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世界怪談名作集(せかいかいだんめいさくしゅう)十六

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-27 10:30:27 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       四

 今はコスモもわずらう人となった。その恋に破れた顔色を見て、仲間の学生たちがからかうので、彼はついに教授に出ることをやめて、契約もまた破れてしまった。彼はもう何もいらないと思った。偉大なる太陽の輝いている空も――心のない、ただ燃えている砂漠であった。町を歩いている男も女も、ただあやつりの人形を見るようで、なんの興味もなかった。彼にとってすべてのものは、ただ写真のすりガラスにうつる絶えざる現象の変化としか見えなかった。ただ彼女のみがコスモの宇宙であり、その生命であり、人間としての幸福であったのである。
 六日もつづいて彼女は出てこなかった。コスモはうに決心して、その決心を実行するはずであったが、彼はただ熱情にとらえられて頭を悩み苦しめていたのである。彼は理論的に考えた。彼女の姿が鏡のうちにうつるというのは、鏡に何かの魔力が結びつけられているに相違ない。そこで彼は、今までこういう怪奇なことに関して研究したものについて、あらためて考え直すことに決心した。彼は独りで言った。
「もし、悪魔が彼女を鏡のうちに現出させることが出来るならば、自分が知っている悪魔の話のように、鏡のうちに彼女をうつしたばかりでなく、さらに生きた姿のままを直接に自分の前に現出させてみせそうなものだ。もしも彼女が自分の前に現出して、僕が彼女に対して何か悪いことをしたとしても、それは愛がさせるわざだ。僕は彼女の口から、ほんとうのことさえ聞けばいいのだ」
 コスモは、彼女はこの地上の女に違いはない。地上の女が何かの理由でその影をこの魔鏡のなかにうつしているに相違ないと信じていた。
 彼は秘密の抽斗ひきだしをあけて、その中から魔術の書物を取り出し、ランプをつけて、夜半から朝の三時まで三日もつづいて読み通して、それをノートに書きつけた。それから彼は書物をしまい込んで、次の晩には魔法に必要な材料を買うために町へ出かけたが、彼の求めているものを得るには容易でなかった。なぜといえば、この種の惚れ薬を作ったり、神おろしめいたことをするについて、必要なる合い薬が書物にも完全にしるされていない。またその分量も、自分の痛切なる要求を満たすにとどめておくという限度がなかなかむずかしいからであった。それでも遂に彼は自分の望むすべてのものを求めることができた。彼女が鏡のうちに出て来なくなってから七日目の夕方に、彼は無法な、暴君的な力をかりるべき準備を整えたのである。
 彼はまず部屋の中央にあるものを取りのけてしまった。それから身をまげて自分の立っている周囲に丸い赤い線を引いた。そうして、四隅に不思議な記号しるしをつけ、七と九に関する数字をつけて、その輪のどの部分にも少しの相違もないように、注意ぶかくしらべてからちあがった。
 彼が起つと、教会の鐘は七時を打った。それと同時に、彼女もあたかも初めて現われてきたときのように、気の進まないようなゆるい歩調で、出てきたのである。コスモはふるえた。そうして、鏡から離れて振り返って見ると、彼女は疲れたような蒼ざめた顔をして、何か病気か、心配でもありそうな風情ふぜいである。コスモは倒れそうになって、とても前へは進めなかった。それでもじっと彼女の顔と姿を見つめていると、すべての喜びや悲しみを離れて、ただ胸がいっぱいになって、彼女と語りたい、自分の言うことを彼女が聞いてくれるか、ひと言でいいから返事を聴きたい。彼はもうたまらなくなって、かねて準備した仕事にあわてて取りかかったのである。
 線を引いた場所から注意ぶかく歩いて、線の中央に小さい火鉢を置き、そのなかの炭に火をつけて、それが燃えている間、彼は窓をあけて火鉢のそばに腰をおろしていたのであった。それは蒸し暑い夕方で、絶えず雷鳴がとどろいて、大空が重苦しいように下界の空気をおしつけている日であった。なんとなく紫色をした空気がただよっていて、町の煙霧えんむもそれを吹き消すことが出来ないような、遠い郊外の匂いが窓から吹いて来た。間もなく炭がさかんにおこってくると、コスモはその上に、香その他の材料を混合したものをいた。それから描いた線のなかに歩み寄って、火鉢の所から振り向いて鏡のなかの女の頭を見つめながら、強い魔法の呪文じゅもんをふるえる声でくりかえした。
 それがあまりに長く続かないうちに、彼女は顔を蒼くしたが、波が打ち返すように今度は顔をあからめて、手をもって顔をかくした。彼は魔法をさらに強くつづけた。彼女はって、室内を不安そうにあちらこちら歩きながら、何か腰をおろすものが欲しいように見まわしていた。とうとう、彼女は突然に見つけたようであった。彼女は眼を大きくいっぱいに見ひらいて彼を見つめていたが、なんだか気が進まないようなふうに身を引いて、鏡の近くに寄って行った。
 コスモの眼が彼女に一種の魅力を与えたようであった。コスモは今までこんなに間近く彼女を見たことはなかった。眼と眼とが合うほどまでに近づいたが、それでも彼女の表情は分からなかった。その表情は優しい哀願をこめているものであったが、その以上の、言葉に尽くせない何物かがあった。彼は胸の思いがのどのところまで込み上げて来たが、なにぶんにもまだ魔法を続けていて、その歓喜も焦燥も表にあらわすわけにはゆかなかった。
 彼女の顔に見入っていると、コスモは今までにない魅惑を感じた。突然に彼女はうつっている部屋のうちから扉の外へ歩いていったかと思うと、次の瞬間に彼女は、コスモの部屋に(鏡のうちではない)まことの姿になってはいって来た。
 彼はいっさいの注意を忘れて、そこから飛びあがって彼女の前にひざまずいた。今こそ彼が熱情の夢に描いていた彼女が、生きた姿で雷鳴のたそがれに、魔術の火の輝きのなかにただひとり、彼のかたわらに立っているのである。
「どうしてあなたは、この雨のふっている町を通って、私のような哀れな女を連れて来たのです」と、彼女はふるえる声で言った。
「あなたを恋しているからです。私はあなたを鏡のうちから呼び出しただけです」
「ああ、あの鏡!」と、彼女は鏡を見上げて身をふるわせた。「ああ、わたしはあの鏡のある間は一種の奴隷に過ぎないのです。私がここに参ったのは、あなたの魔術の力だとお思いになってはいけません。あなたが私に逢いたがっていらっしゃることが、私の心を打ったのです。それが私をここへ来させたのです」
「では、あなたは私を愛してくださるのですか」
 コスモは死のように静かな、しかし感情に激してよくは分からないような声で言った。
「それは分かりません。私がこの魔法の鏡のために苦しんでいるあいだは何とも申されません。それでもあなたの胸にいだかれて、死ぬまで泣くことが出来たら、どんなに嬉しいかしれません。あなたが私を愛していてくださることは知っております。いえ、それも分からないのですけれど……。それでも……」
 ひざまずいていたコスモは起ち上がった。
「わたしはあなたを愛しています。どうしてだか、前から愛しています。そのほかにはなんにも考えておりません」
 彼は彼女の手を握ると、彼女は手を引いた。
「いけません。わたしはあなたの手のうちにあるのです。それですからいけません……」
 今度は彼女がコスモの前にひざまずいて泣き出した。
「もしあなたが私を愛してくださるならば、わたしを自由の身にして下さい。あなたからも自由にしてください。この鏡をこわしてください」
「そうしてからも、あなたに逢うことが出来ますか」
「それは言えません。あなたをおだまし申しませんけれど……。もう二度とお目にかからないかもしれません」
 するどい驚きがコスモの胸に起こった。いま彼女は彼の手中にある。彼女はコスモを嫌ってもいない。そうして、逢いたい時はいつでも逢えるのであるが、鏡を毀すということは、彼の真実の生活を破壊することにもなり、彼の宇宙からただひとつの光明を追放することにもなるのである。愛の楽園を見ることの出来るこの一つの窓を失ってしまえば、全世界は彼にとって牢獄に過ぎない。愛に対して不純のようではあるが、彼はその実行をためらったのであった。
 彼女は悲しみながら起ちあがった。
「ああ、あの人は私を愛してはくださらない。私は感じているのに、あの人は愛してくださらない。私はもう自由になれなくともいいから、あの人を愛します」
「もう待ってはいられない」
 コスモはこう叫んで、大きな剣の立っている部屋の隅に飛んでいった。
 もう暗くなっていた。部屋のうちには燃えさしの火が赤く輝いていた。彼は剣のさやを手に持って鏡の前に立ったのである。彼が剣のつかがしらで鏡に一撃をあたえると、刀身は鞘から半分ほど抜け出して、柄がしらは鏡の上の壁を打った。このとき怖ろしい雷鳴が部屋のなかに発して、コスモは二度と鏡を打つことが出来ずに、無意識のままで炉のほとりに倒れてしまった。



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