」 「どんなもん? うちの喜ぶもんて……」 「黙って随いといぜ。ついこの近所や。僕昨日見て、ああ、これをお君ちゃんに見せたげたら喜ぶやろと、ほんまに思ったんや」 「そうオ? いったい、なんやの?」 言いながら、次郎のあとに随いて行くと、次郎は四ツ橋の電気科学館の前まで来て、 「ここや」 と、立ち停った。 そこには日本に二つしかないカアル・ツァイスのプラネタリュウム(天象儀)があり、この機械によると、北極から南極まで世界のあらゆる土地のあらゆる時間の空ばかりでなく、過去・現在・未来の空まで居ながらにして眺めることが出来るのだという次郎の説明をききながら、昇降機に乗って、六階で降り「星の劇場」へはいっていった。 円形の場内の真中に歯医者の機械を大きくしたようなプラネタリュウムが据えられ、それを円く囲んで椅子が並んでいる。 腰を掛けると、椅子の背がバネ仕掛けでうしろへそるようになっていた。 「朝日軒の椅子みたいやわ」 君枝が言うと、 「天井に映るんだから、上を見やすいようにしてあるんだよ」 次郎は言い、 「――朝日軒の人みな達者ですか。義枝さん死んだのは知ってるけど……」 「ええ、皆達者です」 「やっぱり皆まだ嫁(かたづ)いてないんですか」 「難儀な家やて、お祖父ちゃんも言うてはります」 君枝はまた他吉のことを想いだした。今頃どこを練り歩いているだろうか。場内は冷房装置があるのか、涼しかった。 はじめに文化映画があり、それからプラネタリュウムの実演があった。 「――今月のプラネタリュウムの話題は、星の旅、世界一周でございます」 こんな意味の女声のアナウンスが終ると、美しい音楽がはじまり、場内はだんだんに黄昏の色に染まって、西の空に一番星、二番星がぽつりと浮かび、やがて降るような星空が天井に映しだされた。 もうあたりは傍に並んで腰かけている次郎の顔の形も見えぬくらい深い闇に沈み、夜の時間が暗がりを流れ、団体見学者の群のなかから鼾の音がきこえた。天井を仰いでいるうちに夜とかんちがいしたのであろう。バネ仕掛けの椅子は居眠り易く出来ていた。 しずかにプラネタリュウムの機械の動く音がすると、星空が移り、もう大阪の空をはなれて、星の旅がはじまり、やがて南十字星が美しい光芒にきらめいて現われた。 流星が南十字星を横切る。雨のように流れるのだ。幻燈のようであった。 あえかな美しさにうっとりしていると、解説者は南十字星へ矢印の青い光を向けて、 「――さて、皆さん、ここに南十字星が現われて、わたし達はいよいよ南方の空までやって来ました。時刻はマニラの午前一時、丁度真夜中です。しんと寝しずまったマニラの町を野を山を椰子の葉を、この美しい南十字星がしずかに見おろしているのです」 マニラときいて、君枝は睡気からさめた。 「あ」 君枝は声をあげて、それでは祖父はあの星を見ながらベンゲットで働き、父はあの星を見ながらマニラでひとりさびしく死んだのかと、頬にも涙が流れて流星が眼にかすみ、そんな自分の心を知ってプラネタリュウムを見せてくれた次郎の気持が、暗がりの中でしびれるほど熱く来た。 次郎と別れて、河童路地へ戻って来ると、祭の夜らしく、〆団治や相場師や羅宇しかえ屋[#「羅宇しかえ屋」は底本では「羅字しかえ屋」と誤記]の婆さんなどが、床几を家の前の空地へ持ちだして、洋服の仕立職人が大和の在所から送ってくれたといって持って来た西瓜を食べながら、夕涼みしていた。西瓜の顔を見ると、庖丁を取りだしてくる筈の種吉は、他吉といっしょにお渡御に出かけて、まだ帰っていなかった。 「今日びはもうなんや、落語も漫才に圧されてしもて、わたいらはさっぱり駄目ですわ。なんせ漫才(むこさん)は二人掛り、こっちは一人やさかいな。一日に一つ小屋をもたしてくれたらええとせんならんけど、それも人気のある連中のことで、わたいらみたいなもんは年中あぶれてますわ。といって、今更漫才の仲間入りも出けんさかいな」 半袖を着た〆団治が西瓜の種を吐きだしながら言うと、相変らず落ちぶれている相場師が、 「えらい藪蚊や」 と、団扇でそこらぱたぱた敲きながら、 「――〆さん、おまはん一ぺんぐらい、寄席の切符くれても良えぜ。わいもおまはんと長いこと附合うてるけど、今まで一ぺんだって切符くれたことがあるか? ほんまにけちんぼやぜ」 「そない毒性な言い方しイな。いまに遣るわいな」 「遣る、遣るて、おまはんはなんぼ口が商売か知らんけど、日の丸湯の鑵といっしょで湯(言う)ばっかしや。――なあ、お婆ん、そやろ?」 「そうだすとも。大体〆さんは宣伝たら言うもんが下手くそや。みんなに切符くばって、寄席へ来てもろて、あんたが出る時、ようよう〆団治いうて、パチパチ手エ敲いて貰うようにせなあかん。そういう心掛けやさかい、あんたはいつまでたっても前座してんならんネやぜ、それに、なんだっせ、いつまでも『無筆の片棒』一点張りではあきまへんぜ。今どき無筆やいうようなこと言うてたら、一生うだつがあがれへんぜ。――なあ、君ちゃん、そやろ?」 羅宇しかえ屋の婆さんはもう歳で、別人のように声が低かった。それに、丁度その時君枝は水道端の漆喰の上にぺたりと跣足になって、しきりに足洗っていたところ故、水の音が邪魔になって、羅宇しかえ屋の婆さんの声が聴きとれなかった。水道端の裸電球の鈍いあかりが、君枝の足を白く照らしていた。 「なに。おばちゃん。おばちゃん今なんぞ言うたやろ?」 「聴えへんかったんか。難儀な娘(こ)やな。――〆さんがな、いつまでも……」 言いかけて、羅宇しかえ屋の婆さんは話をかえて、 「――いつまで、あんた足洗(あろ)てなはんネ、水は只やあらへんぜ。冷えこんだらどないすんねん?」 「そない言うたかて、良え気持やもん」 と、君枝は両足をすり合わせ、 「――明日はまた一日立ちずくめやさかい、マッサージして置かんと……」 言いながら、ふと空を見ると、星空だった。 君枝はいきなり、きんきんした声をあげて、 「〆さん、あんたアンドロメダ星座いうのん知ったはる?」 「なんや? アンロロ……? 舌噛ましイな――根っから聴いたことおまへんな。そんな洋食できたんか?」 「阿呆やな。洋食とちがう、星の名や」 君枝は肩をくねくねさせて笑い、 「――ほな、南十字星は……?」 「学がないおもて、そない虐めなや。しかし、おまはんはえらいまた学者になったもんやなあ」 「そら、もう……」 と、君枝は足を拭きながら、ぺろッと舌を出し、明日の夕方は中之島公園で次郎ぼんに会うのや。いそいそ下駄をはいていると、あまい気持がうずくように来て、あ、いけない、これが恋とか愛とかいうもんやろか。胸を抱くようにして呟いているところへ、お渡御が済んだらしく、他吉と種吉がとぼとぼ帰って来た。 君枝はいきなり胸が痛み、埃まみれの他吉の足を洗ってやるのだった。 他吉は余程疲れていたのか、〆団治が、 「こうーっと、南十字星てどの方角に出てる星やろか?」 と、しきりに空を仰ぎながら言ったのへ、 「あんぽんたん! 南十字星が内地で見えてたまるかい。言うちゃなんやけど、あの星はな、わいがベンゲットやマニラにいた時、毎晩見てた星やぞ。あの星を見た者は、広い大阪に、このわいのほかには沢山(たんと)は居れへんネやぞ、見たかったら、南へ行け、南へ!」 と、言ったあと、涼み話の仲間入りをしようともせず、這うようにしてあがった畳の上へごろりと転がると、君枝がつくって置いた冷しそうめんも食べずに、そのまま鼾だった。 君枝は今日次郎に会ったことを言いそびれた。 言えば、他吉はびっくりもし、喜びもするだろうと思ったが、他吉の知らぬ間に次郎と会うたことがなにか済まないような気がするのだった。 その癖、次郎のことを口にだしたくて仕方がないのだ。寝転んでいる他吉の上へ蚊帳を釣りながら、よっぽど起して、そうめんを一緒に食べながら、次郎のことを言い、プラネタリュウムの話もしようと思ったが、ぐんなりして鼾をかいている他吉の寝顔を見ると、起す気にはなれなんだ。 「明日の朝話そ」 君枝は呟いたが、朝起きざまに、今日は次郎に会うのだという考えが、ぽっと頭に泛ぶと、やはり君枝は次郎のことを言いそびれてしまった。
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