日本幻想文学集成10 岡本かの子 |
国書刊行会 |
1992(平成4)年1月23日 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
岡本かの子全集 |
冬樹社 |
1975(昭和49)年発行 |
「お旦那の眼の色が、このごろめつきり鈍つて来たぞ。」 店の小僧や番頭が、主人宗右衛門のこんな陰口を囁き合ふやうになつた。宗右衛門の広大な屋敷内に、いろは番号で幾十戸前の商品倉が建て連ねてある。そのひとつひとつを数人宛でかためて居る番頭や小僧の総数は百人以上であつた。その多人数の何処か一角から起つたひとつの話題が、全体へ行き渡るまでには余程の時間がかゝる。そしてその話題によほどの確実性と普遍性がなければ、多くはある一角、または半数、三分の一くらゐなところで、いつも立ち消えになつてしまふ。宗右衛門のこの噂は、いつ、どの辺から起つたのか、どれだけの時間を経て屋敷全体に拡がつたものか判らないが、兎に角今までにない確実性と普遍性とを持つてゐる。その上一同の者に、これほど直接に関係する話題はなかつた。 山城屋宗右衛門のその一瞥で、屋敷の隅々までも見透すほどの鋭い眼光は、彼が江戸諸大名の御用商人として、一代に巨万の富をかち得た偉れた彼の商魂によつて磨き出されたものである。彼が次第に老齢を加へて来ても、容易に衰へなかつたその眼光が、にはかに鈍つた原因として誰も否定し得ない出来事――山城屋の家庭の幸福を根こそぎ抜き散らしてしまつた悲惨な出来事が、最近突然山城屋へ現はれた。 宗右衛門に二人の娘があつた。上のお小夜は楓のやうな淋しさのなかに、どこか艶めかしさを秘めてゐた。妹のお里はどこまでも派手であでやかであつた。宗右衛門の幸福は、巨万の富を一代にかち得たばかりで満足出来なくて、あの春秋を一時にあつめた美貌を二人まで持つたと人々は羨んだ。その二人の娘が――お小夜は十九、お里は十七になつたばかりの今年の春、激しい急性のリヨーマチで、二人が二人とも前後して、俄跛になつてしまつた。人々の驚き、まして宗右衛門夫婦にとつては、驚き以上の驚きであり、悲しみ以上の悲しみであつた。妻のお辻はそれがため持病の心臓病を俄かに重らして死んで行つた。お辻は宗右衛門に添つて三十年、宗右衛門の頑強と鋭才との下をくゞつて、よく忍従に生きて来た。お辻は一日に三度か、四度侍女や乳母にかしづかれる愛娘達の部屋を覗くばかりが楽しみで、だまつて奉公人と共に働いて、別に人から好いとも悪いとも、批判されるほど目立ちもしない性分であつた。が、支へを失つた巨木のやうに、宗右衛門はがつかりとお辻の死顔の前へ座り込んでしまつたのである。俄跛の姉妹のことを呉れ/″\も夫にたのんで逝つたお辻の死顔の蒼ざめた萎びた頬――お辻は五十で死んだのである。 五月下旬の或る曇日の午後、山城屋の旦那寺の泰松寺でお辻の葬儀が営まれた。宗右衛門は一番々頭の清之助や親類の男達に衛られながら葬列の中ほどを練つて歩いた。 今、お辻の寝棺が悠々と泰松寺の山門――山城屋宗右衛門の老来の虚栄心が、ひそかに一郷の聳目を期待して彼の富の過剰を形の上に持ち来らしめた――をくぐつて行つた。宗右衛門には久しぶりに来て見たこの仰々しい山門が、背景をなす寺の前庭の寂びを含んだ老松の枝の古色に何となくそぐはなく見えるのであつた。いつものやうな彼のこの山門に対する誇りと満足とは、決して彼には感じられなかつた。彼はむしろ、そのけばけばしい磨き瓦の艶が、低く垂れた曇天の雲の色に、にぶく抑圧されてゐるのに安心した。彼は腫れぼつたい眼を山門から逸らして、ほつと溜息をついた。彼は門脇の寄進札の劈頭に、あだかもこの寺門の保護者のやうに掲げ出されてある自分の名を、出来るだけ見まいとした。無頓着な老師に先んじて、平常斯うした俗事にまめな世話役某の顔を莫迦/\しく思ひ浮べた。 泰松寺は寺格の高い割りに貧乏であつた。新らしい堂々たる山門に較べて、本堂はほんの後れ毛のやうに古くてみすぼらしい。お辻の棺がその赤ちやけた本堂の畳敷の真中に置かれて、ます/\豊かに立派に見えた。宗右衛門は正座に据つて自分のこの土地に於ける勢力を象徴するものゝやうに、本堂もひしめくばかり集つた大勢の会葬者の群を見廻した。そしてあらためてまたお辻の棺に眼をやつた。その中に横はる蒼く萎びたお辻の死体……彼は、小さくても肉付きのよい顔かたちの人並すぐれてよく整つてゐた若い頃のお辻が、いつの間にか年をとつて、こんなに蒼く萎びたかと、納棺前のお辻の死体の傍で感じたことを思ひ出した。彼はそのとき、ろく/\妻の姿かたちさへ心にとめないで何十年間稼いで稼ぎ抜いた自分が、何となくあさましく思はれたのであつた。 二人の娘を飾るための衣装の費用よりほか――それだけはむしろ宗右衛門自身が進んで出したがる費用でもあつた――何一つ出費の厳しい夫にねだつたこともないお辻の為めに、最後のお辻の衣装である棺を立派にしてやらうと、宗右衛門は思ひ付いたのであつた。角厚な檜材の寝棺をお辻の死体が二つほども這入れるくらゐ広く造つた。家の奥座敷でお辻の死体をそれに入れる時「出し惜しみが急に気張つたのでお辻さんは風邪をひくわい」と兼々気まづかつた親類の一人が、わざと聞えよがしの陰口をきいた。いつもの宗右衛門が、かつと怒るかはりに、成程と思考して死体のまはりの空所に色々なものを詰めてやつた。いつの間にかお辻が丹念に蓄へて置いた珊瑚の根掛けや珠珍の煙草入れ、大切に掛け惜んでゐた縞縮緬の丹前、娘達の別れがたみの人形、宗右衛門自身が江戸の或る大名家老から頂戴した羽二重の褥が紅白二枚、死出の旅路をひとりで辿るお辻の小さな足にも殊更に絹足袋を作つて穿かせ、穿きかへまでも一足添へた。宗右衛門は俄か覚えの念仏をぶつぶつ口のなかで唱へながら、何もかにも手伝つてやつた。するとまた「お旦那も我が折れた。お嬢さん達があんなになりなさつて気が弱つたからだ。」と、どこかで奉公人達が、ひそひそ言ふけはひもしたが(俺はもう誰にも何にも言はぬぞ)観念すれば何事にも意志の強い自分であることを宗右衛門は知つてゐた。そして、それがまた何となく淋しいやうにも感じられて、棺を見つめてゐた眼をしばたゝいた。そのまゝ何もかも黙つてお辻の棺について寺へ来たのである。
[1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页
|