ところが、阪神の香櫨園の駅まで来ると、海岸の方から仮面のやうに表情を硬張らせて歩いて来る修一とぱつたり出会つた。楢雄はぷいと顔をそむけ、丁度駅へ大阪行の電車がはいつて来たのを幸ひ、おい楢雄とあわてて呼び掛けた修一の声をあとに、いきなりその電車に乗つてしまつた。修一は間抜けた顔でぽかんと見送つてゐた。楢雄はそんな兄をますます驚かせるためにも、家出をする必要があると思つた。そして家出した以上、自分はもう思ひ切り堕落するか、野たれ死にするか、二つのうちの一つだと思ひ、少年らしいこの極端な思ひつきにソハソハと揺れてゐるうちに、電車は梅田に着いた。 市電で心斎橋まで行き、アオキ洋服店でジャンパーを買ひ、着てゐた制服と制帽を脱いで預けた。堕落するにも、中学生の制服では面白くないと思つたのだ。茶色のジャンパーに黒ズボン、ズボンに両手を突つ込んで、一かどの不良になつた積りで、戎橋の上まで来ると、アオキから尾行して来たテンプラらしい大学生の男が、おい、坊つちやん、一寸来てくれと、法善寺の境内へ連れ込んで、俺の見てゐる前で制服制帽を脱いだり、あんまり洒落た真似をするなと、十円とられて、鮮かなヒンブルであつた。簡単に自尊心を傷つけられたが、文句があるならいつでもアオキで待つてゐると立去つたそのテンプラの後姿を見送つてゐるうちに、家出の第一歩にこんな眼に会はされては俺はもうおしまひだ。堕落するにも野たれ死にするにもまづあの男を撲つてからだと、キツとした眼になつた。法善寺を抜けると、坂町の角のひやし飴屋でひやし飴をラッパ飲みし、それでもまだ乾きが収らぬので、松林寺の前の共同便所の横で胸スカシを飲んだが、こんなチヤチなものを飲んでゐるからだめなのだと、千日前の停留所前のビヤホールにはいつた。大ジョッキとフライビンズを註文し、息の根の停りさうな苦しさを我慢しながら、三分の一ばかり飲んで、ゲエーとおくびを出して、フーフー赧い顔で唸つてゐると、いきなり耳を引つ張られた。振り向いて、あツドラ猫だ。宮城といふ受持の教師だつたが、咄嗟にその名は想ひ出せず、思はず、綽名を口走つた。ドラ猫もまたそのビヤホールで一杯やつてゐたらしく、顔を真赤にして、息が酒くさかつた。耳を引つ張られたまま表へ連れ出されて、生徒の分際でこんな場所へ出入する奴があるかと、撲られた。すかさず、教師の分際でこんな場所へ出入する奴があるかと言ひ返してやれば面白いと思つたが、あゝこれで家出も失敗に終つたのかといふ情けない気持が先立つて、口も利けなかつた。 翌日、母親と一緒に校長室へ呼びつけられた。ドラ猫は校長の前で、戎橋の上から尾行してビヤホールにはいつた所をつかまへたのだと言ひ、自分がさきにビヤホールで一杯やつてゐたことは隠すのだつた。楢雄は途端にドラ猫を軽蔑した。嘘をつくと承知しないぞ言はれたので、今までしたこと、あることないことを洒唖洒唖と言つた。理科教室の顕微鏡に胡椒をぬりつけたこと、授業中に回転焼をいくつ食へるか実験してみたところ、相手の教師によつて違ふが、まづ八個は大丈夫だ云々、バスの切符をわざと渡さなかつたところ、女車掌が金切り声をあげて半町も追ひ駈けて来たこと、感ずる所あつて昼食のパンを五日食べずに、校長官舎の犬が痩せて栄養不良らしかつたのでその犬に呉れてやつたこと、その犬の尻尾には今も猫イラズを塗りつけてある筈だなどすらすら喋り立てたが、しかし香櫨園の女中のことはさすがに言へなかつた。 寿枝の順番が来ると、寿枝はなぜか急にいそいそとして、まず楢雄の夜尿症を癒した苦心を言ひ、そして今は癒つたが、しきりに爪を噛んだり、指の節をボキボキ折る癖があつて、先生、父もどんなにみつともないと気を揉んだことでせう。それから、今も暇さへあれば蠅ばかり獲つたり、ぶつぶつひとり言を言ふ癖がありまして、この頃は易の本を読み耽つてゐるやうでございます……と、寿枝はここで泣き、部屋の中はもう暗かつた。 「ひとり言を言ふのは、心に不平がある証拠だが、易の本といふのは、君どういふ意味かね。」 と、校長は、ドラ猫の方を向いた。ドラ猫は、 「はあ、皆私が到らぬからであります。」 と、ハンカチで眼鏡を突き上げたかと思ふと、いきなり楢雄の腕をつかんで、 「君は、君は、何といふことを……。」 泣きだしたので、さすがに楢雄もしみじみして、情けなく窓外の暮色を見たが、しかしなぜドラ猫が泣いたのか判らなかつた。 説教が済み、校門を出ようとすると、そこでずつと待つてゐたらしく、修一が青い顔で寄つて来て、何ぞ俺の話出なかつたかと、声をひそめた。大丈夫だと言つてやると、修一はほつとした顔で、お前も要領よくやれよ。途端に修一は楢雄の軽蔑を買つた。帰りの阪神電車は混んでゐた。寿枝は白足袋を踏みよごされた拍子に、蘆屋の本妻の顔を想ひだした。すると香櫨園の駅から家まで三町の道は自然修一と並んで歩くやうになつた。そして、うしろからボソボソと随いて来る楢雄の足音を聴きながら、明日は圭介の知り合ひの精神科医の許へ楢雄を連れて行かうと思つた。 若森といふその医者は精神科医のくせにひどくせつかちの早のみ込みで、おまけに早口であつた。若森は寿枝の話を聴くなり、あ、そりや、エ、エ、エディプス・コンプレックス的傾向だね、お袋を愛する余り父親を憎むんだねと言ふと、寿枝は何だかよく判らぬままにニコニコしてうなづいた。楢雄はむつとして、若森が、 「君一つこの紙に、君の頭に泛んだ単語を二十個正直に書いてみ給へ。」 と言ふとあつといふ間にその紙を破つて、 「あんたには僕の心を調べる権利はない筈や。人間が人間を実験するのは侮辱や。」 「これ、楢雄、何を言ふのです。」 「お母さんもお母さんです。あんたは自分の子供が蛙みたいに実験されてゐるのを見るのンが、そんなに面白いのですか。だいいち、こんな所イ連れて来るのが間違ひです。」 キツと寿枝を睨みつけた眼の白さを見て、若森はお袋を愛する余り云々と言つた自分の言葉が、ふと頼りなくなつて来た。 楢雄はその後何といはれても若森の所へ行かなかつたが、寿枝はひそかにそこへ行つていろいろ指図を受けて来るらしく、木の枕や瀬戸物の枕を当てがつたり冷水摩擦を薦めたりした。また、知らぬ間に蒲団の綿が何か固いものに変つてゐた。日記やノート、教科書などもひそかにひらかれた形跡があり、仔細ありげな母の眼付きがいそいそと自分の身辺を取り囲んでゐるやうな気がして、楢雄はそんな母が次第にうとましくなつて来た。
翌年、楢雄は進級試験に落第した。寿枝の奔走も空しかつたわけである。その代り修一は京都の高等学校の入学試験に合格した。圭介は修一の入学宣誓式に京都まで出向いて、上機嫌で帰つて来たが、土産物の聖護院八ツ橋をガツガツ食べてゐる楢雄を見ると、にはかに渋い顔になり、改めて楢雄の落第について小言を言つた。楢雄は折柄口が一杯になつてゐたので、暫らくもぐもぐと黙つてゐたが、やがて呑み込んでしまふと、頭の悪いのは言はれなくても自覚してゐます、自覚してゐればこそ頑張るだけは頑張つてゐるんです、しかし頭の点は先天的のものでどうにもなりません、考へてみれば、同じ親から生れて兄さんは頭が良くて、僕は悪いといふのは遺伝の法則からいつてどういふことになるんでせう、やはり僕を頭の悪い子供に生れさせた原因がほかに介在してゐるんでせうか、さういへば、僕の眉毛がレプラのやうに薄いといふ事実も何だか不思議ですね。ベラベラと喋り立てると、圭介は、莫迦野郎、生意気を言ふな、遺伝とは何だ、原因とは何だ、不思議とは何だ、といきなり楢雄の胸を掴んで庭へ引きずり下すと、松の枝をボキリと折つて、圭介の掌と楢雄の顔が両方からボトボトと血が落ちるまで、打つて打つて打ち続け、停めようとした寿枝まで突き飛ばされ、圭介の折檻はふと狂気じみてゐた。楢雄は鼻の穴へ紙を詰めると、すぐ家出を考へたが、これは寿枝が停めたので、二階へ上り、ひそかに隠してあつた「運勢早見書」を開き、自分の星の六白金星と父の九紫火星とが相性大凶であることを確め何か納得した。ついでに母の四緑木星も六白金星とは合はぬと判つた。六白金星一代の運気は、「この年生れの人は、表面は気永のやうに見えて、その実至つて短気にて些細なことにも腹立ち易く、何かと口小言多い故、交際上円満を欠くことがある。親兄弟との縁薄く、早くより他人の中にて苦労する者が多い。また因循の質にてテキパキ物事の捗らぬ所があるが、生来忍耐力に富み、辛抱強く、一端かうと思ひ込んだことはどこまでもやり通し、大器晩成するものなり……」 一字一句が思ひ当り、この文章がわづかに楢雄を慰めた。そして一晩掛つてこの文句を覚えることで、父に撲られた口惜しさがまぎれるのだつた。 翌日から楢雄は何思つたのか「将棋の定跡」といふ本を読み耽つた。著者の八段は「運勢早見書」によれば、六白金星で中年を過ぎてから三段になつて大器晩成の棋師だといふことだ。楢雄はその本を学校で読み、電車の中で読み、家で読み、覚えにくい定跡はカードを作つて覚えた。三月掛つてやつと覚えた頃、暑中休暇になり、修一が頭髪を伸ばして帰つて来ると、楢雄は早速将棋盤を持ち出したが、王手もせぬうちに簡単に負けてしまひ、あゝ俺はやはりだめだと青くなつた。 修一は毎日海岸へ出て、相変らず女を物色してゐるらしかつたが、楢雄は海水着を着た女は猥せつだから見るのもいやだと言つて、一日中部屋に閉ぢこもり、いよいよ人間嫌ひになつたのかと寿枝をやきもきさせた。部屋に閉ぢこもつて何をしてゐるのかと、こつそり伺ふと、修一が持つて帰つた「カラマゾフ兄弟」を耽読してゐるらしかつた。楢雄にはその本はばかに難解だつたが、しかし楢雄はミーチャやインの父親に対する気持が判つたと思ひ込み、夜更けに鏡を覗いてみると、表情が何となく凄みを帯びて見えた。眉毛の薄いせゐかも知れなかつた。それで一層深刻な顔になつてやらうと、眼をむき下唇を突き出すと、こんどは実に奇妙な顔になつた。しかし別にをかしいとも思はなかつた。インを真似たのつそりした態度がやがて表面に現はれて来て、そしてある夜楢雄は砒素を飲んだ。 うめき声で眼を覚した寿枝が二階へ上つて見ると、楢雄は土色の顔へ泡を噴きだしてのた打ちまはつてゐた。修一は夕方家を出て行つたきり、まだ帰つてゐなかつた。寿枝は楢雄の口ヘ手を差し込んで吐かせるとあわてて飛びだして近所の医者へかけつけて行つたが、途中でふと気が変り、よその医者に頼めば外聞の悪い結果になると、公衆電話へ飛び込んで、蘆屋の圭介の病院へ電話した。蘆屋と香櫨園はすぐ近くなのに市外通話になつてゐて、なかなか掛らず、もどかしかつた。圭介はダットサンを自分で運転して来た。それで助かつた。吐かせようとして抱きかかへると、ぷんと腋臭めくにほひがしたが、それは永年忘れてゐたわが子のにほひだつた。注射を済ませると、寿枝が絆創膏を貼つた。圭介はふと寿枝の顔を見た。寿枝も見た。お互ひふと岡山の病院でのことが頭をかすめ、想ひ出すべき歳月があつた。圭介は手を洗ひながら、しみじみと楢雄の寝顔を覗きこんだ。眼鏡のない眉毛の薄い顔は、まるでデスマスクのやうだつたが、しかし生命は取り止めたとしみじみ思つた。ところが、机の上にこれ見よと置いてある遺書を開いて読み終つた途端、圭介は思はず莫迦者と呶鳴つた。
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