宗右衛門は軽い眩暈を感じて眼を閉ぢた。何か哀願するやうなお辻の声が何処かでした。それから、また、閉ぢた瞼の裏にまざ/\と二人の娘の跛姿が描かれるのであつた。宗右衛門は首をひとつ強く振つて、それをかき消さうとするのであつたが、却つて場面を廻転したいまはしいシーンが、はつきりとあとへ描き出されるのであつた。やはりお辻の棺がまだ寺へ来ぬまへのことであつた。いよ/\家の奥座敷から、それを出さうとする時であつた。幾度も人の尠ない時を見計らつてはお辻の死床に名残をおしみに来た二人の娘が、最後に揃つて庭を隔てた離れ家から出て来た。その時は如何に憚らうにも人は棺の前後にあふれ、座敷の上下に渦をなしてゐた。低声ではあつたが、今まで何となくざわざわしてゐた人々の声が、俄かに静まつた。宗右衛門もふと奥庭の奥深くへ眼をやつた。白無垢のお小夜とお里が、今、花のまばらな梔の陰から出てつはぶきに取り囲まれた筑波井の側に立ち現はれたところである。若い屈強な下婢が二人左右に――姉も妹も痩せ形ながら人並より高い背丈を、二人の下婢の肩にかけた両手の力で危ふく支へて僅かに自由の残る片足を覚束なげに運ばせて来る。黒紋付を着た宜い老婢が一人、小婢を一人随へて、あとから静かに付き添つて来る、……やがて薄い涙で曇つた宗右衛門の眼に、拡大されて映つた二人の娘の姿が、静まり返つた人々の間を通つて、お辻の寝棺の傍に近づいた。宗右衛門はあわてゝ立ち上つた。そして棺に高い台をかふやうに急いで命じた。人々も娘達も呆気にとられた。宗右衛門は娘を其処へ座らせまいとしたのであつた。座ればその下半身は、曲らぬ片足を投げ出したまゝの浅ましい異様なもののうづくまりになるからである。棺は丁度、娘達の胸まで達した。あらためて娘達は棺に近づいた。姉も妹も並んで一所に額付いた……二人の白羽二重の振袖が、二人がなよやかな首を延べて身をかゞめようとするその拍子に、丸い婢の肩を滑つて、あだかも鶴の翼のやうに左右へ長く開いたのである……人々はこの清艶な有様に唾を呑んだ。娘達はそのまゝ黙つてしばらく泣いた。顔を上げた時、二人の頬から玉のやうな涙が溢れ落ちた。御殿女中上りの老婢に粧装られる二人の厚化粧に似合つて高々と結ひ上げた黒髪の光や、秀でた眉の艶が今日は一点の紅をも施さない面立ちを一層品良く引きしめてゐる。とりわけ近頃憂ひが添つて却つてあでやかな妹娘の富士額ひが宗右衛門には心憎いほど悲しく眺められたのであつた。
「ごーん」と低い丸味を帯びた鐘の音が、本堂の隅々まで響いた。夢のさめたやうな宗右衛門の追想が打ち切られた。彼はあわてゝ眼を開いた。読経が始まらうとするのである。泰松寺の老師が、五六人の伴僧を随へて、しづ/\棺前に進み寄つた。宗右衛門は幾度も眼をしばだたいて老師のにび色の法衣をうしろから眺めた。老師の後頭部の薄い禿へ仏前の蝋燭の灯がちらちらとうつつた。宗右衛門はいつもならばひそかに得意の微笑を洩らすのである。老師は宗右衛門より三つ四つ年も若い。宗右衛門にはまだ白髪交りでも禿はない。かなり名の知れた名僧でありながらいつも貧乏たらしいにび色の粗服で、何処かよぼよぼして見えるのが、無信心の宗右衛門にむしろ平常は滑稽にも思はれた。だが、今日の宗右衛門には老師のにび色姿が何となく尊く見える。 「不思議だな、俺も変つたわい」 宗右衛門は腹の中で独り言つた。
夏になつて二人の娘達はいよ/\美しかつた。片輪の身のあはれさが添つて、以前の美しさに一層清艶な陰影が添つた。が、今年もお揃ひの派手な縮み浴衣を着は着ても、最早やその裾から玉のやうな踵をこぼして蛍狩や庭の涼みには歩かなかつた。異様な醜いうづくまりをその下半身にかたちづくつて、二人は離れ家の居室にひつそりとしてゐた。退屈な悩ましい――しかしそれを口にはあまり出し合ひもせず、二人は美しい額の汗ばかり拭いてゐた。 「御覧あそばせな、今朝は紅が九つ、紫が六つ、絞りが四つと白が七つ、それから瑠璃色が……」 老女が小女によく磨いた真鍮の耳盥を竹椽へ運ばせた。うてなからちぎり取られた紅、紫、瑠璃色、白、絞り咲きなどの朝顔の花が、幾十となく柄を抜いた小傘のやうに、たつぷり張つた耳盥の水面に浮んでゐる。この毎朝のたのしみを老女は若い頃の大名屋敷勤めの間に覚えた。 「あ、お旦那が」 小女が老婢の後で言つた。皆、水面に集まつてゐた眼をあげた。古いきびらを着た宗右衛門が母屋へ通ふ庭の小径をゆつくりと歩いて来る。 「お珍らしい」 老女は顔を皺めて微笑した。 「まあ、お父様」 おとなしいお小夜は、たゞうれしくなつかしかつた。俄かに居ずまひを直しにかゝつた。が、敏感なお里は何事か胸にこたへた。お里は、ぢつとしたまゝ黙つてゐた。前庭の一番大きな飛石の上に、宗右衛門は立つて淋しく微笑した。 「まあ、お珍らしい」 老女はひたすら宗右衛門を座敷の方へ招じ入れようとした。 今朝もまた、彼が見る毎に二人の娘の美しさは増して行つた。醜い下半部の反比例をますます上半身に現はすのではないか。皮肉の美しさを、ます/\宗右衛門は見せつけられる。美しい娘達の上半身を見る宗右衛門の苦痛は、醜い下半部を見る苦痛と変らなかつた。 宗右衛門はこの苦痛の為めに、追々娘達の部屋を訪れなくなつたのであつた。母の無いのちの一層たよりない娘達を却つて訪ねて来なくなつたのであつた。 「おとふ様、どう遊ばしました」 お小夜が懐かしげに父親を仰いだ。 「どうも商売の方が忙しくてな。それにお母さんが亡くなつて、家の方もなにやかや……」 ぢつと眼を伏せてゐるお里を見て、宗右衛門はだまつてしまつた。 「おう、朝顔が綺麗だな」 その耳盥から少し視線を上げれば、そこにはお小夜の異様な脚部――宗右衛門はぞつとして、逆に老女の顔を見上げた。 「どうだな、二人とも毎日元気かな」 宗右衛門は四日前の夕方、こゝを訪ねたきりであつた。娘達が忙しいお辻の手から育ての侍女の手に移つてこゝの離れ家に棲み始めて十何年間、朝夕二回の屋敷へ往くさ帰るさ、必ず宗右衛門はこの部屋へ立ち寄つた。時には夜ふけて寝酒の微酔でやつて来る時さへあつたのに、江戸への出入も店の商売もとかく怠り勝ちになつたといふ此頃の忙しさとは何であるか、老女には判り兼ねた。 「お旦那が、このごろ、泰松寺へしげ/\行かれる」 と店の者から、ちらと聞いたが、それにしても娘達に疎遠してまで、妻女の墓参にばかり行かれるとはうけとれなかつた。 「旦那様、泰松寺にまた、御普請でも始まりますか」 「いや何にもない」 宗右衛門は何故かあはてゝ老女の言葉を消した。 「お父様、お掛け遊ばせ」 お小夜は小女に、麻の座布団をとらしてすゝめた。 「あゝ、ありがたう、かまはずにゐて呉れ、わしは直ぐまた出かけなけりやならない」 宗右衛門が庭に面して縁端の座布団へ坐つた時、始めて父親を見上げたお里の鋭い視線を横顔に感じた―― (何もかもお里は勘付いてゐる)
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