その遺書は右肩下りの下手な字で、おまけに鉛筆で、片仮名を使つて書かれてあり、それが文面の効果を一層どぎつくさせてゐた。 「恋愛ハ神聖ナリ。神ハ実在スルヤ否ヤ。俺ハ結核菌ノ所有者デアルガ、現在ノ父ニモ母ニモ結核菌ハナイ。スルト俺ハ現在ノ父母ノ子デナイトイフ理論ガ成リ立ツ。マタ、俺ノ眉毛ヤ俺ノ皮膚ハレプラニナル可能ガアル。シカルニ現在ノ父母ハレプラデハナイ。俺ハ誰ノ子デアルカ教ヘテクレ。俺ハコノ疑問ヲ抱イテ死ヌノダ 俺ハ北畠ノ霊媒研究所ヘ行ツテ、十円出シテ霊媒シテ貰ツタ。ソノ結果、俺ハ双生児ノ片割レデアルトイフコトガ判明シタ。モウ一ツノ片割レハ今樺太ノ炭坑ニヰルハズダ。 嘘ノ世ノ中ニハアキアキシタ。俺ハインノ如ク永遠ノ謎ヲ抱キナガラ死ヌ。誰モ俺ガ死ンデモ泣クマイ。俺ハ無垢ノ女ヲ凌辱シヨウトシタノダ」 圭介は近頃興奮するとくらくらと眩暈がし、頭の中がじーんと鳴るので、なるべく物事に臨んで冷静に構へる必要があつた。だから、こんな莫迦げた妄想を起す奴を相手に興奮してはつまらぬと、煙草を吸ひかけたが、手がふるへた。寿枝はおろおろして燐寸をつけた。その瞬間、二人ははつと顔をそむけた。寿枝の眉間には深い皺が出来、母性を疑はれた不快さがぐつと来たのだつた。そして何といふことなしに修一のことが頼もしく想ひ出されたが、しかし修一はどこをうろついてゐるのか、夜が更けてゐるといふのに、まだ帰つてゐなかつた。
二年がたつた。楢雄はむくむくと体が大きくなり、自殺を図つた男には見えなかつた。高等学校の入学試験にすべり、高槻の高医へ入学した時も、体格検査は最優良の成績だつた。 圭介は家へ帰ると、薄暗い階下の部屋で灯もつけさせず、壁を睨んだままぺたりと坐り込んで何時間も動かなかつた。寿枝が呼んでも返辞せず、一所を見つめた眼を動かしもしなかつた。さすがの楢雄もあつけに取られて、圭介のうしろに突つ立つてゐると、 「何をしてゐるのか。」 うしろ向きの姿勢で呶鳴られた。寿枝はそんな圭介の素振りを見て、何か心に覚悟を決めたらしく一分の隙もないきつとした顔を[#「顔を」は底本では「頭を」]見せてゐた。 圭介はやがてみるみる狂気じみて、蘆屋の病院で死んだ。危篤の知らせで駈けつけたのは修一ひとり、無論本妻の計らひであつた。死に目に会ふことも許されない寿枝と楢雄は香櫨園の家でソハソハしながら、不安な気持のまま何か殺気立つてゐた。何時間かたち、楢雄は急に、 「さア、お母さん、こんなことしてても仕方がありません。活動でも見に行こやありませんか。」 と、言つて起ち上つた。まあと寿枝は呆れたが、しかし瞬間母子の情が通つたと思ひ、だから叱らうとはしなかつた。 修一は葬式を済ませて帰つて来ると、臨終の模様を語つた。圭介は息を引き取る前不思議にも一瞬正気になり、枕元に集つてゐる中で修一だけをわざと一歩進ませて、母の面倒はお前が見るんだぞと言ひ、その時窓に映つてゐた西日が落ちたさうである。 「それでお前は何と答へたんですか。」寿枝はわれながらもぢもぢ訊くと、 「はあと言ひましたよ」 と修一は冷かに答へ、そして、ちらつと寿枝の頭を見ると、 「蘆屋の奥さんから遺言書を見せて貰ひましたよ。お母さんは貰ふべきものはちやんと貰つてあるんですね。」 寿枝ははつと虚をつかれた気持だつた。貰ふべき財産の分け前は、圭介の素振りがをかしくなつた時、寿枝は取つて置いたのである。寿枝、修一、楢雄の順で、修一、楢雄の分は学資用として無論修一の方が多かつたが、しかし寿枝の額は修一よりもはるかに多いのだ。田辺に嫁いでゐる妹が、姉さんは子供に頼つて行くといつても、子供とは籍が違ふのだからと入智慧し、子供といつても今に母親は妾だといつて邪魔にするかも知れないからねとまで言つたので、寿枝はその忠告に従つてさうしたのだつたが、修一の冷かな眼を見ると、やはりさうして置いてよかつたといふ気持が、心細く湧いて来て、最近修一の所へ来た女の手紙がふと想ひ出された。 「――この手紙を読んで何にも感じないやうでしたらあなたは精神のどこかに欠陥があるのです。」 といふ恨みの籠つた手紙だつた。ひと様の娘御を何といふことだと、その時修一に見た冷酷さが今はわが身に振り掛るかと、寿枝は思つた。 香櫨園の家は経費が掛るので、やがて寿枝は大阪市内の小宮町にこぢんまりした借家を探して移ることになつたが、果して修一は阪大医学部の卒業試験の勉強で忙しいと口実を設けて、一人で夙川の下宿へ移つた。寿枝はなぜかそれを停めることが出来なかつた。楢雄は、兄貴には香櫨園の界隈を離れがたいわけがあるのだと見抜いてゐた。修一が現在交際してゐる北井伊都子は浜甲子園の邸宅に母と二人住み、係累もなく、その代り父の遺産は三十万を超えてゐるのだと、修一はかつて楢雄に話したことがあつたのだ。 修一のゐない家庭は寿枝には寂しかつた。だから、三月許りたつて、修一が小宮町へ顔を見せると、いそいそとして迎へたが、修一はお茶も飲まぬうちに、いきなり、 「僕、養子に行きますよ。何れ先方からこちらへ話がありますから、その時は良い返辞頼みますよ。」 と、言つた。先方とは無論北井家のことだつた。北井伊都子は長女で嫁には行けず、だから修一が婿養子にはいるのだと、もう伊都子の母親にも会うて話を決めてゐたのだつた。 「学校を出ても、親父のくれた金では開業できませんからね。結局安月給の病院の助手になるよりほかに仕方ないとすれば、まアわれわれの身分では養子に行くのが出世の近道ですよ。木山さんの例もありますからね。」 木山博士は圭介の友人で、大学を卒業するまでに二回養子に行き、卒業してから一回、博士になつてからも一回、都合四回養子先と女房を変へて出世した男であつた。 「ぢや、お前は木山さんのやうになりたいんですか。」 「木山さんには私淑してゐます。時々会うて世渡りの秘訣を拝聴してゐますよ。」 「お母さんのことはどう成つても構はぬのですか。」 「いや、もし何でしたら、お母さんも一緒に北井の家へ来て貰つても構ひませんよ。」 太い眉毛は今こそ兄の顔になくてかなはぬものだと、楢雄は傍で聴きながらふと思つたが、しかし口をはさまうとはせず、寿枝が哀願めく眼を向けても、素知らぬ顔で新聞の将棋欄を見てゐた。 半月許りたつて、五十前後の男が手土産らしいものを持つてやつて来た。浜甲子園の北井の使ひだといふので、寿枝はさつと青ざめた。ところが、その使ひは意外にも今後北井家では修一さんとの交際を打ち切ることにしたから悪しからずといふ縁談の断りに来たのだつた。使ひの男は寿枝の饗応に恐縮して帰つた。 修一は夙川の下宿を引き揚げて来て、妾の子だと知れたための破談だと、寿枝に八つ当つた。日頃の行状を北井家に調べ上げられたことは棚に上げてゐたのである。すつかり自信を無くしてしまつたらしい修一の容子を見て、楢雄は将棋を挑んだが、やはり修一には勝てなかつた。 楢雄は高槻の学校の近くにある将棋指南所へ毎日通つた。毎朝京阪電車を降りると学校へ行く足を指南所へ向け、朝寝の松井三段を閉口させた。楢雄は松井三段を相手に専門棋師のやうな長考をした。松井三段は腐つて、何を考へてゐるのかと訊くと、楢雄はにこりともせず、 「人間は一つのことをどれ位辛抱して考へられるか、その実験をしてゐるんだ。」 と、答へた。楢雄は進級試験の日にも指南所へ出掛け、落第した。 「お前の金はあと二年分しかないのに、今落第されては困りますよ。」 寿枝の小言に金のことがまじると、楢雄はかつとした。修一は口を出せば自分の金が減るといふ顔で黙つてゐた。楢雄はその顔をみると、もうわれを忘れて叫んでゐた。 「ぢや僕は下宿します。下宿して二年分の金で三年間やつて行きます。お母さんの世話にも兄さんの世話にもなりません。」 言ひだしたらあとへ引かなかつた。その頑固な気性を口実に、寿枝は楢雄に言はれる通りの金を渡した。 「しかし、千円だけはお前の結婚の費用に預つて置きますよ。」 「そんな金は兄さんにあげて下さい。」 千円減つたことで、自活の決心が一層固くなつた。 「ぢや、お母さんはお前に月々十円宛、お母さんの金を上げます。」 「要りません。食へなかつたら家庭教師します。」 さう言ふと、修一ははじめて口を利いて、 「お前みたいな頭の悪い奴に家庭教師がつとまるか。」 と、嗤つた。嗤はれたことも楢雄はこの際の勘定に入れた。そして学校の近くの下宿に移つた。寿枝は、下宿をしても洗濯物を持つて週に一回だけはぜひ帰るやうにと言ひ聴かせながら、自分は不幸だと思つた。
修一は学校を出ると、附属病院の産婦人科の助手になつた。報酬は月に一円足らずで、日給の間違ひではないかとはじめ思つたくらゐだつたが、それでも毎日浮かぬ顔をして通つてゐた。学生服よりは高くついたが、着てみれば背広も安洋服だつた。患者の中には良家の者らしい若い女性もゐたが、産婦人科へ生娘が来る例しもすくなかつた。時々出稼ぎにあちこちの病院へ出張したが、その報酬は全部自分で使ひ、寿枝には一銭も渡さず、しかも家の費用はすべて寿枝が自分の金で賄つてゐた。だから修一の金は少しも減らないと寿枝はひそかに田辺の妹に愚痴つてゐたが、それでも修一が家にをらないとやはり寂しかつた。修一は宿直と出張の口実を設けて月の半分は家をあけ、どうやら看護婦を相手にしてゐるらしかつた。寿枝は修一の留守中泊りに来てくれるやうにと、楢雄に手紙を出した。楢雄はやつて来て、寿枝の顔に、薄く白粉の粉が吹きだしてゐることよりも、髪の毛がバサバサと乾いてゐることの方を見て寿枝を千日前へ連れて行つて映画を見せたりした。下宿で随分切り詰めた暮しをしてゐるらしく、げつそりと青く痩せてゐる楢雄の横顔を見て、寿枝はそつと涙を拭いたが、しかし何日か泊つて下宿へ帰る日が来ると、楢雄はその何日分かの飯代を寿枝に渡した。何といふ水臭いやり方かと寿枝は泣けもせず、こんな風にされる自分は一体これまでどんな落度があつたのかと、振りかへつてみたが、べつに見当らなかつた。 楢雄は煙草は刻みを吸ひ、無駄な金は一銭も使ふまいと決めてゐたが、ただ小宮町へ行つた帰りにはいつも天満の京阪マーケットでオランダといふ駄菓子を一袋買つてゐた。子供の時から何か口に入れてゐないと、勉強出来なかつたのである。京阪マーケットの駄菓子はよそで買ふより安く、専らそこに決めてゐたのだが、一つにはそこの売子の雪江といふ女に心を惹かれてゐたのだ。栄養不良らしい青い顔をして、そりの強い眼鏡を掛けてゐてオドオドした娘だつたが、楢雄が行くたび首筋まで赧くして、にこつと笑ふと、笑窪があつた。ある日、楢雄が行くと、雪江は朋輩に背中を突かれて、真赤になつてゐた。おや、俺に気があるのかと思ひ、修一の顔をちらりと想ひだしながら、 「君、今度の休みはいつなの?」
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