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世界怪談名作集(せかいかいだんめいさくしゅう)十六

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-27 10:30:27 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       五

 コスモが意識をとりかえした時には、女も鏡も失せていた。彼はその以来頭痛を覚えて、数週間のあいだは寝台に横たわっていた。
 彼は理性を回復すると、鏡の行くえについて考え始めた。彼女については、今までの通りに帰ってくれることを望んでいたが、彼女の運命は鏡のうちに含まれていて、鏡と運命をともにしているのである。彼はそれについて更に焦燥を感じた。彼としては、彼女が鏡を持ち去ったとは思われなかった。それが壁にしっかりと取りつけてなかったとはいえ、それを持ち運ぶべく彼女にはあまり重いのである。彼はまたそのときの雷鳴について考えた。彼を打ち倒したものは、雷電いかずちではない、何か他の物であるかのように断定した。何か彼に復讐を企てた悪魔が、自己の安全を図るために、神変不思議の魔力をもってなしたのではあるまいか。それともまた、何か他の方法で彼の鏡が前の持ちぬしのところへ戻ったのではあるまいか。そうして恐るべきことは、またもや他の男に彼女を渡すのではあるまいか。その男は、コスモ以上の魔法の力を所有していて、あのときにためらって鏡を砕き得なかった彼の利己的な不決断を呪うような、しゅじゅの事故を作りはしないであろうか。実際、それらのことを考えて、わが愛する者のために、また自分に自由を求めた女のために、さまざまに心を砕くのは、鏡の持ちぬしたるコスモとしてはある程度までは当然のことである。こうして、コスモの絶えざる観察の上に浮かんでくるすべてのものは、悩める恋びとの心を狂わすにじゅうぶんであった。
 彼は自分のからだの回復を待っていられずに、とうとう外出するようになった。彼はまず、かの古道具屋の老人のところへ、何か他のものを求めにきたような顔をして出かけたのである。鏡のことについてよく知っているおやじの奴めが嘲笑的な顔をしているのが、コスモにもさとられた。しかもコスモは、そこにある家具や器物のうちに鏡を見いだすことはもちろん、またその鏡がどうなっているかを知ることもできなかった。
 老人はその鏡が盗まれたということを聞いて、極度に驚いた。しかもその驚きはいつわりで、内心は平気であるらしいことをコスモは認めた。彼は悲しみを胸いっぱいにいだきながら、それをできるだけ押し隠して、そこらをいろいろに捜してみたが、ついに無効に終わったのであった。
 彼は他人に対して別に何事もこうとはしなかったが、それでも捜索の端緒いとぐちになるような暗示があらば、どんなことでも聞き逃がすまいと、常に聴き耳を立てていた。外出の節は、まんいち運よくかの鏡にひと目でも出逢う時があったらば、その時すぐに打ち割るために、いつも身には短い重い鉄鎚をつけていた。彼にとっては、彼女に逢うことはもはや第二の問題であった。ただ彼女の自由さえ得ることが出来ればそれでいいと思っていた。彼は蒼ざめた幽霊のようにやつれ果てて、自分の失策しくじりのために彼女がどんなに苦しみ悩んでいるかと心をいため尽くして、所所方方をさまよい歩いていた。
 ある晩、町でも最も宏壮なる別邸の一つとして知らるる家の集会にコスモもまじっていた。彼は貧しいながらも、何か自分の捜索を早める端緒を見いだしはしまいかと思って、すべての招待に応じて、その機会を失わないように努めていたのであった。この席上でも彼は何か探り出すことはないかと、洩れきこえる諸人の談話をいちいち聞き逃がさないようにうろつき廻っていた。そうして、会場の片隅で静かに話している婦人の群れに近づくと、ひとりの婦人は他の婦人にこんなことを話しているのが聞こえた。
「あなたはあのホーヘンワイス家のおひいさまが、不思議なご病気でいらっしゃるのをご存じでございますか」
「はい、あのおかたはもう一年あまりもお悪いのでございます。あんなお美しいおかたが、そんな怖いおわずらいをなすっていらっしゃるのは、お気の毒でございますね。つい二、三週間のあいだはたいそうよろしかったようでしたが、またこの二、三日以来お悪いそうで、以前よりもたしかにひどくおなりなすったといいますが、よほどわからないいわれがあるのでございましょうね」
「何かご病気に謂れがおありになるのでございますか」
「わたくしもよくは伺っておりませんけれど、こんな話でございます。一年半ほど前にお姫さまが、お屋敷で何か大事なご用を仰せつかっている老女を、お叱りになったことがあるのだそうでございます。そうすると、その老女は何か辻褄つじつまの合わないおどし文句を残して、そのままいなくなってしまいました。それから間もなくご病気が起こったのだそうで……。そうして、おかしいことには、お姫さまの化粧室に置いてあって、いつもお使いになる古代の鏡が同時にくなっていたのだそうでございます」
 それから婦人たちの話は小さいささやきになったので、コスモはしきりにそれを聞きたいと思っても、もうその以上を知ることは出来なかった。この場合、コスモはかの婦人たちの好奇心のなかに飛び込んで、一緒に話したらよかったかもしれなかったが、彼は驚きのあまりにそれをなし得なかったのである。ホーヘンワイス家の姫の名はコスモもかねて知っていたが、まだその人を見たことはなかった。姫が鏡の中から抜け出した彼女でない限り、コスモは見たことのない婦人であって、かの怖ろしい夜に自分の前にひざまずいた人であるかどうかを、彼は疑わざるを得なかった。彼はなにぶんにも体が弱っているので、今聞いたことのためにひどく心を労して、もうそこに落ち着いてはいられなくなった。彼は表へ出て、自分の下宿にたどりついた。
 姫に近づき得るなどということは夢にも思えないことながら、その住居がわかったことは少なくも彼にとっては喜びである。また、憎むべき監禁状態から彼女を自由にすることが出来たらば、どんなに幸福であろうと思うだけでも、彼には大いなる喜びであった。彼は思いもよらずこれだけのことを知ったように、これからもまた、どんな思いがけないことが近いうちに起こってくるであろうかと待ち望んでいたのであった。

「君は最近にスタインワルドに逢ったかい」
「いや、しばらく逢わないね。あいつは剣闘で僕のいい相手なんだが……。あれが古道具屋から出て来た時に会ったぎりのように思うよ。それ、君と一緒に甲冑かっちゅうを見にいったことがあるだろう。あの店だよ。それはまる三週間まえだ」
 この話でコスモはヒントを得たのであった。フォン・スタインワルドと言えば、向う見ずのはげしい性情の所有者で、大学でもみんなが怖れている男である。さてはあの男が鏡を持っているに違いないと思ったが、コスモにとっては苦手にがてであった。この場合、乱暴な急激手段はいずれにしても成功しそうもない。コスモが望んでいるのは、ただ、かの鏡を打ち割る機会さえとらえ得ればいいのである。それには時を待つよりほかはない。彼は心のうちにいろいろの手段方法をめぐらしてみたが、どれもまとまらなかった。
 とうとうその機会が来た。ある夕方、スタインワルドの家の前をとおると、いくつかの窓にめずらしく賑やかに灯がついているのを見た。しばらく気をつけて見ていると、何かの集まりのために、だんだんに人が入り込んでゆくので、コスモは急いで下宿に帰って、できるだけ贅沢な服装なりをして、自分も他の客にまじってその家の中へ無事に入り込むことを考えた。それには、コスモはその風采からいっても申し分はないのであった。

 この町の別な処にある高楼たかどのの静かな一室に、生きているとは思われない、大理石のような姿をした一人の女が横たわっていた。口を硬くとじ、眼瞼まぶたをたたんでいて、その顔には美しい死が彼女を凍らせているかと思われた。その手は胸の上に置かれているが、呼吸いきもないようである。この死人のそばには、二、三の人が控えていて、人間の声がまだ生き残っているものを破るのを恐るるごとくに、小さくささやいていた。死人の霊魂は人間のすべての感覚がとどき得ない高い所にあるにもかかわらず、女のそばには二人の婦人が、悲しみを押さえるような極めて静かな声で話していた。
「このかたはもう一時間以上もこうしていられます」
「もう長いことはないかと存じます」
「この数週間のあいだに、どうしてこうもお痩せになったのでございましょう。このかたが何かお話しくだすって、なにを苦しんでいらっしゃるのかおっしゃってさえくださればよろしいのですが、お目ざめになっていましても、どうしてもおっしゃらないのでございます」
「昏睡状態になって、なにもおっしゃりませんでしたか」
「何もお聞き申さないのでございます。それでも、このおかたが時どきお歩きになって、ある時などは一時間のあいだもお見えにならなくなったことがあって、お屋敷じゅうの人たちがびっくりなすったそうでございます。その時、このおかたは雨にお濡れになってお疲れと恐れのために死んだようになっていらしったそうで……。その時でさえも、どんなことが起こったのか、なにもおっしゃらなかったそうでございます」
 この時、そばについている人たちは、動かない死人の女の口から聞こえるか聞こえないかの弱い声をきいてびっくりした。つづいて何かしきりにわけの分からないような言葉が出たかと思うと、そのうちに、「コスモ」という言葉が彼女の口から出た。それからしばらくの間、またそのままに眠っていたが、突然大きい叫び声を立てて、寝台の上に飛びあがって、両手を強く握りしめて頭の上にあげ、その眼を大きく輝かして、墓場から抜け出してきた幽霊のように狂喜の叫び声をあげた。
「私はもう自由です。わたしは自由です。あなたにお礼を言います!」
 彼女は寝台の上に身を投げ出して泣いた。それからまたちあがったかと思うと、烈しく部屋のうちをあちらこちら歩きまわって、何か嬉しいようなあきれている様子であったが、やがて呆気あっけにとられている附き添いの者を見返って言った。
「早く、リザ。わたしの外套がいとう頭巾ずきんを持ってきておくれ」
 彼女はまた低い声で言った。
「早くしておくれ、あのかたのところへゆかなければならないから。ゆくなら一緒においでなさい」
 間もなく二人は町へ出て、モルドーに架けられた橋にむかって急いだ。月は中空なかぞらにさえて、町には人の通りもなかった。姫はすぐに侍女のさきへ駈け抜けて、侍女が橋のたもとまで来たときに、彼女はもう橋の中ほどまで渡っていた。
「あなたは自由におなりになりましたか。鏡はこわしました。自由におなりでしたか」
 姫が急いで行く時、彼女のそばでこういう声がきこえたのであった。姫は振り向いて見ると、橋の隅の欄干によりかかって、立派な服装なりをしていながら、白い顔をしてふるえているコスモが立っていた。
「おお、コスモ。わたしは自由になりました。私はいつまでもあなたのものです。私はあなたの処へゆく途中だったのです」
「私もあなたのところへ行く途中でした。死がこれだけのことをさせたのです。私はこの以上どうにも出来なかったのです。私は報われたのでしょうか。私は少しでもあなたを愛することが出来るでしょうか……。ほんとうに……」
「あなたが私を愛していらっしゃることは、わたしにもよく分かりました。それにしても、どうして〈死〉などということをおっしゃるのです」
 その答えは聞かれなかった。コスモは手で横腹を強くおさえていたが、姫はそれをよく見ると、抑えている彼の指のあいだからおびただしい血がほとばしっていた。彼女はいたましさと悲しさが胸いっぱいになって、両手で彼をいだいた。
 侍女のリザが駈けつけて来たとき、姫は蒼白い死人の顔の前にひざまずいていた。その死人の顔は妖魔のごとき月光のもとに微笑を浮かべて――





底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
   2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
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