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翌日はまるでわざとのように雨であった。 「なんの因果でまた、こんな雨の日に見合いせんならんねん」 君枝はしょんぼりして、この五日間祖父のいいつけを守って次郎に会わなかったことが後悔された。いや、中之島公園で会った翌日、勤めが済むと、早速約束して置いた場所へ出掛けたのだが、次郎は来なかったのだ。祖父が次郎のところへ掛け合いに行ったせいだろうと、すごすご帰った時の悲しみが、降るようにして、いま胸へ落ちて来た。 が、他吉は上機嫌で、 「雨が降っても、見合いの場所は地下鉄のなかやさかい、濡れんでも良え。どや、お祖父やんは抜目がないやろ?」 「…………」 他吉は高下駄をはき、歩きにくそうであった。 ところが、難波駅の地下へ降りて行くと、さきに来て地下鉄の改札口で待っていたのは、思いがけぬ次郎で、傍には鶴富組の主人が親代りの意味らしく附き添うていた。 君枝はぼうっとして、次郎が今日の見合いの相手だとは、どうしても信じられず、さっと顔色を変えたくらいであった。 が、次郎の眼に恨みの色などすこしもなく、取り済ましているが、またとない上機嫌の表情がぴくぴく動いていて、どう見ても今日の見合いの相手であった。 それとわかると、君枝は今日の見合いに、クリームひとつつけて来なかったことがにわかに後悔され、嬉しさと恥かしさで下向くと、地下鉄の回数券が一枚よごれて落ちているのが眼にとまり、今この時これを見たことは、生涯忘れ得ないだろうと、思った。 鶴富組の主人を中心に改札口での挨拶が済むと、一しょに階段を降りて行き、次郎と鶴富組の主人は梅田行きの地下鉄に乗った。君枝と他吉はそれを見送り、簡単に見合いが終った。 「そんならそれと、はじめから言うて呉れたら良えのに……」 何も一杯くわさずともと、君枝は階段に登りながらちょっとふくれて、 「――こんな汚い顔して、鶴富組の御主人かて笑たはるこっちゃろ」 本当は次郎が笑っているだろうという気持を含めて、そう言ったが、しかしあとで大笑いの酒という茶番めいたものもなく、若い次郎はともかく、他吉も鶴富組の主人も存外律儀者めいた渋い表情であった。 とりわけ、他吉は精一杯にふるまい、もし君枝が鶴富組の主人に気に入らねばどうしようという心配も、はらはら顔に出ていた。 君枝の器量は他吉の眼からも、人並みすぐれて見えたが、そんなことは次郎はともかく鶴富組の主人にはどうでも良い筈だ。 だから、他吉にしてみれば、君枝を何ひとつ難のない娘に育てたという気持は、ひょっとすれば大それた己惚れであるかも知れず、それに比べて、次郎は三日前鶴富組の主人が他吉に語ったところによると、人間はまず年相応に出来ているし、潜りの腕もちょっと真似手がなく、おまけに眼もおそろしく利いて、次郎が潜ってこれならばと眼をつけた引揚げ事業で、これまで失敗したことがないということだ。 「――今やって貰っている仕事は、ほんのけちくさい仕事で、花井君には気の毒なようなもんだが、しかし、これが済むと、大きな奴がある。今ちょっとここで言うわけにはいかぬが、日本のサルベージでなくてはちょっと手が出せぬという……、そう、沈船浮游だ。これに花井君の身体がどうしても要るのだ」 へえと他吉は感心して、さそくに話を纒める肚がきまったのだ。 「――それに何ですよ。時局がこういう風になって来ると、花井君などもうわれわれ個人会社にいつまでも居る人じゃない。いつなんどき海外へ出て、沈船作業に腕をふるって貰わねばならんようになるかも知れない。だから、余程しっかりした奥さんでなくっちゃ」 「いや、その心配は要りまへん。わたいもこう見えても、もとは比律賓のベンゲットで働いて来た人間だす。婿をマニラで死なしても居ります。その点は、よう君枝に仕込んでありまっさかい」 よしんば形式だけにしろ見合いという順序を踏んだのは、ひとつには、ともかくうちの孫娘を見てやってくれ、という自信からだったが、さすがに他吉は心配だったのだ。 ところが、鶴富組の主人は、一風変った一見識あり、タクシーの案内係の制服のまま見合いに出て来たという点が何よりまず気に入った。 鶴富組の主人は大きな事業をやり、随分金もありながら、汽車はいつも三等に乗るという人であった。 「一等や二等に乗ったからって、早く着くわけじゃない」 というのが持論であった。 そうして次郎と君枝は市岡の新開地で新世帯をはじめたが、新居でおこなわれた婚礼の晩ちょっとしたごたごたがあった。 おひらきが済んで、他吉が〆団治といっしょに帰ろうとすると、次郎と君枝は引き止めて、 「お祖父やん、今日は家で泊ってくれはれしまへんのんか?」 「当り前やないか」 他吉に代って、〆団治が答えた。 「――若夫婦のところへ、こんな老いぼれの他あやんが居てみイ。陰気臭いやら邪魔ややら」 〆団治は口が悪かったが、他吉は今夜は怒らなかった。ふん、ふんと上機嫌にうなずいている。 「まあ、いやな〆さん」 白粉の奥が火を吹いた。次郎もちょっと照れたが、 「ちょっともそんな遠慮要らへん。今夜は泊ってくれはるやろ思て、ちゃんと寝床(ねま)もとっといたのに……もう、帰りの電車もあれしまへんやろ」 「無かったら、歩いてかえる」 「ここから河童路地まで何里ある思てんのん? お祖父ちゃん、〆さんにひとり帰ってもらうのん気の毒やったら、あとさし[#「あとさし」に傍点、底本では「あとさ」に傍点]ででも一緒に寝て貰たらええがな……」 「いや、帰る。何里あろうが、俥ひいて走るよりは楽や。なあ、〆さん。退屈したら、お前の下手な落語でもきかせて貰いながら歩くわな」 「どついたろか、いっぺん」 〆団治は他吉の頭の上で、拳をかためて見せた。 次郎は笑って、 「それなら、今夜はまあ、気を利かせて貰うことにして、明日からずっとこの家へ来てもらいまっせ。もうそろそろお祖父やんにも隠居して貰わんならん、なあ、君枝」 すると、他吉[#「他吉」は底本では「他君」と誤記]はあわてて手を振った。 「阿呆なこと言いな。わいはまだまだ隠居する歳やあれへん。此間(こないだ)も言うた通り、わいは明日の日にでも発って、マニラへ行こ思てるねん。君枝の身体ももうちゃんとかたづいたし、思い残すところはない。ベンゲットの他あやんも到頭本望とげて、マニラで死ねるぞ」 振った手を握りしめると、痛々しく静脈が浮き上った。それをちらと眼に入れて、次郎は、 「何言うたはりまんねん。そらお祖父やんがマニラへ行きたい気イはわかるけど、その歳でひとりマニラまで行けるもんですか? なあ、〆さん」 「当りきや」 「それに、お祖父やん、昔とちごて、こんな時局になったら、日本人がおいそれとたやすく比律賓へ渡れますかいな。移民法もなかなかむつかしいし……」 「ベンゲットの他あやんが比律賓へ行けんいう法があるかい」 「あるかい言うたかて、法律がそうなってるんやから、仕方ない。嘘や思たらその筋へ行ってきいて見なはれ」 「そやろか?」 他吉はがっかりした顔だった。 「それに、よしんば行けたとしても、いま、お祖父やんに行かれてしもたら、淋しゅうて仕様ない。なあ〆さん」 「そやとも、他あやん、お前が行かんでもマニラは治まる。お前が行てしもて見イ、わいはひとりも友達が無いようになるがな」 〆団治にも言われると、 「それもそやなあ」 と、他吉は精のない声をだした。 「――お前ら寄ってたかって巧いこと言いくさって、到頭マニラへ行けんようにしてしまいやがった。しかし、言うとくけど、これは今だけの話やぜ。行ける時が来たら、誰が何ちゅうてもイの一番に飛んで行くさかい、その積りで居ってや」 これが僅かに他吉の心を慰めた。 「宜しおますとも、その時はその時の話、とにかくようマニラ行き諦めてくれはりましたな」 君枝は次郎と他吉の顔をかわるがわる見ながら、 「――そんなら、今も言うた通り、明日からこの家へ来とくなはれや。荷物はうちが便利屋に頼んで、持って来てもらいまっさかい」 そう言うと、他吉は、 「お前までわいに隠居せえ言うのんか。なんの因果でわいが河童路地を夜逃げせんならん」 いつにない強い口調だった。 「そうかて、うちが結婚したら、隠居する、三人で一緒に住むいう約束やったやないか、お祖父ちゃんにまだ河童路地に居てもらうくらいやったら……」 結婚するんじゃなかったと言い掛けて、君枝は次郎の顔を見てはっとした。 次郎[#「次郎」は底本では「欠郎」と誤記]の顔は蒼ざめていた。その顔を横向けたまま、次郎はふるえる声で言った。 「そら、そやろ。河童路地からこんな汚い家へ来るのは、恥かしいやろ。夜逃げ同然でなけりゃ、来られんやろ。そんな気イやったら、なにも来てもらへんでも宜しい」 次郎はかっとなる性質だった。 「――どうせ僕は甲斐性なしです。気に入らんかったら、君枝を連れて帰ってもらいましょう」 次郎は本当に他吉が好きで、一緒に住みたかったのだが、ひとつには、他吉を引き取るくらいの甲斐性者になったことを、皆んなに見てほしかったのである。だから、〆団治の前で、それを他吉に断られたのが、心外だったのだ。〆団治がその場に居らなかったら、次郎はこうまで腹が立たなかったであろう。 「なにッ? もういっぺん言ってみイ」 「ベンゲットの他あやん」の声が久し振りに出た。 「――わいがお前らの厄介にならん言うのを、そんな風にとってたんか、阿呆!」 雲行きが怪しくなったので、〆団治はあわてて、 「まあ、まあ」 と、仲にはいり、自分でも何を言っているか判らなかったが、とにかく喋りまくって、その場の空気を柔らげた。 「婚礼の晩にむつかしい顔してにらみ合うてる奴があるかい。さあ、笑い、こんな顔しイ」 〆団治が自分でニコニコした顔をつくって見せると、漸く他吉、次郎の順に固い表情がとれた。 〆団治に促されて他吉があとに随いて外へ出ると、月夜だった。 秋の冷え冷えした空気がしみじみと肌に触れた。 「他あやん、おまはんいったい幾つやねん?」 〆団治が言った。 「五や」 「六十五にもなって、若い者相手に喧嘩する奴があるかいな。しかし、また、なんぜお前はそう頑固にあの二人の厄介になるのを断るねん。君ちゃんかて今孝行せなする時がない思て、やきもきしてるにきまってるぜ」 「孝行してもらうために、育てて来たんとちがう」 他吉はぼそんと言った。 「なるほど、お前が厄介になって、君ちゃんに気兼ねさしたら、可哀想や言うわけやな」 「それもあるけど……」 あと他吉は答えなかった。 翌日、雨だった。 雨の町を他吉は俥をひいて、ひょこひょこ走っていた。
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